第七十七話 先生の家
ゼフィが家を借りたと聞いたとき、リシェは手に持っていた札を落としかけた。
「家、ですか?」
「うん。ポルテから少し離れたところに」
作業室へ来たゼフィの調子は、いつもと変わらなかった。イネスが机から顔を上げる。
「ようやくか」
「ようやく?」
「ずいぶん長く宿にいたから。調べ物を広げる場所にも困っていたんじゃない?」
「少しね」
ゼフィが笑った。札を箱へ戻し、その顔を見上げた。
「いつから住むんですか?」
「もう鍵は受け取ったよ。荷物を運ぶところなんだ」
「見に行ってもいいですか?」
「もちろん。仕事が終わったら一緒に行こうか」
肩の上で、ロギが尾を揺らした。
『どんな家かな』
リシェにも、まだ想像がつかなかった。
*
家は、広場から一本奥へ入った通りにあった。
二階建ての小さな家で、玄関の脇に細い木が立っている。葉の半分ほどが黄色くなり、足元には落ち葉が溜まっていた。
ゼフィが鍵を回した。扉が開くと、少し冷えた空気が流れてくる。
「どうぞ」
フィエルを下ろし、中へ入った。一階には机と椅子があり、奥へ続く扉が二つ見える。窓際の棚は、まだ空だった。
床の匂いを嗅ぎながら、フィエルが部屋の端まで歩いていった。ロギも肩から飛び、窓枠へ降りる。
「今はずいぶん静かだね」
ほかに人がいないので、声に出して話していた。
ゼフィが鞄を机へ置いた。
「これから賑やかになると思うよ」
口を開き、本を一冊取り出した。
次に、もう一冊。
さらに紐で束ねられた紙が出てきた。リシェは机の端へ寄り、それを受け取った。
「棚に置きますか?」
「ありがとう。まずはそちらに」
本を運んで戻ると、机にまた本が増えていた。棚と鞄を見比べた。
「まだあります?」
「あるよ」
「全部入っていたんですね」
ゼフィが頷いた。
「この街で読んだものも増えたからね」
棚に並べていくと、題に知らない地名があった。遺跡についての本もある。魔獣の絵が描かれた表紙もあった。
そこで少し手が止まった。
「それはあとで見ていいよ」
背後から言われて振り返ると、ゼフィが笑っていた。
「今読むと荷物が片づかなくなりそうだから」
「はい」
*
次に出てきたのは、長い箱だった。ゼフィが蓋を開け、弓の道具を確かめる。別の包みには、旅で使う鍋や布が入っていた。
布を受け取り、置き場所を聞いた。
物が増えるにつれて、空だった部屋にゼフィの暮らしが見えてきた。
机へ紙を広げられる。
棚から本を取って、また戻せる。
誰かが食事をするたび、片づけなくてもいい。
「ポルテでは机が足りませんでしたか?」
「広げたいものが増えると少し狭かったね。食堂の席をずっと借りるわけにもいかないから」
机へ手を置き、ゼフィが続けた。
「ここなら、調べたことを並べたままにできる」
頷いた。イネスの机が、いつも紙で埋まっている理由も少し分かる。
奥の扉の前では、フィエルが待っていた。
「そこは外へ出られるよ」
ゼフィが開けると、小さな庭が見えた。
草の生えた地面と、家の影。隅には水を流す場所があり、向こうを塀が囲んでいた。
一歩外へ出たフィエルの背に、ロギが降りた。
「ここいいね」
赤い尾羽が揺れた。フィエルは庭を歩き、塀のそばを確かめてから戻ってきた。
リシェも外へ出た。空が、通りより広く見える。
「ここで練習できますか?」
「動く練習ならね。火の術は、これまでどおり開けた場所へ行こう」
頷くと、フィエルの背からロギが言った。
「狙った石ではなく、家に当たったら困るものね」
「はい」
少し前の失敗を思い出して真面目に答えると、ロギが楽しそうに笑った。
*
玄関の方で音がした。ゼフィが戻ると、すぐに聞き慣れた声がする。
「本当に家、借りたんだ」
カイルだった。
部屋へ入ると、カイルが手に持った包みを机へ置いていた。
「ちびっこも来てたのか」
「本を並べていました」
「じゃあ腹減っただろ。これ食べよう」
