第七十九話 帰ってきた小さな狩人
最初の霜が降りた朝、フィエルは門の前で足を止めた。地面の白いところへ鼻を近づけ、ひと嗅ぎして顔を上げる。
隣へしゃがんだゼフィが言った。
「冷たいね」
フィエルが前脚で草を踏むと、白いものが崩れ、下から緑が見えた。
もう一度踏む。
少し待ってから、ゼフィが立ち上がった。
「今日は少し遠くまで行こうか」
すぐに顔を向けたフィエルは、リシェと離れて出かけることにも、もう慣れていた。施設の門を振り返りはしたが、そのままゼフィの足元へ戻ってきた。
走る。止まる。向きを変える。
動くものを追っても、呼ばれたら戻る。
秋の間に重ねた練習で、足の運びはずいぶん変わっていた。
ゼフィが道へ出ると、銀白色の体も隣へ並んだ。
*
森の入口では、落ち葉が厚く重なっていた。フィエルが一歩踏み込むたび、乾いた音がする。
木々の間へ目を向けると、草の根元に土の掘り返された跡があった。少し先では、枝が低いところで折れている。
フィエルも気づいたらしく、鼻を下げて歩いた。
「ゆっくり」
声をかけると足が止まり、耳だけが前を向いた。
木の根の向こうで、何かが動いた。
小さな魔獣だった。低い体で土を掻き、落ち葉の下を探っている。
身を沈めたフィエルのすぐ後ろで、ゼフィは周囲を確かめた。ほかの気配はない。逃げ道も、足場も見える。
これまで、獲物へ近づく練習はしてきた。ただ、フィエルは早く走り出しすぎたり、相手の動きにつられたりすることがあった。
今日はまだ動かなかった。
じっと待っている。
顔を上げた魔獣がフィエルを見つけた。小さな口が開き、短い威嚇の声がした。
ゼフィの手が、腰の剣の近くへ下りた。
フィエルは前へ飛び出さなかった。
相手が動く。
その瞬間、横へ跳んだ。さっきまでフィエルのいた場所を、魔獣の体が通る。
銀白色の足が地面を蹴った。
追いつき、噛みつく。
相手が暴れると、一度離れた。
ゼフィは動かずに見ていた。
距離を取ったフィエルの耳は、前を向いたままだった。足が少しずつ横へ動く。
次に相手が突っ込んできたときも、真正面では受けなかった。
落ち葉が跳ね上がる。
短い動きが重なり、やがて静かになった。
フィエルはその場に立っていた。呼吸が速い。口元には土と落ち葉がついている。
「フィエル」
ゼフィの声に耳が動いた。もう一度呼ぶと、銀白色の顔がこちらへ向いた。
近づいて相手が動かないことを確かめ、それからフィエルの前へしゃがんだ。
「よく見ていたね」
手を差し出すと、フィエルが鼻を寄せた。前脚にも、後ろ脚にも、深い傷は見えない。
体を確かめている間も、じっとしていた。ゼフィが顔を上げると、小さな尾が揺れた。
*
その頃、リシェは食堂の端で手紙を読んでいた。
エマからの返事だった。
青い花飾りは、今も鞄についていると書いた。その返事に、エマはうれしかったと書いてくれていた。
オルテンの店であったこと。
アンナに頼まれた手伝い。
マルタが、リシェはちゃんと食べているだろうかと言っていたこと。
文字を追うたび、知っている声が浮かんだ。
最後の方に、フィエルはまだ鞄に入るのか、とあった。
思わず笑った。ちょうど、そのことで困り始めていた。
鞄の布を薄くしても、フィエルが丸くなると口が大きく開く。肩へ掛けたときの重さも増えた。今は空いている通りなら、一緒に歩くこともある。
そのことも、次の手紙へ書こう。
肩でロギが首を傾けた。
『何て書いてあった?』
『フィエルが大きくなったかって』
『なったね。僕の乗る場所も広くなった』
手紙を畳みかけ、また開いた。
エマは、こちらのことをもっと知りたいと書いていた。
植物研究施設の暮らし。
新しくできた友達。
先生に教わっていること。
書けることは、たくさんある。ロギは、いたずら好きな赤い鳥として紹介していた。
『君のことも聞かれたよ』
『いい返事を書いてね』
『髪を引っ張ること?』
『ほかにもあるだろう?』
笑って、手紙を大事にしまった。
*
昼を少し過ぎた頃、フィエルが戻ってきた。
作業室で札を並べていると、戸口で足音が止まり、銀白色の顔がのぞいた。
「おかえり」
