第七十一話 炎が選ぶ道
枯れ葉を退けてくれた精霊は、そのあともしばらくリシェのそばにいた。次の株へ移ると、同じようについてくる。
でも、今度は何も動かさなかった。ノートの端を漂い、リシェが描く葉を見ているようだった。
昼を過ぎる頃には、姿が見えなくなっていた。
「帰ったんでしょうか」
「ほかへ行ったのかもしれないね」
火の精霊の答えを聞き、周囲を一度見てからノートへ戻った。
また会えるかは分からない。でも、今日手伝ってくれたことは覚えておこうと思った。
*
二日目の夕食は、初日より遅くなった。
イネスが最後の株を確かめている間に日が傾き、野営場所へ戻る頃には、木の陰が長く伸びていた。
食事を終え、ゼフィの隣へ座った。
「精霊魔法のこと、もう少し聞いてもいいですか?」
「もちろん。何が気になった?」
「ゼフィさんは、風以外の精霊にも力を貸してもらうんですか?」
「私が得意なのは風だよ。精霊術の使い手には、それぞれ相性のいい属性があるんだ」
「火とか、水とか?」
「そう。見える精霊すべての力を、同じように扱えるわけではないんだよ」
そばに浮かぶ赤い炎を見た。
「では、私も調べたら分かるんでしょうか」
「君の場合はどうだろうね」
ゼフィも火の精霊へ目を向けると、炎が待っていたように近づいてきた。
「リシェを同じ分け方に入れようとしている?」
楽しそうな声だった。
「普通の適性とは違う、ということでしょうか」
「そう。星を宿す子にその属性の枠は当てはまらないよ」
顔を上げた。
「風だけ、とかではないんですか?」
「うん。火でも水でもほかの精霊でも。君が関わる相手は一つの属性に限られない」
静かに頷いたゼフィの顔には、昼間、作法を踏まずに精霊が動いたときとはまた違う驚きがあった。
自分の手を見た。
「それなら、いろいろな精霊魔法が使えるんでしょうか」
「使えるようになる可能性はある。でも今すぐ何でもできるという意味じゃないよ」
火の精霊が低く浮かんだ。
「お願いを聞いてもらうことと、借りた力を自分で扱うことは違う。昼間ゼフィが話しただろう?」
「はい。術を使うときは私の魔力も使うんですよね」
「そう。それに練習もいる」
炎の端が、ふわりと伸びた。
「僕が力を貸しても、君が扱いきれなければ困るだろう?」
頷いた。
枯れ葉が動いたときには、自分が何かを操った感じはなかった。何をどうすれば同じことができるのか、まだ分からない。
「では教えてもらって、少しずつ……」
「うん。その方が面白そうだ」
笑ってから、少しためらった。
「私魔力が少なくて、普通の魔法は使えないんです」
ゼフィがこちらへ向き直った。
「精霊術は通常の魔法とは扱い方が違う。ただ魔力を使う以上、無理はできないね」
「君にできるところから試せばいいよ」
火の精霊の声は気軽だった。
「最初から大きな炎を出す必要なんてない。葉っぱを燃やしてイネスに叱られるのも、つまらないし」
「標本は燃やさないで」
少し離れたところで、イネスが顔を上げた。本を読んでいても、そこは聞こえていたらしい。
リシェが笑うと、炎も楽しそうに揺れた。
*
眠る前、今日の出来事をノートにまとめた。
風の精霊が枝を動かしたこと。
自分が頼むと、枯れ葉を退けてくれたこと。
その二つは、同じではなかった。
書き分けていると、火の精霊が覗き込んだ。
「帰ったらそれをどうするの?」
「もう一度読みます。忘れていることがあるかもしれないので」
「読んで終わり?」
「分からないところは本で調べたり、聞いたりします」
ページをめくった。
オルテンで描いた草。商隊で見た品物。アルセインへ来てから覚えた道。