包みの中から、焼いた生地に肉と野菜を詰めたものが出てきた。まだ、少し温かい。
「ありがとうございます」
「ゼフィリスさんの引っ越し祝い。俺の分もあるけど」
部屋を見回して、カイルが言った。
「宿よりだいぶ広いな」
「本が置けるから助かるよ」
「これでしばらく街にいる?」
「そうなりそうだね」
ゼフィを見た。
しばらく。
その言葉が、家の中で聞くと、いつもより長く感じられた。
椅子へ座ったカイルが、包みを一つ取った。
「俺は明後日からまた外へ行く。護衛で十日くらい」
「遠くですか?」
「ここから南。戻ったら、何か面白い依頼がないか見るよ」
リシェも椅子へ座った。
カイルは出かける。
ゼフィは、この家へ戻ってくる。
同じ街にいる仲間でも、過ごし方は違っていた。
ロギがカイルの肩へ飛んだ。
「お前、食べ物が気になるのか?」
包みを持ち上げたカイルの反対の肩へ移り、髪を軽く引く。
「そっちか。ちょっと待てって」
笑いながら、ロギを呼んだ。
「今は食べてもらおう」
『帰ってきたばかりだと思ったら、また出かけるんだね』
『カイルさんは、いろいろなところへ行くから』
『次は何の匂いをつけて帰ってくるかな』
食べ物を口へ運び、返事の代わりに笑った。
*
カイルが帰ったあと、ゼフィは湯を沸かした。机の包みを片づけ、棚の本をもう一度見た。
「先生。この本、少し読んでもいいですか?」
「うん」
受け取った一冊を開くと、魔獣の絵があった。知らない姿だったが、隣には短い説明もついている。
読み始めると、ゼフィが椀を机へ置いた。湯気が上がる。
足元では、フィエルが眠る場所を探していた。布が出されるとすぐに乗り、丸くなったが、尾の先が少しはみ出した。
それを見たゼフィが、布の端を広げた。
「大きくなったね」
「鞄も狭くなってきました」
「歩ける場所では自分で歩く時間を増やせそうだね。ただ、街の混んだ通りでは、まだ抱いた方がいいかな」
頷いた。
フィエルが目を閉じた。ロギも窓枠へ移り、羽を整え始める。
本へ戻ろうとして、尋ねた。
「先生はこの街を出る予定があったんですか?」
椀を持つゼフィの手が止まった。
「最初に来たときは、調べ物が済んだら別の場所へ行くつもりだったよ」
「そうだったんですね」
棚を見た。
ここへ運ばれた本の数。
机に広げられる紙。
自分とフィエルの練習に付き合ってくれる時間。
「予定を変えたんですか?」
「うん。ここでやりたいことが増えたから」
穏やかな返事だった。リシェが口を開く前に、ゼフィが続けた。
「自分で決めたことだよ」
その言葉を聞き、少し息をついた。
足元のフィエルを見て、ゼフィが言った。
「この子がどこまで動けるようになるかも、見たいしね。君の術も少しずつ変わってきている」
「まだ外します」
「それも含めて、教えがいがあると思う」
顔を上げると、ゼフィが笑った。
「それにこの街での調べ物も終わっていない。しばらくは忙しくなりそうだ」
リシェも、ようやく笑った。
*
帰る頃には、通りの影が長くなっていた。
フィエルを起こすと、寝ぼけた顔で立ち上がった。ロギが肩へ戻り、ゼフィは玄関まで見送ってくれた。
「練習の日はここへ来ていいよ。施設へ連絡したいときも、この住所を使ってもらえばいい」
「はい」
家の場所をもう一度確かめた。
角の店。
玄関の脇の木。
窓の形。
帰り道の目印が、また増えた。
先に歩き出したフィエルが振り返った。ゼフィへ頭を下げた。
「また来ます、先生」
「うん。またね」
扉が閉まる音を聞いてから、通りを曲がった。
肩の上で、ロギが首を傾けた。
『本、読みきれなかったね』
『今度続きを読ませてもらう』
『じゃあ僕も行こう』
頷いた。
次に先生を訪ねるときは、ポルテではなく、この通りへ来る。
歩きながら、棚に戻した本の絵を思い出した。
あの魔獣について、まだ聞きたいことがあった。




