第八十二話 刻まれた一文字
カイルが南へ出発したあと、雪の日が増えた。
外の依頼を受ける回数は減ったが、施設の仕事はなくならなかった。庭にあった鉢が建物へ移され、作業室の通り道は少し狭くなった。イネスが棚を見上げて置き場所を考え、トーマが頼まれた台を運び込む。
フィエルの昼寝の場所も、日によって変わった。窓辺が冷える日は机の下へ、暖かい午後には光の当たる布の上へ。イネスはその場所と鉢の状態を見比べ、リシェも気づいたことを残していた。
すぐに答えが出る話ではなかった。それでも、記録は少しずつ増えていた。
*
「今日は飛ばさずに終わろう」
ゼフィの家の庭には、踏み固められた雪が残っていた。リシェは手を下ろし、小さな炎を消した。
「風が強いからですか?」
「それもある。足元が滑ると、狙う前に姿勢が崩れるからね」
靴の下を見ると、炎へ集中している間に片方の足が少しずれていた。
「中で前の報告を見直してみようか」
ゼフィが玄関を開けた。暖かい部屋へ入ると、フィエルは先に布へ向かい、ロギはその背から窓枠へ移った。
リシェが上着を脱いでいる間に、机へ紙が広げられた。凍った水路の報告だった。
取り除いたものと、水が流れ始めた場所。下流で魔獣が出たことは、カイルの説明を聞いて書いていた。
「この段落は自分で見たことではないね」
「はい」
「そこが分かるようにしておこう。読んだ人が君も現場にいたと思うかもしれない」
リシェは紙を引き寄せた。カイルが確認したことと、戻ってから聞いたことを書き分けると、文章が少し変わった。
「うん。これなら、誰に詳しく聞けばいいかも分かる」
筆を置き、直した箇所を読み返す。術を使わない日にも、覚えることはあった。
窓際では、ロギが曇った硝子へ嘴を近づけていた。
『外が見えにくいね』
『曇ってるから』
『君が拭いたら見える?』
リシェが布を持って立つと、ゼフィも窓へ目を向けた。
「少し開けようか。湯を沸かしていたからね」
冷たい空気が入り、ロギはすぐにリシェの肩へ戻ってきた。
*
冬の半ば、ギルドで配達の報告を済ませると、アリサが登録証を返さずに尋ねた。
「リシェさん、今日は少し時間がある?」
「はい」
「昇格について話したいの」
鞄の紐を整えていた手が止まった。
「……私のですか?」
「ええ。こちらへどうぞ」
案内された机には、見覚えのある紙が置かれていた。小道の状態を書いたものに、果樹園での報告。水路の調査の記録もある。
「座ってくれ」
バルドに促され、リシェは浅く腰を掛けた。フィエルは足元へ下りて椅子のそばに座り、ロギも肩の上で静かになった。
「Fで任せた仕事は、続けてきちんと終えている。街外の補助でも、自分の役割を果たしているな。同行した冒険者からも話を聞いた」
「先生から?」
「ゼフィリスと、カイルからだ」
リシェは報告の紙へ目を落とした。自分では、失敗したところも覚えている。小道の目印を書き忘れたし、炎も一度では当たらなかった。
「でも、教えてもらわないと分からないこともありました」
「それはこれからもある。全部を一人でできるようにならなければ上がれないわけじゃない。何を自分で判断して、どこで相談するか。それも見ている」
アリサが一枚の紙を前へ出した。
「Eランクになれば近郊での採集や調査補助など、受けられる仕事が広がるわ。ただし、あなたはまだ十歳。街外の依頼には、引き続き認められた成人冒険者の同行が必要よ」
「はい」
「難しい依頼に補助として参加する場合も同じだ。肩書だけで判断せず、そのつど内容を確認すること」
バルドが続けた。
「それを守って次の仕事を覚えていけるか?」
「覚えたいです。お願いします」
「よし。ではEへの昇格を認める」
*
刻印の更新が終わるまで、リシェは掲示板を見ていた。
Fの依頼はもう何度も読んでいる。その上の段へ目を移すと、染料に使う素材の採集、水辺の生き物についての調査補助、近郊の畑での小動物への対応が並んでいた。
できそうなものもあれば、読んだだけでは難しさの分からないものもある。今までより選べる範囲が増えたのだと思うと、うれしさと一緒に少し緊張した。
『あれは?石を集めるんだね』
ロギが一枚の紙へ顔を向けた。
『種類を見分けられないから、今の私では難しいと思う』
『じゃあ覚えてからだ』
植物を知っていても、すべての採集ができるわけではない。知らない素材は、まだたくさんあった。
「リシェさん」
受付へ戻ると、アリサが台へ登録証を置いた。
「確認してね」
名前も番号も変わっていない。ランクのところだけが、Eになっていた。
手に取り、刻まれた文字へそっと触れる。
「Eです」
「ええ。おめでとう」
その言葉に、ようやく笑えた。
*
ギルドを出てから、ゼフィの家へ向かった。施設へ戻る前に、見せたかった。
扉が開くと、挨拶より先に登録証を差し出した。
「あの、先生」
「上がったんだね」
「はい」
「おめでとう」
ゼフィは中へ招き、湯を沸かし始めた。フィエルが布の上へ乗るとロギは机へ降り、置かれた登録証を覗き込んだ。
「この一文字が変わると、できる仕事が増えるんだね」
「うん」
「今日は何をする?」
「今日は施設へ戻って仕事です」
「いつもと同じ?」
「札を確かめる約束をしているから」
「それも大事な仕事だね」
ゼフィに言われ、リシェは登録証を手に取った。何か、急に違うことをしなければいけない気がしていた。
だが、今日まで続けてきた仕事がなくなるわけではない。次に依頼を選ぶとき、少し広いところまで見ればいい。
机へ置かれた温かい椀を、両手で受け取った。
*
施設へ戻ると、トーマが廊下から顔を出した。
「おかえりなさい。何かいいことがありました?」
「分かりますか?」
「顔がそんな感じです」
登録証を見せると、トーマは文字を確かめて声を上げた。
「E!上がったんですね」
その声で、イネスも作業室から出てきた。
「見せて」
手元を覗き込み、リシェへ目を戻す。
「よかったね」
「ありがとうございます」
「ただ今日は危険な仕事へ出ないで、こっちの札を見てほしい」
「はい。分かっています」
笑いながら作業室へ入ると、机には整理する札が並んでいた。
フィエルを下ろして上着を脱ぎ、ロギが肩から棚へ移るのを待つ。登録証を財布へしまおうとして、少しだけ迷った。
もう一度、見たかった。
机の端へ置き、最初の札を手に取る。植物の名前と採った日付、鉢の記号を確かめて、次の一枚へ進んだ。
ふと顔を上げるたび、Eの文字が目に入った。
そのたびに、口元が緩んだ。




