第七十五話 袖の先の秋
「リシェ、腕を伸ばしてみて」
イネスに言われ、持っていた鉢を台へ置いた。
「こうですか?」
両腕を前へ出すと、袖口から手首がしっかり見えていた。イネスが少し首を傾ける。
「その服、前から着ているよね」
「はい」
「袖短くなってない?」
腕を下ろして袖を引くと、今度は肩の辺りが窮屈になった。
「洗って縮んだんでしょうか」
「服のせいだけかな」
頭から足元まで見て、イネスが少し笑った。
「背も伸びたと思うよ」
窓の硝子へ顔を向けた。薄く映った姿は、いつもの自分だった。毎日見ているので、どこが変わったのかは分からない。
でも、袖が前より短いことは確かだった。
「寒くなる前に服を見に行くといい。外で働くなら動きやすさも大事だから」
頷き、袖口へもう一度目を落とした。
*
その日の仕事が終わる頃、トーマが小さな包みと紙を持ってきた。
「リシェさん、こちら。受け取りの確認をお願いします」
机へ置かれたのは、今期の給料だった。紙には支給される額と、部屋代、食事などの費用が並び、その下に差し引いた残りが書かれている。
順番に確かめた。
「これで今度の分も払ったことになるんですよね」
「はい。別に持ってきてもらう必要はありません」
包みを開け、枚数を数えた。
依頼の報酬とは違うお金だった。鉢を見て、記録を書いて、道具を片づけて。その仕事を続けた分が、ここにある。
受け取ったことを書き、銅貨を財布へ入れると、トーマが紙を重ねた。
「イネスさんから、買い物に行くなら明日の午後は空けていいと」
「ありがとうございます」
「僕も新しい上着が欲しいんですよね。去年のもの、肘に穴があいていて」
顔を上げると、トーマが自分の袖を見た。
「今日は違うものです」
先にそう言われ、リシェは笑った。
*
翌日、ポルテへ立ち寄ると、ハンナがリシェの袖を見て頷いた。
「本当だ。来た頃はもう少し長かったね」
「イネスさんにも言われました」
「ご飯を食べてよく動いているもの。育つよ」
当たり前のことのような言い方だった。
袖から出た手を見た。
育っている。
そう言われると、少しくすぐったかった。
「どこで買えばいいでしょうか」
「通りの向こうに普段着を扱う店があるよ。お直しもしてくれる」
「私も行く!」
食堂の奥から、リリの声がした。その後ろでは、ニルスが椀を重ねている。
「お前何を買うんだよ」
「リシェのを見に行くの」
「店で遊ばないならいいよ」
ハンナの言葉にリリがすぐに頷いた。リシェも笑って鞄を持ち直した。
*
店の中には、服が何段にも掛けられていた。棚には畳んだものもあり、奥では店員が布へ針を通している。
入るなり、リリが一枚の服を指した。
「これ、かわいい」
裾に飾りのついた服だった。リシェも見たが、値札を読んでそっと手を離した。
「今日は仕事でも着られるものが欲しいの」
「じゃあ、こっち?」
今度は長い紐のついた服を示した。腰の辺りを見ると採集袋や鞄の紐と絡まりそうだった。
店員が近づいてきた。
「普段着を探しているのかな」
「はい。外を歩いたり、植物を運んだりするので動きやすいものを」
頷いた店員が、別の棚から服を出してくれた。丈夫そうな布で、袖口は広すぎない。しゃがんでも邪魔にならない丈だった。
「一度着てみる?」
奥で着替え、戻ってきた。
腕を上げても、肩はつっぱらない。しゃがむと、膝の辺りにも少し余裕があった。
「どう?」
「動きやすい」
「似合ってる」
迷わず言ったリリに照れながら、壁際の鏡へ向かった。
全身が映る。
亜麻色の髪を肩から払うと、服の形がよく見えた。顔色も、昔より明るい気がした。
森を抜けてオルテンへ着いた頃には、鏡を見るより、食べることや寝る場所を考えていた。
