第八十三話 春を運ぶ日
庭の雪が消えると、作業室にあった鉢が少しずつ外へ戻された。
朝はまだ冷えるので、何でも出せるわけではない。リシェはイネスに教わった札を確かめ、台車へ鉢を並べた。フィエルは通り道を避け、扉の脇で待っている。
「もう一つ載せられそう?」
「載ります。でも重くて動かせないかもしれません」
「じゃあここまでにしよう」
台車を押すと、車輪が敷居に引っかかった。イネスに少し持ち上げてもらい、庭へ出る。
冷たい風の中に土の匂いがした。
窓際から運び出した鉢を台へ置くと、葉のそばに淡い光が寄ってきた。肩のロギも首を伸ばす。
『外の方が賑やかだね』
『これからもっと増えると思う』
リシェは空いた台車を引き、作業室へ戻った。
机には春の市へ持っていく苗の一覧が置かれていた。
*
「今度はリシェにも説明を手伝ってほしい」
イネスが紙を指した。
並んでいるのは、庭や鉢で育てられる植物だった。食べられる葉や、香りを楽しむものもある。
「私がお客さんに?」
「うん。この辺りなら普段から見ているでしょう。分からないことを聞かれたら、私に回してくれればいい」
秋の祭りでは、客として展示を見に行った。冬は鉢を運んだり、札を並べたりしたが、説明はイネスがしていた。
リシェは一覧を読み直した。知っている名前ばかりでも、人に聞かれて答えられるかは、まだ分からない。
「よく聞かれることはありますか?」
「水をいつやるか。どこに置けばいいか。どのくらい大きくなるか」
「それなら持っていく鉢をもう一度見たいです」
「裏にまとめてあるよ」
イネスは机の紙を持ち上げた。
「私も確認するものがある。一緒に見よう」
*
市の前日、リシェはゼフィの家で、紙を広げていた。
苗につける札の見本だった。植物の名前の下に、育てるときに気をつけることが短く書いてある。
「読んでもいいですか?」
「どうぞ」
ゼフィが椀を置くと、リシェは札を一枚選んだ。
「日当たりのよい場所に置いて、土が乾いたら水をやります。葉は外側から少しずつ採ってください」
「育てたことのない人なら、どのくらい採っていいか知りたいかもしれないね」
リシェは手元の絵を見た。葉が何枚も重なって描かれている。
「一度にたくさん採らず、真ん中の小さい葉を残して……実物を指した方が、分かりやすそうです」
「うん。言葉だけで全部伝えなくてもいい」
窓辺にいたロギが飛んできて、紙の端へ降りた。
「僕も聞いていい?」
「うん」
「鉢をずっと部屋の奥に置いたら?」
「この植物なら光が足りなくなります」
「毎日水をいっぱい入れたら?」
「土がずっと濡れたままになると、よくないです」
「じゃあ全部の葉を食べたら?」
リシェはロギを見た。
「残してって言ったでしょう」
「あはは。ちゃんと聞いていたよ」
ゼフィも笑い、札をリシェへ返した。
「今みたいに相手の質問を聞いてから答えれば、大丈夫だと思うよ」
リシェは紙を重ねた。覚えたことを全部話そうとしていたが、そうしなくてもよいのかもしれない。
足元でフィエルが身を起こした。リシェが鞄を持つと、もう扉へ向かっている。
「帰ろうか」
呼びかけると、フィエルは尾を揺らして待った。
*
春の市が開かれた広場には、土の入った袋や、大小の鉢が並んでいた。
花を選ぶ人の隣で、庭の広さを両手で示している人がいる。台車で苗木を運ぶ人が通ると、周囲から道を空ける声が上がった。
リシェは施設の台へ鉢を置き、葉の向きを整えた。
「この札はこちらでいいですか?」
「うん。そっちの苗にはまだつけないで。二種類あるから」
イネスは別の箱を開いていた。準備が終わる前から人が立ち止まり、並べられた苗を覗き込んでいる。
リシェは手を拭き、台の前へ出た。
最初に声をかけてきたのは、籠を持った女性だった。
「これは窓辺でも育つ?」
「日の当たる窓なら育てられます。どのくらい日が入りますか?」
「朝だけね」
リシェは一度イネスを見た。彼女は隣で別の客と話している。
朝だけなら、十分なのだろうか。
「少し待っていただいてもいいですか。確かめます」
会話の切れ目で尋ねると、イネスは女性に窓の向きや、置ける場所について聞いた。話を聞き終え、隣の苗を示す。
「それなら、こちらの方が育てやすそうです」
