第七十八話 布の上から消えたもの
「リシェ。昨日この布に何を置いた?」
朝、作業室へ入ると、イネスが窓際を指していた。フィエルの昼寝に使っている布だった。
「フィエルです」
「それは知ってる。ほかには?」
近づくと、布の端に種がいくつか落ちていた。細長いものと、小さく丸いもの。
「種?」
「トーマが乾かすものを運んでいて、少しこぼしたらしい。拾ったつもりだったそうだけど」
イネスがしゃがんだ。
「残っていたんだね。これは分けて戻しておこう」
リシェも膝をつき、拾おうとして手を止めた。一粒から、白いものが出ている。
「イネスさん」
「うん」
返事が早かった。同じものを見ていた。
「芽……ですか?」
「根が出始めているように見える」
布に触れた。
乾いている。
昨日、水をこぼした覚えもなかった。
イネスが種を一粒ずつ、別の皿へ移した。芽の出ていないものの方が多い。白い先が見えるのは、ほんの数粒だった。
「いつこぼしたんでしょう」
「昨日の午後。トーマにもう一度聞いてくる」
イネスが立ち上がった。布のそばに残り、フィエルを見ると、銀白色の顔が鞄からのぞいていた。いつもの場所へ降りたそうだった。
「今日は少し待ってね」
*
種は昨日まで乾いた袋に入っていた。
運ぶ前に根が出ていたという記録もない。ただ、小さな種なので、すべてを一粒ずつ見ていたわけではなかった。
「つまり、昨日から出たとは言い切れない」
紙へ書きつけながら、イネスが言った。
「布もずっと乾いていたかは分からない。私たちが見ていない間に何かあったかもしれない」
頷くリシェの前で、皿を分けて置く。
「残っている種も確かめよう。それから布の下と、この辺りの鉢」
記録を取り出した。フィエルがよく眠る側の薬草は、その後も少しずつ葉の張りを戻していた。新芽が伸びた株もある。
でも、すべてではない。同じ台にあっても、変化の少ない鉢があった。
「前に鉢を入れ替えたときは、どうでした?」
イネスが別の紙を出した。
少し前、二つの鉢の位置を交換していた。
調子のよくなっていた株を奥へ。
奥にあった株を、窓側へ。
水や手入れは、変えていない。
「こちらは前ほど変化が目立たなくなったね」
奥へ移した鉢を指し、イネスが続けた。
「窓側に来たものは新しい葉が開いている」
「場所と関係がありそうですか?」
「ありそう。ただ日当たりの影響もある」
その視線が布へ向いた。
「それでも、これまでの記録を合わせるとフィエルのいる場所を外して考えるのは難しくなってきた」
足元を見ると、鞄から下りたフィエルが椅子のそばへ座っていた。いつもの布がないので、どこへ行けばいいのか迷っているらしかった。
*
「フィエルを別の場所で寝かせるんですか?」
少し考えてから、イネスが答えた。
「無理に決めた場所へ置く必要はないよ。好きなところで休んでもらって、その場所を記録しよう」
「分かりました」
「同じ種類の鉢を近くと離れたところに置くことはできる。ただ、それも条件をそろえないといけないね」
紙を机の端へ置いて続ける。
「あと今日はその子をよく見ていてほしい。具合が悪くなっていないか」
顔を上げた。
「フィエルが疲れているかもしれないんですか?」
「もし何かが起きているなら、その子自身に影響がないかも気になる。今のところそういう様子はないけど」
しゃがむと、フィエルがすぐに近づいてきた。背を撫で、脚と顔を見る。
伝わってくるのは、朝の落ち着いた気持ちだった。眠くも、つらくもなさそうだった。
「今は元気です」
「うん。何か変わったら教えて」
皿を手に取り、イネスが言った。
「この種は経過を見よう」
*
その日の午後、リシェはゼフィの家を訪ねた。昨日まで読んでいた本の続きを借りる約束があった。
玄関で話しかけようとして、言葉を止めた。
種のことは、自分だけで説明していいのだろうか。フィエルの正体を、エルネストもまだ分からないと言っていた。
肩の上でロギが首を傾けた。
『気になるなら、イネスに誰へ話していいか聞いてみよう』
頷いたところで、ゼフィが扉を開けた。
「こんにちは。どうしたの?」
「先生。フィエルと植物のこと、イネスさんから聞いていますよね」
「うん。昼寝する場所の近くで、株の調子がよくなっているという話だね」
「今日また気になることがあって。イネスさんに、先生にも話していいか聞いてきます」
リシェの顔を見て、ゼフィが頷いた。
「分かった。急がなくていいよ」
肩から少し力が抜けた。勝手に話さずに済んだことに、ほっとした。
*
結局、その夕方には、ゼフィも作業室へ来ることになった。
種の皿と鉢の記録を見せ、イネスが言った。
「あなたにも相談したい。エルネストにも、あとで話を聞いてもらおうと思っている」
皿へ目を落とし、ゼフィが尋ねた。
「外の人には、まだ?」
「話していない。何が起きたか分からないし、フィエルが関わっているなら軽く広めたくない」
リシェがイネスを見ると、皿から顔を上げた。
「珍しい現象だからといって、その子をどこかへ貸したり、勝手に調べさせたりするつもりはないよ」
「……はい」
フィエルを抱き寄せた。
少し困ったように笑い、イネスが続けた。
「君にそんな顔をさせるなら、最初に言っておくべきだったね」
記録を読み終えたゼフィが言った。
「普段の様子と、植物の変化を並べて見ていこう。フィエルの訓練の日も分かるようにしておくよ」
「助かる」
イネスが頷いた。
棚の上から三人を眺めていたロギは、何も口を挟まなかった。
*
話が終わると、フィエルがリシェの腕から下りた。新しく敷かれた布へ向かい、匂いを確かめる。いつもとは違う、机のそばだった。
何度か足で踏み、くるりと回った。
寝るかと思ったところで、また立ち上がった。リシェの椅子の下へ移り、その靴へ体を寄せて丸くなる。
「そこがいいの?」
小さな耳が動き、安心が伝わってきた。
椅子を引かないよう、少し姿勢を変えた。イネスが机の上の紙へ目を向ける。
「今日の場所はそこだね」
「はい」
鉛筆を持った。
棚の上から降りたロギが、眠りかけたフィエルの背へ乗った。長い尾は、床へ触れる前に持ち上げられた。
『布より君のそばがよかったんだね』
足元を見た。何か不思議な力があっても、寝る場所を選ぶフィエルは、いつもと同じだった。
記録の紙へ、椅子の位置を書き添えた。
その隣には、芽の出た種を載せた小さな皿が置かれていた。