「まだ見たことのないものも、たくさんあるんです」
指を止めた先には、エリオが教えてくれた商品の名前があった。
「この香辛料が育つところもいつか見てみたいです。本にはここよりずっと暖かい場所だって」
「また旅をするつもり?」
「はい。まだ、いつになるかは分かりませんけど」
ノートを見下ろした。
「ここでも、もっと覚えたいことがあります。でもほかの街や森も見てみたいです」
火の精霊は少し黙っていた。
膝へ前脚をかけてきたフィエルは、そろそろ眠りたいらしい。ノートを閉じ、その体を抱き寄せた。
「フィエルも、一緒にね」
銀白色の耳が声の方へ向いた。炎が二人のそばへ降りてくる。
「君たちはずっとそうやって行くんだね」
「そうできたら、うれしいです」
答えると、火の精霊がゆっくり揺れた。
「それは見てみたいな」
*
三日目の朝、荷物をまとめる前に、イネスがもう一度だけ調べたい場所を挙げた。
「昨日の小さい株。花はなかったけど、葉をもう少し比べたい」
「昼までには出発しようね」
「分かってる」
ゼフィへの返事を聞き、写した紙を鞄へ入れた。帰る前に、石造りの跡へもう一度向かう。
初日に来たときとは、道の見え方が違っていた。
木の根元に、小さな光がいる。枝の間にも、かすかな気配がある。
全部は捉えられないが、何もいないと思って歩くことは、もうなかった。
調査を終え、イネスが標本を箱へ収めた。リシェも最後の記録を閉じると、その手元を見ていた火の精霊が言った。
「もう帰るんだね」
「はい」
顔を上げた。炎の向こうに、苔むした石壁が見える。
三日前には、この精霊がいることも知らなかった。ここを離れたら、また会えるだろうか。
「私また来たいです」
「花を見に?」
「花も。それからあなたにも」
火の精霊が少し高く浮いた。
「僕も一緒に行っていい?」
瞬きをした。
「街へ?」
「うん。そのあと君たちがどこへ行くのかも、気になる」
フィエルのそばへ降りた炎が、上がった鼻先を見て楽しそうに一度回った。
「君たちのそばは心地いいし、見ていて飽きないんだ。ここを離れるなら僕も行ってみたい」
「ここにいなくても、大丈夫なんですか?」
「いなきゃいけないわけじゃないよ。気に入っていたから、いたんだ」
明るい答えだった。
「今は君たちと行く方が楽しそうだ」
口元が、ゆっくり緩んだ。
「私も一緒に来てくれたらうれしいです」
*
帰り支度をしていたイネスが、二人を見た。
「一緒に来るの?」
「そうしようと思って。街にはどんな植物がある?」
「施設ならかなりあるよ」
「そっちも見たいね」
少し笑って、イネスが標本の箱をゼフィへ渡した。それをしまってから、ゼフィがリシェと火の精霊へ向き直る。
しばらく考えていた。
呼びかけるたび、相手の姿を探す。これから街でも一緒にいるなら、名前で呼べたらうれしい。
「あの」
赤い炎が近づいた。
「何?」
「名前を贈ってもいいですか?」
ゼフィの手が止まった。火の精霊は、リシェの前で静かに揺れていた。
「僕に?」
「はい。でも名前をつけることが、契約に関係するのか分からなくて……」
一度ゼフィを見た。フィエルに名づけたときのことが、頭にあった。
火の精霊は、リシェが向き直るのを待った。
「僕がその名を受け入れれば、君と契約を結ぶことになる」
「従魔契約ですか?」
「それとは違うよ。君が主人で、僕が従うというものではない」
声が少し落ち着いた。
「一緒にいたいと思う相手から、名前をもらう。僕もそのつながりを受け入れるんだ」
慎重に聞いた。
「お願いを断れなくなったりはしませんか?」
