第七十二話 初めての炎
街の結界を抜けるとき、リシェは肩へ目を向けた。
ロギは長い尾羽を揺らし、通りの向こうを眺めている。入口に立つ人も、すれ違う旅人も、赤い鳥には目を向けなかった。
「今は見えていないんですね」
「うん。人が多いからね。まずは君の肩から見てみようと思って」
耳元の声にうっかり返事をしかけ、口を閉じた。誰もいない肩へ話しかけていたら、不思議に思われるかもしれない。
その顔を見て、ゼフィが少し笑った。
「慣れるまでは気を遣うね」
「はい」
フィエルは鞄から顔を出していた。森では自分の足で歩いていたが、賑やかな通りへ入る前に抱き上げた。行き交う足や車輪の間を、小さな体で歩かせるのは難しかった。
肩の上で身を乗り出したロギが尋ねた。
「あれは何?」
指す先には、店先に並んだ色とりどりの布があった。店を確かめ、周囲の声に紛れるくらい小さく答えた。
「布です。服や袋を作るものです」
「ずいぶんいろいろな色があるね」
頷いた。店を眺めている間にも、街路樹の葉の間で光が動いた。
森だけではない。
建物に囲まれた通りにも、精霊はいた。
*
施設へ戻ると、イネスは真っ先に標本を作業室へ運んだ。ゼフィが箱を出し、リシェも札と記録を並べる。採った場所の違うものは、分けて置いた。
「今日はここまで」
そう言ってから、もう一度だけ箱を覗いたイネスに、ゼフィが静かに尋ねた。
「本当にここまで?」
「……記録を確認したら」
笑いながら、使った道具を片づけた。
ロギは作業室へ入ったところで、姿を見えるようにしていた。肩にいる赤い鳥に気づいたトーマが、戸口で止まった。
「その鳥も調査で見つけたんですか?」
「ロギです。一緒に来てくれました」
「ロギだよ」
トーマの目が丸くなった。リシェの肩と、イネスと、ゼフィを順番に見る。
「……話しました?」
「話した」
イネスが答えた。
「火の精霊。しばらくリシェと一緒にいるそうだ」
持っていた紙を胸へ寄せ、トーマが呟いた。
「精霊って…話せましたっけ?」
「紙を落としそうだよ」
ロギに言われ、紙を持ち直した。
鉢を覗き込んだまま、イネスが言った。
「私も最初は食事を落としかけた。トーマ、これはここだけの秘密だよ。分かってると思うが。」
それを聞いて、リシェはまた笑ってしまった。
*
翌朝、ロギはフィエルの背にいた。フィエルが寝床から立ち上がり、足元へ来る。小さくなった赤い鳥も、毛の揺れに合わせて体を動かしていた。
「おはよう」
「おはようロギ。フィエルも」
窓を開けると、庭の葉の間に小さな精霊が見えた。見ようと思わなくても気づくものもあれば、意識を向けて初めて捉えられるものもある。
肩へ移ったロギが尋ねた。
「今日は何をするの?」
「朝は鉢を見ます。それから、持って帰った植物の手伝いです」
「僕も見ていていい?」
「うん」
ノートを持ち、部屋を出た。
いつもの仕事に戻っても、肩には新しい声があった。
*
数日後、午後の仕事を終えたリシェは、ゼフィと施設の外へ出た。
向かったのは、草の少ない開けた場所だった。近くに燃えやすいものがないことを確かめ、ゼフィが立つ位置を示した。
「最初は炎を生むところからにしよう」
頷くと、肩から飛んだロギが目の前へ降りた。
「緊張してる?」
「はい」
「大丈夫。いきなり遠くへ飛ばそうとはしないよ」
赤い鳥が炎の姿へ戻った。その揺れる輪郭を見つめた。
森で枯れ葉を退けてもらったときは、精霊自身が動いてくれた。
今日は違う。
ロギの力を借り、自分で術を使う。
「どうすればいいんですか?」
「まずどんな炎を作りたいか決めよう。大きさは?」
指先を見た。
「……小さいもの。蝋燭くらいの」
「うん。それを手の少し上に」
隣からゼフィが言葉を添えた。
「手に触れさせず、置く場所を思い浮かべてみて」
片手を上げ、そこに炎があるところを想像した。
焚き火ではない。
蝋燭の先に灯る、小さな炎。