今は、どの服なら仕事がしやすいか選んでいる。
「これにします」
「少し丈に余裕があるから、しばらく着られると思うよ」
頷いた店員へ、代金を渡した。
財布は軽くなった。でも、包みを受け取った腕は少し弾んだ。
*
店を出たところで、リリがリシェの肩を見上げた。
「ロギ、寝てる?」
赤い鳥は羽を膨らませ、目を細めていた。
『起きてるよ。服を決めるのって時間がかかるんだね』
笑いそうになった。
「静かに待ってくれてたね」
ロギが首を伸ばした。リリの指が近づくと、軽く触れてから、反対側の肩へ移った。
「あ、逃げた」
「今はそっちにいたいみたい」
リリが回り込むと、ロギはまた移った。長い尾羽が、リシェの背をなでる。
「ロギ!」
リリの声は楽しそうだった。フィエルも鞄から顔を出し、二人を見ている。
店の前を塞がないよう、リリの手を引いて歩き始めた。
*
帰りに広場を通ると、露店に木の実が並んでいた。丸いものも、細長いものもある。
一つを見て、リリが足を止めた。
「これ好き」
煎った木の実だった。店の人が紙袋へ入れるそばから、香ばしい匂いが漂ってくる。
値段を見た。服を買ったあとでも、小さな袋なら買えそうだった。
「二人で食べる?」
リリが顔を上げた。
「いいの?」
「うん。ニルスにも持って帰ろう」
店の人へ頼み、袋を受け取った。すぐに手を伸ばしかけたリリが、途中で止める。
「フィエルも?」
「今日は私たちの分。フィエルには、いつものものをあげよう」
鞄の中で鼻を動かすフィエルの頭を撫でた。
「帰ったらね」
肩から袋を覗き込み、ロギが言った。
『みんな同じものを食べるわけじゃないんだね』
『うん。食べていいものも、違うから』
『僕の分は気にしなくていいよ』
『でも見るのは好きでしょう?』
『それは好き』
袋の口を少し開き、ロギにも見せてから閉じた。
*
ポルテへ戻ると、ニルスがちょうど食卓を拭き終えたところだった。
「買えた?」
「うん」
リリが先に答えた。
「服も買ったし、これも!」
木の実の袋が机へ置かれると、ニルスがリシェを見た。
「リリがねだった?」
「違うよ。私も食べたかったから」
椅子へ座り、三人で袋を開いた。リリは気に入った形のものを選び、ニルスは殻を割るのがうまかった。
足元では、フィエルが用意してもらった食べ物を口にしている。
ニルスの肩へロギが降りた。
「今度は俺?」
首を傾ける赤い鳥を見て、ニルスが笑った。リリが悔しそうに手を伸ばす。
「私にも来て」
ロギはすぐには移らなかった。リリが手を引くと、少し待ってから、その肩へ飛んだ。
小さな背筋が、ぴんと伸びる。
「……来た」
急に声が小さくなった。その顔を見て、リシェは笑った。
何かを教わるためでも、依頼をこなすためでもない。木の実を食べ、ロギの動きを見て、三人で話す。
話題は、リリが最近見つけた近道から、ニルスが割ってしまった椀へ移り、やがて誰が一番早く殻をむけるかになった。
勝ったのはニルスだった。
リリは不服そうに、次の実を手に取った。
*
夕方、施設の部屋へ戻り、新しい服を棚へしまった。今まで着ていた服は、膝の上へ広げる。
袖は短くなったが、まだ捨てたくはなかった。直して使えるか、今度ハンナに聞いてみよう。
机の端へ降りたロギが、尾羽を外側へ流した。
「今日はよく笑ってたね」
「楽しかったから」
答えて、買った服へもう一度目を向けた。
「明日これを着ようかな」
「イネスは気づくと思う?」
「たぶん。袖を見つけたのも、イネスさんだったし」
足元では、フィエルが布の上へ丸くなった。
窓を閉める前に、庭を見た。朝より冷たい風が、葉を揺らしている。
明日の服は、前より少し大きい。
窓を閉め、袖口から出た手を一度開いた。