女性が選び直した鉢を包む間、リシェは二種類を見比べた。日が当たるかどうかだけでは、決められないこともある。
「聞いてくれて助かった」
客を見送ったあと、イネスが言った。
「売ってから枯れてしまうより、置く場所に合ったものを選んでもらいたいからね」
*
次に来た子どもは、葉に触れてもいいか尋ねた。
イネスに教わったとおり、一枚だけ指で軽く擦ってもらう。
「手の匂いを嗅いでみて」
小さな鼻が指先へ近づき、顔が明るくなった。
「匂いがする!」
「葉に香りがあるの。こっちとは少し違うよ」
二つを比べると、子どもは何度も手を嗅いだ。付き添いの大人にも試してもらい、どちらを育てるか相談を始める。
リシェは鉢を近くへ寄せた。
自分が初めて知ったときも、何度も確かめたくなった。
『そっちの子、君と同じ顔をしてるね』
肩のロギが言った。
『私もあんな顔?』
『知らないものを見つけたときはね』
リシェは返事をせず、包みに使う紙を取った。
選ばれた鉢が台からなくなり、その下に四角く土の跡が残った。
*
昼前、聞き慣れた声がした。
「ちびっこ、今度は店番?」
カイルが台の前に立っていた。
「おかえりなさい。戻っていたんですね」
「昨日な。ギルドへ行ったら、Eに上がったって聞いたぞ」
リシェが財布へ手を伸ばすと、カイルは笑った。
「見せなくても信じるって。おめでとう」
「ありがとうございます」
「南で変な実を見つけた。あとで見せてやるよ」
「食べられるんですか?」
「そっちを先に聞くか?食えるらしいけど、まだ食ってない」
肩のロギが身を乗り出した。
カイルはその嘴の前へ指を出し、軽く動かす。赤い鳥がつつこうとすると引き、もう一度近づけた。
「お前も元気そうだな」
「カイルさん。今、仕事中なので」
「はいはい。邪魔しませんよ」
指を引くと、ロギがカイルの肩へ飛び移った。髪を一房つつかれ、彼は苦笑した。
「そっちから来るのはありなのか」
リシェはロギを呼び戻した。その間にも新しい客が来て、鉢を一つ持ち上げる。
カイルは脇へ寄り、リシェが説明するのを黙って見ていた。
*
午後になると、台の上がずいぶん空いた。
リシェは残った鉢を寄せ、空箱を重ねた。説明の途中でイネスを呼んだ回数も多かったが、自分で答えられたこともあった。
イネスは持ち帰る苗を数え終え、紙へ書き込んだ。
「お疲れさま。よく話したね」
「同じことを聞かれても、答え方が変わるんですね」
「育てる場所も知っていることも違うからね」
広場の向こうで、買ったばかりの鉢を二人で運んでいる親子が見えた。子どもが下から支え、大人が縁を持っている。
さっき葉の香りを比べていた子だった。
リシェは手を振った。向こうも気づいたが、両手が塞がっている。代わりに大きく口を開き、何かを言ってくれた。
人の声に紛れて、聞き取れなかった。
それでもどの鉢を選んだかはよく見えた。
*
片づけの途中で、カイルが戻ってきた。
「運ぶものはまだある?」
「この箱をお願いしてもいい?」
イネスが示すと、彼は空箱をまとめて持ち上げた。
「軽いな。売れた?」
「おかげさまで」
リシェは残った鉢を台車へ載せた。フィエルはイネスの椅子の下から出てきて、前脚を伸ばす。
人の少ない方へ回ってから、四人で施設へ戻った。
途中、カイルが腰の袋から、硬い殻の実を取り出した。
「ほら。さっき言ってたやつ」
リシェの手のひらより少し小さく、表面に深い筋がある。
ロギが肩から覗き込み、フィエルも鼻を上げた。
「これ、どうやって食べるんですか?」
「割るんだってさ」
「何で?」
「そこまでは聞いてない」
イネスが手を伸ばした。
「見せて。中身を傷めずに開けたいね」
「食べる前に調べるのか?」
「どちらもできるだろう?」
施設へ着く頃には、実はイネスの手へ移っていた。
作業室へ運ばれ、布の上に置かれる。リシェも鉢を片づけると、すぐに机へ戻った。
カイルが椅子を引き、フィエルはその下を通ってリシェの足元へ来る。ロギが棚から見下ろす中、イネスは道具を選び始めた。
殻に細い亀裂が入ると、全員が机へ顔を近づけた。
ぱきり、と音がした。
「開いた」
カイルが立ち上がりかけ、リシェも身を乗り出す。
割れ目の向こうから、見たことのない白い中身がのぞいていた。




