第七十四話 地面から見えるもの
リシェが炎を的へ飛ばせるようになる頃、庭の木の葉が少しずつ色を変え始めた。
近くの的には届いても、離れると途中で消えた。風が強い日は、形を保つだけで精いっぱいだった。
フィエルも、ゼフィと出かける日が増えていた。戻るとすぐに眠ってしまう日もあれば、リシェの前で小さく跳び、何かを見せようとする日もある。
強くなりたい。
その気持ちは、もう迷わず分かるようになっていた。
ある朝、施設へ来たゼフィが一枚の依頼票を見せた。
「一緒に行ってみたい仕事があるんだ」
街の近くにある果樹園で、小さな獣が収穫した実を食べている。倉庫へ入り込む場所を調べ、被害を止める依頼だった。
「獣を捕まえるんですか?」
「必要ならね。まず何が起きているか確かめる。カイルが依頼を受けている。君には、侵入した跡や食べられた実を調べる手伝いを頼みたいんだ」
最後まで読んで頷いた。
「行きたいです。イネスさんに予定を聞いてきます」
*
果樹園へ向かう途中、肩の上でロギが首を伸ばした。
『あの籠、何が入っているんだろう』
通りを横切った荷車には、蓋をした籠が積まれていた。口を開きかけ、閉じた。
『ここからでは分からないよ』
『そうか。少し甘い匂いがしたんだけど』
声は頭の中へ届いた。
ゼフィには聞こえていなかった。ロギは、契約を結んだ二人の間で念話が使えるのだと教えてくれた。
『フィエルとはできないの?』
尋ねると、鞄から顔を出したフィエルへロギが目を向けた。
『そのうちできるようになるよ。今も前より気持ちが分かるんだろう?』
『うん。でも、言葉ではなくて』
『一緒に過ごして絆が深まれば、もっとはっきり伝わるようになる。急がなくていいよ』
それから何度か試し、念話で返事をすることには慣れてきた。それでも、ときどき声が出そうになる。
『今も喋りかけたね』
楽しそうに言われ、答えた。
『まだ間違えるの』
『僕はどちらでも分かるけど、周りの人は不思議に思うかもね』
頷いた。
人前では、ロギが高位精霊だと分かるような話はしない。それは、二人で決めたことだった。
*
「来たな、ちびっこ」
待ち合わせの場所で、カイルが手を上げた。腰には短い剣が二本ある。
リシェが近づくと、その肩へ目を向けた。
「その鳥、前はいなかったよな」
「ロギです。一緒に暮らすことになりました」
首を傾けたロギの長い赤い尾羽が、リシェの背へ流れた。
「きれいな尾だな」
『見る目があるね』
笑いそうになるのをこらえた。
カイルが指を差し出すと、ロギは一度その指を見てから、ひょいと飛んで肩へ降りた。
「おっと」
カイルが顔を向けるより早く、髪を嘴でつつく。
「そこ巣じゃないぞ」
赤い鳥が頭を傾けた。
もう一度、つつく。
「おい聞いてるか?」
『この耳よく動くね』
今度こそ笑ってしまった。
「ロギ。髪を引っ張らないでね」
呼ばれると、ロギがカイルの肩を蹴り、リシェのところへ戻った。
髪を直しながら、カイルが言った。
「ずいぶん慣れてるな」
「いたずら好きなんです」
「見れば分かる」
二人を見て柔らかく笑い、ゼフィが声をかけた。
「そろそろ行こうか」
*
果樹園には、実を摘む人たちがいた。籠を運ぶ人も、枝へ手を伸ばす人もいる。甘い匂いが、風に混じって漂っていた。
持ち主の男性に、倉庫へ案内された。
「夜のうちに入られるんだ。戸は閉めているんだが」
中には、木箱がいくつも並んでいた。奥の箱では実に小さな歯形がつき、床にも食べかけのものが落ちている。
「何匹くらい見た?」
「二匹は見た。追いかけたが、箱の陰に消えてしまってね」
カイルがしゃがみ、箱と壁の隙間を覗いた。ゼフィは入口と窓を確かめる。
リシェは床の実を見た。
「これ、触ってもいいですか?」
「構わないよ」
持ち上げると、片側が大きくかじられていた。汁の乾き方が、箱の中の実とは違って見える。
「これはいつ見つけたんですか?」
「昨日の朝だ。そっちの箱は、今朝」
二つを分けて見た。
被害は一度だけではない。
足元で鼻を動かしていたフィエルが、箱の下を嗅ぎ、壁際へ歩いていった。
その後を追った。奥は暗かったが、低い位置から見ると、板の隙間に外の光が細く差していた。その下に、乾いた葉が引っかかっている。
「ここから入れそうです」
*
カイルが近づいてきた。
「どれ?」
指した場所へ顔を寄せ、板を確かめる。
「狭いな。でも小さいやつなら通れるか」
倉庫の外へ回ったカイルに続こうとして、扉の前で止まった。さっき見たものと同じ葉が、入口に引っかかっている。
実を運んできた籠にも、数枚混じっていた。
「あれ?」
籠を見ると、内側に小さく裂けた跡があった。そのそばに、細い毛がついている。
外からカイルの声がした。
「こっちの穴、枝で塞がってる。最近通ったようには見えないな」
籠を持ち上げた。
「先生。これも見てもらえますか?」
そばへ来たゼフィに、裂けたところと毛を示した。
