第七十六話 広場いっぱいの秋
祭りの支度は、当日より先に街へやってきた。
通りの上に紐が渡され、色のついた布が吊られる。広場では台が組まれ、いつも荷車を止めている場所へ、屋台が一つずつ並び始めた。
仕事帰りに足を止めると、まだ品物のない台の向こうで、男が大きな鍋を持ち上げていた。
「あれで何を作るんだろう」
『あんなに入れたら、食べきれるのかな』
肩のロギが首を伸ばした。
『たくさんの人が買うんだと思う』
『いろいろ見て回れそうだね』
頷いた。
ポルテでは、リリが何日も前から祭りの話をしていた。どの屋台へ行きたいか、去年は何を食べたか。ニルスに「それは去年じゃなくて、その前」と直されても、話は止まらなかった。
リシェも、午後の仕事を早めに終えられる日を決めた。
その日だけは、ノートより財布を先に確かめた。
*
「フィエル、少し待って」
祭りへ出かける前に鞄の口を広げると、フィエルが前脚を入れ、体を丸めた。
いつもなら、そのまま落ち着くはずだった。今日は何度か向きを変え、尾を外へ出してから、また中へ戻そうとしている。
手を止めた。
「狭い?」
フィエルが顔を上げた。嫌というほどではない。でも、体を収める場所を探しているような気持ちが伝わってくる。
抱き上げると、前よりずしりと重かった。
「大きくなったんだね」
床へ下ろし、鞄の中の布を整えた。折り重ねていた部分を減らすと、少し広くなる。
もう一度入ったフィエルが、今度は横向きに落ち着いた。鼻先と耳が、口からのぞいている。
『君が服を買ったと思ったら、今度は鞄かな』
寝台の端からロギが言った。
『そうかもしれない』
肩へ掛けてみると、重さだけではなく、鞄の膨らみ方も変わっていた。
「今日は人が多いから入っていてね。空いているところで下ろそう」
フィエルの額を撫でた。
ロギが肩へ移り、長い尾羽を背へ流す。リシェは扉を開けた。
*
ポルテの前では、ニルスとリリが待っていた。入口からハンナが三人へ声をかける。
「暗くなる前に一度戻っておいで。あと、お金は一か所で全部使わないようにね」
「分かってる!」
元気に答えたリリの手を、ニルスが取った。
「去年は最初の菓子でなくなっただろ」
「あれはおいしかったから」
「それで次の店の前で泣いた」
「泣いてない!」
リシェが笑うと、リリが腕へ寄ってきた。
「今日はリシェにも教えてあげる」
「うん。お願い」
通りへ出ると、すぐに音楽が聞こえた。
笛と、弦を弾く音。
人の流れに沿って進むと、広場が開けた。屋台の上には色の違う布が張られている。焼いた肉の匂いと甘い蜜の匂いが混じり、その向こうから誰かの笑い声がした。
思わず足を止めかけた。右を見ても、左を見ても、気になるものがある。
リリが手を引いた。
「まず、あっち!」
*
最初の店には、木の実を蜜で固めた菓子が並んでいた。
財布を開いたリリが、銅貨を手のひらへ出した。値札を見て、残りのお金を見る。しばらく考え、ニルスへ顔を向けた。
「半分ずつにしない?」
「最初からそのつもりだったろ」
「嫌?」
「いいよ」
リリが笑った。
リシェも小さいものを一つ買い、三人で広場の端へ寄った。齧ると、木の実がぱりっと砕ける。蜜は甘く、指にも少しついた。
『どう?』
『おいしい。でも歯にくっつく』
『食べるのも簡単じゃないんだね』
笑いそうになり、先に口の中のものを飲み込んだ。
鞄からフィエルが鼻を伸ばしてきた。
「これはフィエルにはあげないよ」
そっと鞄の口を整えた。
食べ終えたリリが、ロギへ指を差し出した。
「来る?」
指に降りかけたロギが、ひょいとニルスの肩へ移った。
「あ、そっち!」
ニルスが顔を向けると、赤い鳥はまた飛び、リリの肩へ降りた。長い尾が頬へ触れ、リリがくすぐったそうに笑った。
*
広場の中央では、輪を投げる遊びに人が集まっていた。離れた台の上に棒が立ち、入った数によって景品がもらえるらしい。
リリが覗き込んだところで、聞き慣れた声がした。
「それ、最後の一本だぞ」
カイルだった。
投げた輪が棒の先へ当たり、跳ねて落ちた。
「あー……」
リシェは隣へ近づいた。
「おかえりなさい」
振り返ったカイルが言った。
「お、ちびっこ。祭りは初めてか?」
「この街では初めてです。いつ戻ったんですか?」
「昨日。間に合っただろ」
落ちた輪を見て、肩をすくめる。
「こっちは間に合ってないけど」
「何回やったんですか?」
「それは聞かなくていい」
店の人が笑いながら輪を回収した。
リリを見て、カイルが尋ねた。
「やる?」
「やりたい!」
