第七十三話 待っているだけではなく
小さな炎が、的の手前で消えた。
伸ばしていた手を下ろした。
「届かなかった」
『さっきよりまっすぐだったよ』
肩の上で、ロギが尾を揺らした。
声は頭の中へ届いた。
最初にそう話しかけられたときは、思わず振り返った。口を動かさずに返事ができると分かってからは、人のいるところでも困らなくなった。
『もう少し先まで飛ばしたかったんだけど』
『途中で的ばかり見て、炎の形を忘れたかな』
頷き、もう一度手を上げた。
施設へ戻ってから、短い練習を重ねていた。炎を生むだけなら前ほど驚かなくなり、形を保つことも少しずつできるようになっている。
でも、狙ったところへ飛ばすと、急に難しくなった。
細くなって消える。
横へ逸れる。
届いても、思った場所とは違う。
今日の的は、草のない地面に置いた小さな石だった。
息を整えた。
「ロギ。お願い」
「うん」
手の上に、炎が灯った。小さいまま、揺れを落ち着かせる。
石のところへ。
意識を向けると、炎が手元を離れた。赤いものが短い距離を進み、石の端に触れて消える。
「あ」
顔を上げた。
「当たった」
「うん。今のは狙いが合っていたね」
少し離れて見ていたゼフィが頷いた。
もう一度、石を見た。大きな炎ではない。石も、ほとんど変わっていない。
それでも、自分が決めたところまで届いた。
足元から、小さな鳴き声がした。
*
フィエルがリシェの前へ出ていた。石へ目を向け、それからロギを見る。
いつもなら練習の間は日陰で休んだり、リシェのそばへ座ったりしていた。
今日は違った。
ロギが的の方へ飛ぶと、フィエルも後を追った。
「フィエル、そっちは待って」
呼ぶと、すぐに止まった。でも、リシェのところへ戻ってきても、また石を見た。
胸へ伝わるものがあった。
喜びだけではない。
落ち着かない、前へ出たがるような気持ち。
しゃがんで尋ねた。
「どうしたの?」
フィエルが顔を上げた。肩へ戻ってきたロギの赤い姿を目で追い、もう一度石へ視線を向ける。
自分も。
そんな思いが、さっきよりはっきり伝わった。
「……フィエルもやりたいの?」
銀白色の尾が動き、胸に応えるような気持ちが触れた。
走りたい、というだけではなかった。リシェとロギが繰り返していることへ、自分も加わりたい。
その中には、そばにいたい気持ちと、何かをしようとする強い思いがあった。
背を撫でた。
「一緒に練習したいんだね」
言葉にすると、フィエルが手へ鼻先を押しつけた。
*
「ゼフィ先生」
呼びかけに、ゼフィが近くへ来た。
「フィエルも何かやりたいみたいです」
ゼフィを見上げたフィエルが、また的へ顔を向ける。
腰を下ろし、ゼフィが尋ねた。
「君も強くなりたいのかな」
差し出された手へ、フィエルが鼻を近づけた。リシェにも、先ほどの気持ちが伝わっていた。
「そうだと思います」
ロギは肩から静かに二人を見ていた。
フィエルの脚へ目を向け、ゼフィが言った。
「走れるようになってから、よく動いているね。まずは体の使い方を見てみようか」
「今からですか?」
「今日は少しだけ。リシェはここで休んでいて」
言われて初めて、肩に力が入っていたことに気づいた。炎を飛ばす練習で思ったより疲れていた。
石のそばへ座って水を飲むと、ゼフィが少し離れた場所へ歩いた。
「フィエル。おいで」
小さな体が駆けていった。ゼフィが横へ動くと、フィエルも向きを変える。
勢いがつきすぎて、足が滑った。それでも踏みとどまり、もう一度追いついた。
「うん。よく走れる」
ゼフィがそこで止まると、フィエルも止まった。少し遅れて尾が揺れる。
胸へ、弾むような喜びが届いた。
*
施設へ帰る道で、フィエルはいつもより前を歩いた。少し進んで振り返り、ゼフィが来るとまた走る。