「ならないよ。嫌なことは嫌と言う。君もそうしていい」
肩が緩んだ。
ゼフィが穏やかに尋ねた。
「君自身はどうしたい?」
「一緒に来てほしいです」
火の精霊を見た。
「これからも、いろいろなことを話したいです」
「うん。僕も」
炎が近づいた。
「どんな名前を考えた?」
少し息を吸った。
「ロギ、はどうでしょう」
赤い炎が、ふわりと広がった。
「ロギ」
自分で確かめるように繰り返す。
「いいね。呼びやすい」
リシェの顔を見て、炎が明るく揺れた。
「その名前もらうよ。リシェ」
胸の奥へ、温かなものが触れた。
焚き火に手をかざしたときとは違う。目の前の相手が、少し近くなったような感覚だった。
瞬きをした。
「……ロギ」
「うん」
すぐに返事があった。その短い返事がうれしくて、リシェは笑った。
*
「一緒に歩くなら、こっちの姿にしようかな」
ロギが言った。
炎が細くまとまり、赤い輪郭に翼が生まれる。滑らかな背から、長い尾が伸びた。
尾羽はゆるやかに弧を描き、身を動かすたびに光を受けた。鮮やかな赤の中に、炎の名残のような明るさがある。
小さな、美しい鳥だった。
言葉を忘れて見つめた。
「きれい」
「気に入った?」
「はい」
翼を広げたロギが、リシェの前へ降りた。フィエルが近づいて鼻を動かすと、赤い鳥が首を傾けた。
「同じだよ。さっきの僕」
フィエルがもう一歩近づくと、ロギが軽く飛び上がった。空中で体を小さくし、銀白色の背へ降りる。
フィエルが振り返った。
ロギも顔を向けた。
「少し乗っていていい?」
しばらく背を見ていたフィエルが、やがて前を向き、ゆっくり一歩進んだ。
揺れに合わせて姿勢を変え、ロギが長い尾を少し持ち上げた。尾羽の先が、フィエルの毛の上を滑る。
リシェは笑った。
「フィエル、重くない?」
伝わってくる気持ちに、嫌がる様子はなかった。ただ、背中に何かがいることが、まだ気になるらしい。
もう一度振り返ると、ロギが翼を小さく開いた。
「落とさないでね」
「ロギも、急に乗らないであげてね」
「今はちゃんと聞いたよ」
楽しそうな返事だった。
近づいてきたゼフィが、赤い鳥の姿へ目を向けた。
「その姿でも、普通の人には見えないのですか?」
「僕が見せなければね。今日はイネスにも見えるようにしておくよ」
「ありがとう。見えないと、話しかける場所が分からなくなりそうだ」
そう答えて、イネスが荷物を背負った。
*
出発する前に、石壁を振り返った。紫の花のそばに、小さな光が揺れている。
「またね」
声をかけると、一つがこちらへ漂ってきた。手元を巡り、また花の方へ戻っていく。
その光を見送ってから、歩き出した。
ゼフィが先に道へ入り、イネスが続いた。フィエルはロギを背に乗せ、低い石の前で足を止めた。
飛び越えようと身を沈める。
その前に、ロギがふわりと浮いた。
「こっちへ行こう」
リシェの肩へ降りると、細い足が服をつかみ、長い尾羽が肩の後ろへ流れた。少し背筋を伸ばした。
「ここでいい?」
「はい」
声が、すぐ耳のそばでした。
石を越えたフィエルが、振り返って二人を待っている。リシェもその後を追った。
「施設まで、どのくらい歩くの?」
「まだ少しかかります」
「その間に話して。君が最初に読んだ本のこと」
肩の方へ顔を向けると、ロギが首を傾け、こちらを見ていた。
「古い図鑑です。植物と魔獣が載っていて――」
話し始めると、小さく頷いてくれた。
足元にはフィエルがいる。
肩には、名前を呼べば返事をしてくれる、新しい仲間がいた。
長い赤い尾を揺らしながら、ロギはリシェの話に耳を傾けた。