「葉が壁の隙間だけではなくて、籠にもあります」
「そうだね」
「この籠はどこから来るんでしょう」
持ち主の男性が答えた。
「実を摘むときに使っているものだよ。いっぱいになったら、ここへ運ぶ」
外の木へ目を向けた。
「摘んでいる間は、地面に置くんですか?」
「ああ」
ゼフィがカイルを呼んだ。
「入口とは別の可能性があるね」
籠を床へ置いた。
「獣も一緒に運んでしまったんでしょうか」
*
倉庫の奥へ重ねられた空の籠を調べると、小さな糞が見つかった。カイルが一つを持ち上げると、底には細かくちぎられた草が溜まっていた。
「ここ寝床になってる」
男性が息をついた。
「外から毎晩入っていたんじゃないのか」
「最初は入ったのかもしれないけど、今は住みついてるんだな」
カイルが籠を置き直した。
奥でかさりと音がした。
フィエルを抱き上げた。茶色い小さな獣が、箱の間から顔を出していた。
長い尾と、小さな耳。
魔獣ではなかった。
気持ちは伝わってこない。
人の姿を見た途端、獣が箱の下へ走った。
「そっち塞いで」
カイルの声でゼフィが動き、リシェは言われていた場所へ下がった。
腕の中でフィエルが身を乗り出した。
「今日は待っていようね」
前へ出たがる気持ちが伝わった。それでも、フィエルは腕の中へ収まった。ロギも肩で静かにしていた。
箱が一つ動かされた。
獣が飛び出し、カイルが構えていた籠の中へ入った。蓋が閉まる。
「一匹」
息を吐いて、カイルが言った。
「まだいるな」
次の獣が出てくるまで、倉庫の外で待った。中から短い声と、物を動かす音が聞こえる。
やがてカイルが出てきた。
「三匹いた」
「二匹じゃなかったんですね」
「見えた数だけとは限らないからな」
手についた草を払って続ける。
「籠、よく気づいたな。先に壁の穴を塞いで帰ってたら、今夜も食われてたぞ」
倉庫を振り返った。
最初に見つけた隙間だけで、答えを決めなくてよかった。
*
持ち主の男性は、空の籠を倉庫から出し始めていた。
「実を運ぶ前に中を確かめるよ。こっちの積みっぱなしのものも片づけないとな」
ゼフィが、壁の隙間も直した方がいいと伝えた。今は使われていなくても、別の獣が入るかもしれない。
報告の紙へ、分かったことを書いた。
捕まえた数。
寝床のあった場所。
籠を運ぶ前に、中を確かめてもらうこと。
横からカイルが覗いた。
「ちびっこ、字が丁寧だな」
「あとで読む人が分かるように」
「じゃあ報告は任せた」
「カイルさんも確かめてください」
「はいはい」
笑いながら紙を受け取ったカイルの肩へ、ロギが移った。
「今度は何だ?」
赤い鳥が紙を覗き、手元へ首を伸ばす。
「お前も読むのか?」
『書き忘れていないか、見てあげようと思って』
リシェは口元を押さえた。
「紙、つつかないでね」
こちらへ顔を向けたロギが、尾を揺らした。カイルが読み終えると、またリシェの肩へ戻ってくる。
「忙しい鳥だな」
その言葉に、頷いた。
*
帰り道、ロギはフィエルの背に乗っていた。フィエルが道端の匂いを嗅ごうと止まると、赤い鳥が尾羽を持ち上げる。
銀白色の尾が揺れ、ロギの顔の前を通った。
軽く嘴を伸ばしたロギを、フィエルがすぐに振り返った。赤い鳥は跳び上がり、今度はリシェの肩へ逃げる。
「ロギ」
『ちょっと動いたから気になっただけ』
足元まで来たフィエルが見上げた。嫌がっているというほどではない。でも、何をされたのか気になっているのは分かった。
背を撫でると、また歩き出した。
二人の様子を見て、カイルが笑った。
「仲がいいのか、悪いのか」
「仲はいいと思います」
『もちろん』
胸を張るロギの横顔に、少し笑った。
カイルがフィエルへ目を向けた。
「こいつ、さっき出たがってたよな」
「一緒に何かしたかったみたいです」
「次はこいつにも仕事があるといいな」
「まずはできることを見ながらだね」
ゼフィの答えに頷き、カイルがリシェへ顔を向けた。
「お前は小さい方が都合いい仕事もできそうだな」
「小さい方が?」
「地面の近く。俺は籠の内側なんて、立ったまま見えなかった」
少し考えた。
「しゃがめば見えます」
「まあ、そうなんだけど」
カイルが笑った。
「先に見つけたのは、お前だろ」
返事をする代わりに、ノートを抱き直した。
炎は、まだ小さい。一人で魔獣を倒すこともできない。
でも、今日の仕事で役に立ったものは、強い術ではなかった。
裂けた籠と、そこに引っかかった小さな毛。
見慣れたものの中にも、確かめるべきことがあった。
街の入口が見えてきた。フィエルを呼び、鞄へ抱き上げた。
報告の紙は、折れない場所に入っている。その隣へフィエルが鼻を寄せた。
『読んでみたいのかな』
ロギの声に、心の中で返した。
『そのうち、フィエルにも聞いてみる』
腕の中のフィエルが、リシェを見上げた。
今伝わってくるのは、帰り道の安心だった。
いつかそれが言葉になったら、今日のことも話してみよう。
鞄の口を整え、街へ入った。