その背に乗っていたロギも、速度が上がるたびに浮き上がり、結局リシェの肩へ戻ってきた。
「今日は乗り心地が忙しいね」
笑って答えた。
「うれしいみたい」
振り返ったフィエルから伝わる喜びには、さっきできたことを、もう一度やりたい気持ちが混じっていた。
「フィエルを、私と二人で外へ連れていってもいいかな」
ゼフィに尋ねられ、少し足が緩んだ。
「……二人で?」
「短い時間からね。君が施設で働いている間に、動く練習ができると思う」
フィエルを見た。
森で助けてから、ほとんどずっと一緒だった。鞄に入れて歩き、寝るときもそばにいた。
フィエルだけが出かけることは、あまり考えたことがなかった。
「狩りも教えられますか?」
「少しずつなら。まずは走ること、避けること、狙うことから。魔獣を相手にするのは、もっと先だよ」
フィエルへ目を向け、ゼフィが続けた。
「どこまでできるかを見ながら進める。危険な相手へ近づけるつもりはない」
しゃがんで尋ねた。
「フィエル。先生と行ってみたい?」
近づいてきたフィエルが、手を嗅いで頬を寄せた。
安心が伝わる。でも、行きたい気持ちも消えていなかった。
その額を撫でた。
「……帰ってきたら、何をしたか教えてね」
小さな尾が、大きく揺れた。
*
最初にフィエルを送り出した朝、リシェは門までついていった。イネスには、仕事の前に少し外へ出ると伝えてある。
荷物を確かめたゼフィが、フィエルの前へしゃがんだ。
「今日は近くだよ。昼までには戻ろう」
その足元へ寄ったフィエルが、それからリシェを見た。
「いってらっしゃい」
声にすると、急に寂しくなった。もう一度撫でようとして、手を止めた。
昨日も今朝も、十分に撫でた。
ゼフィが立ち上がった。
「行こうか」
フィエルが一歩進む。
振り返る。
手を振ると、またゼフィの方へ向き直った。
銀白色の体が門の外へ出ていく。姿が見えなくなるまで、その場にいた。
『心配?』
『少し』
『ゼフィも一緒だよ』
『うん』
分かっている。
だから送り出した。
それでも足元に小さな姿がないのは変な感じだった。
作業室へ向かった。今日は鉢の記録を終えたあと、標本の札を整理する予定だった。
*
昼前、廊下から足音がした。
続いて、小さな爪が床を打つ音。
顔を上げると、戸口からフィエルが入ってきた。
「フィエル!」
椅子を引いてしゃがむと、まっすぐ駆けてきた。勢いのまま膝へ前脚をかけ、鼻先を頬へ押しつける。
毛に草の匂いがついていた。
「おかえり」
背を撫でると、いくつもの気持ちが伝わってきた。
うれしい。
楽しかった。
少し疲れた。
そして、また行きたい。
どれも前より形が分かるような気がした。
戸口に立ったゼフィが言った。
「よく動いたよ。休ませてあげてね」
「はい。ありがとうございました」
フィエルの体を確かめた。怪我はない。脚にも、痛がる様子はなかった。
「何をしたんですか?」
「今日は方向を変える練習を少し。走るのは速いけれど、止まるときに勢いが残るからね」
頷いた。フィエルはまだ膝へ寄りかかっていた。
肩から降りたロギが、銀白色の背のそばへ留まった。
「おかえり。僕の乗る場所は残ってる?」
フィエルの耳が動いた。
笑っていつもの布を敷くと、フィエルはその上を一度回り、丸くなった。ほどなく瞼が下り、ロギも小さくなって、その背へそっと乗った。
机へ戻る前に、二人をもう一度見た。
今日、自分の知らない時間を過ごしてきたフィエルが、いつもの場所で眠っている。
次に目を覚ましたら、また行きたいと思うのだろう。
ノートを開き、今日の予定の横へ書き添えた。
フィエル、先生と初めての練習。
その下に、少し迷ってから、もう一行。
帰ってきたとき、とても得意そうだった。