「ロギ。力を貸して」
「いいよ」
返事がして、胸の奥に温かな気配が触れた。
息を止めかけ、ゆっくり吐いた。
手の上に、赤いものが揺れた。
ほんの一瞬だった。
細い炎が立ち、すぐに消えた。
「あ……」
空になった手元を見た。
「できた?」
「できたよ」
ロギの返事は明るかった。ゼフィも頷いた。
「今、見えたね」
顔がほころんだ。
自分の手の上に、炎があった。今まで、普通の魔法を使おうとしても、できなかったことだった。
「もう一度やってもいいですか?」
「うん。今度は少しだけ保ってみよう」
*
二度目の炎は、さっきより長く残った。
見つめていると、細く伸びた。大きくなったことに驚いて手を引くと、炎が消えた。
「手を動かす前に消そう」
ゼフィの声に頷いた。
「すみません」
「謝らなくていいよ。今、何が起きたか覚えておこう」
ロギも近づいた。
「大きさが変わってびっくりした?」
「はい。小さいままにしたかったんですけど」
「そこを練習するんだ」
手元を見た。
生むだけでは、足りない。同じ形で、同じ場所に保つことも必要だった。
三度目は、炎が横へ傾いた。風のせいだと思って追いかけそうになり、踏みとどまった。
いったん消し、肩の力を抜いた。息が少し速くなっている。
「ここで休もうか」
「まだできます」
答えてから、自分の手を見た。指先が、さっきより落ち着かない。
ロギが低く浮かんだ。
「できるうちに休むんだよ。今日は初めてなんだから」
迷ったが、やがて頷いた。
座って水を飲むと、疲れていることが分かった。長く歩いたときとは違う。体の内側から、少し力が抜けたようだった。
「これが魔力を使った感じですか?」
「その疲れには、魔力を使ったことも関係していると思う」
ゼフィが答えた。
「力を扱うためにずっと集中もしていたからね。無理をすると、さっきのように形が乱れやすくなる」
頷いてノートを出した。
小さな炎が出た。
大きさを保つのは、難しい。
疲れると、形が乱れる。
書き終えて顔を上げると、ロギが紙を覗いていた。
「初めての炎もそこに入ったね」
「うん」
最初の一行へ目を戻した。
小さな炎が出た。
その短い言葉を、もう一度読んだ。
*
帰り道では、ロギがフィエルの背に乗った。リシェの肩を休ませているらしい。
フィエルが少し速く歩くと、長い赤い尾羽が後ろへ流れた。
二人を見ながら、ゼフィへ尋ねた。
「次はもう少し長く保てるでしょうか」
「少しずつね。今日できたことを、次も同じようにできるか確かめよう」
「はい」
「焦らなくていいよ」
頷くと、前を行くロギが振り返った。
「形が安定したら、狙ったところへ飛ばす練習もできる。まだ先のお楽しみだけどね」
口元が緩んだ。
見えるようになったものがある。
初めてできたこともある。
もっと覚えたいことが、また増えた。
「ゼフィさん」
「何?」
呼びかけてから、少し考えた。
今日も、分からないことを一つずつ教えてもらった。できたときは一緒に見てくれて、休むときも、どうしてなのか説明してくれた。
「……先生って呼んでもいいですか?」
ゼフィがこちらを見た。
「先生?」
「いろいろ教えてもらっているので」
言い終えると、少し恥ずかしくなった。
驚いたように瞬きをしたゼフィが、柔らかく笑った。
「君が呼びやすいなら構わないよ」
「ゼフィ先生」
「うん」
返事を聞き、リシェも笑った。
前方で、ロギが翼を小さく開いた。
「僕も教えたんだけど?」
「ロギにも教えてもらいました」
「じゃあ僕も先生?」
赤い鳥を見た。フィエルの背に乗り、得意そうに胸を張っている。
「……ロギは、ロギがいいです」
「あはは。そうか」
楽しそうに笑って、ロギが前を向いた。
施設の門が見えてきた。鞄の中のノートを確かめる。
今日の炎はもう消えている。
それでも、もう一度灯せるかもしれないと思いながら、門をくぐった。