声をかけると駆け寄ってきた。いつもなら膝へ前脚をかける。
今日は、その手前で止まった。
背筋を伸ばすように立ち、リシェを見る。
胸へ、強い喜びが届いた。それから、何かを成し遂げた気持ち。
見てほしい。
知ってほしい。
しゃがんで尋ねた。
「何かできたの?」
尾が大きく動いた。
戸口へ来たゼフィが言った。
「今日は自分で魔獣を仕留めたよ」
顔を上げた。
「フィエルが?」
「うん。最初から最後まで」
もう一度、フィエルを見た。口元には拭かれた跡があり、毛も少し湿っている。
前脚へ目を落とし、体の両側を確かめた。
「怪我は?」
「目立つものはない。帰る前にも見たけれど、あとで歩き方を確かめてあげて」
「はい」
顔を近づけると、フィエルの鼻先が頬へ触れた。
できた。
そんな思いが、はっきり伝わった。
言葉が聞こえたわけではない。それでも、何を伝えたいのかは迷わなかった。
「頑張ったんだね」
背を撫でると、フィエルが目を細め、手へ体を寄せた。
肩から降りたロギが、その周りを一度回り、背へ乗りかけた。
銀白色の顔が振り返る。
赤い鳥は、すぐに机へ移った。
『今日はお祝いの方が先だね』
心の中で頷いた。
*
フィエルが休み始めると、ゼフィが今日の様子を話してくれた。
すぐに追わず、待てたこと。
相手を真正面で受けず、避けたこと。
一度離れてから、もう一度狙えたこと。
眠りかけたフィエルへ目を向けた。
「前は走りすぎて止まれなかったのに」
「練習したことが役に立ったね」
ゼフィも頷いた。
「ただ毎回同じようにできるとは限らない。今日はここまでにして、次は体の状態を見てからにしよう」
「はい」
少し考えて、尋ねた。
「先生。次は私も見に行っていいですか?」
ゼフィはすぐには答えなかった。窓の外へ目を向け、それからリシェへ戻す。
「もう少し二人で続けたいんだ」
「……何か理由があるんですか?」
「君と歩いていると、魔獣に会うことが少ない」
手が止まった。
商隊の護衛たちも、同じようなことを話していた。
「フィエルと二人だと今日のように出会う。でも君が一緒の日は、近くで見かけても向かってこないことが多い」
静かな声で、ゼフィが続けた。
「星を宿す子について、ロギが話してくれたことと関係しているのかもしれないね」
机の上の赤い鳥を見ると、二人へ顔を向けて頷いた。
「リシェを感じ取れば、魔獣は害をなそうとはしないよ。そばへ来たがるものもいる」
窓へ目を移した。
自分が知らないところで、出会わずに済んでいた魔獣がいる。姿を見ないまま、通り過ぎていたのかもしれない。
「では私がいると、練習にはならないんですね」
「少なくとも、同じ条件にはならないね。君がそばにいるときにどう動くかは、別に覚えていける。まずは自分で相手を見て判断する経験を重ねようと思う」
頷いた。
少し残念だった。でも、フィエルが頑張っている姿を見たいのは、自分の気持ちだ。
フィエルに必要な練習とは、同じではない。
「帰ってきたら、また教えてください」
「うん」
*
夕方、目を覚ましたフィエルが、リシェのそばへ来た。伸びをして、脚を一つずつ前へ出す。
歩き方に変なところはなかった。
椅子から立つと、すぐについてきた。廊下へ出て、部屋まで歩いた。
「今日はゆっくり休もうね」
扉を閉め、フィエルの布を広げた。
棚には、エマへ返事を書くための紙があった。一枚取って机へ置き、最初に、手紙をもらえてうれしかったと書いた。
次に、フィエルのこと。
大きくなって、鞄が窮屈になってきた。
先生と練習して、前より上手に走れるようになった。
そして今日は――。
少し迷い、足元を見た。フィエルは布に座り、こちらを見上げていた。
得意そうな顔だった。
笑って、続きを書いた。
今日は、自分で魔獣を仕留めて帰ってきました。
とても頑張ったみたいです。
書き終えると、肩のロギが紙を覗いた。
『僕のことは?』
「明日、続きを書くから」
声に出して答えた。
少し考えてから、ロギが肩を離れ、フィエルの背へ移った。フィエルが横になると、赤い鳥も落ち着き、長い尾羽を布の上へ流した。
筆を置いた。
明日書くことも、まだたくさんあった。