ニルスの目が妹の財布へ向いた。中を確かめたリリが頷く。
「一回だけ」
輪を受け取り、線の前へ立った。
一つ目は手前へ落ちた。
二つ目は横へ飛んだ。
カイルが少し身をかがめた。
「腕だけで振らないで、まっすぐ出してみろ」
真剣な顔で三つ目を持ったリリが、輪を投げた。棒へ当たり、一度傾いてから、するりと落ちる。
「入った!」
跳び上がったリリが、小さな木彫りの鳥を受け取り、カイルへ見せた。
頷いたカイルが、得意そうに腕を組む。
「教え方がよかったな」
「カイルさんは入っていませんでした」
リシェが言うと、ニルスが吹き出した。
「ちびっこ。そういうところ、よく見てるよな」
笑うカイルの肩へロギが降りた。髪を一度つつき、木彫りの鳥へ首を伸ばす。
「お前慰めに来たんじゃないのか」
『あの鳥動かないね』
声を出さずに返した。
『木で作ってあるから』
『なるほど。尾が短い』
リリは木彫りを胸へ抱え、大事そうに袋へしまった。
*
広場の奥には、植物を並べた台もあった。見覚えのある鉢を見つけ、近づいた。
研究施設のものだった。向こう側には、イネスがいる。
「来たね」
「イネスさんも出していたんですか?」
「今日は説明の当番。食べられる実と間違えやすいものを並べている」
台の上には、よく似た実が二つの皿に分けられていた。
一度見ただけで指を伸ばしかけ、途中で止めた。葉や枝も添えられている。そこまで確かめてから、一方を示した。
「こちらが食べられるものですね」
「うん。実だけで決めなかったのはいいね」
答えてから、イネスがリシェの服へ目を向けた。
「今日は仕事じゃない。説明は私に任せて遊んでおいで」
少し笑った。
「はい」
「それからその服。袖がちょうどいい」
腕を下ろし、袖口を見た。
イネスが来たばかりの客へ向き直り、リシェも台を離れた。
知っているものを見つけるとうれしい。でも今日は、まだ知らない店へ行く時間もあった。
*
午後が進むと、広場はさらに賑やかになった。台の上では、何人かが楽器を持ち替えている。
最初の音が鳴ると、近くにいた人が顔を上げた。
速い曲だった。
手を叩く人がいる。輪になって足を動かす人もいる。
リリがリシェの手を取った。
「行こう」
「私、踊り方を知らないよ」
「見れば分かる!」
引かれるまま、輪の端へ入った。
隣の人が右へ動いたので、リシェも右へ。
次は左だった。
遅れて足を出すと、リリが笑った。
「そっちじゃない!」
「今右だったから」
「もう変わったの!」
肩から飛び上がったロギの赤い翼が、二人の上を一度回った。
カイルは輪の外で手を叩いていた。ニルスも最初は見ていたが、リリに呼ばれて入ってきた。
次の動きを見ようとして、途中で笑ってしまった。
うまくできなくても、曲は止まらない。誰かが足を間違えると、隣の人も笑う。
リリの手を握り直し、もう一度横へ動いた。
*
ポルテへ戻る頃には、リリの声が少し小さくなっていた。歩く速さも、行きより遅い。
ニルスが手を引き、木彫りの鳥を落とさないか、ときどき袋を確かめている。
カイルは別の通りへ寄ると言って、広場で別れた。ロギはリシェの肩へ戻り、フィエルは鞄の中で眠っていた。
歩くたび、鞄が腰へ当たる。持ち手を少し上げた。
やはり、前より重い。
それでも今日は、自分の足もよく動いた。踊ったあとに広場を一周しても、途中で座り込みたくはならなかった。
宿の扉を開けると、ハンナがこちらを見た。
「おかえり。楽しめた?」
顔を上げたリリが、木彫りの鳥を取り出した。
そこから話が始まった。
輪が入ったこと。
ロギが肩へ来たこと。
踊りの途中で、リシェが反対へ動いたこと。
「それも話すの?」
笑いながら尋ねると、リリが頷いた。
「だって、面白かったから」
ハンナも笑い、夕食まで座っているよう声をかけた。
フィエルを鞄から下ろすと、伸びをした銀白色の体が椅子の脚の間へ入った。ロギも降り、小さくなってその背へ乗る。
フィエルが振り返ると、赤い鳥は何事もなかったように羽を整えた。
窓の外から、まだ音楽が聞こえていた。
リリが木彫りの鳥を机へ立たせようとしている。すぐに倒れたが、ニルスが向きを変えてやると、今度は立った。
頬杖をつき、その小さな鳥を眺めた。
今日買ったものも、見たものも、全部を覚えておけるだろうか。
ノートを取り出しかけたところで、ハンナがパンの籠を運んできた。
鞄を閉じた。
今は、リリの続きを聞こう。
「それでね、次の輪は、ニルスも――」
窓の向こうの音楽に重なって、楽しそうな声が続いた。




