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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第七十話 風に頼む声


 夕方になると、イネスはようやく本を閉じた。採った標本を箱に収め、最後に札を確かめる。その隣で、リシェもノートをしまった。


 顔を上げると、森の光が変わっていた。葉の間に見えていた小さな精霊のいくつかが、木の根元へ移っている。昼間は気づかなかった淡い光も、石の陰で揺れていた。


 何度見ても、目を離しにくい。


「帰るの?」

「今夜泊まる場所へ行きます」

「ここではないんだね」


 ゼフィが荷物を持ち上げた。


「少し離れた平らな場所を使います。崩れた壁のそばは避けたいので」

「では、僕も行こう」


 隣へ来た炎に口元を緩め、リシェはフィエルを呼んだ。


     *


 野営の支度は、商隊のときより静かだった。ゼフィがマジックバッグから寝具や道具を出し、イネスが食事の用意をする。リシェは頼まれた場所へ物を運んだ。


 フィエルは荷物の間を嗅いで回り、敷かれた布の上へ座った。鍋を覗き込んでいた火の精霊が尋ねる。


「これも植物を調べる仕事?」

「これは夕食。食べないと、明日も歩けないからね」

「なるほど。さっきまでの君は、食べる時間も惜しそうだったけど」

「よく言われる」


 リシェが笑うと、イネスも少し笑った。


 食事を終える頃には、木々の間が暗くなっていた。膝にノートを置き、今日描いたものを見返した。花の絵の横に、小さな光がいくつもある。


「それが精霊?」


 火の精霊が近づいた。


「はい。でも、うまく描けなくて」

「ずっと同じ形をしているわけじゃないからね」


 炎が紙の上で揺れた。


「僕は?」


 次のページを開いた。赤い炎の形を、何度か描き直していた。


「これです」

「へえ。僕、こんなふうに見えるんだ」


 弾んだ声を聞きながら実物と絵を見比べ、少しだけ線を書き足した。


「明日になったら、また見えなくなったりしませんか?」


 筆を止めて尋ねると、火の精霊が少し低く浮かんだ。


「気づき方はもう知っただろう? 見えにくいときは、今日みたいに意識を向けてみて」


 木陰を見ると、小さな光が一つ、ふわりと動いた。それを見つけて、ほっとした。


「明日はどこへ行くの?」

「石の跡の奥の方です。イネスさんが、まだ見たい場所があるって」

「では、僕も見に行こうかな」

「一緒に来てくれるんですか?」

「うん。今日は、君たちを見ているだけでも面白かった」


 笑ってノートを閉じた。


 眠るとき、フィエルはいつものようにそばへ丸くなった。少し離れたところに漂う火の精霊が、ゼフィと何かを話している。


 穏やかな声を聞きながら、目を閉じた。


     *


 翌朝、最初に確かめたのは、窓のない空だった。木の葉の隙間に青が見え、その下を小さな光が通った。


 起き上がった。


「見えました」

「おはよう、が先じゃない?」


 そばで声がして、赤い炎が近づいてきた。


「おはようございます」

「うん。おはよう、リシェ」


 火の精霊が楽しそうに揺れた。フィエルも体を伸ばし、リシェの膝へ前脚をかける。


 新しい景色は、朝になっても消えていなかった。


     *


 二日目の調査では、昨日と違う場所を歩いた。石壁の奥には低い段差が続き、土に埋もれた石もあれば、根に持ち上げられたものもある。


 ゼフィが足場を確かめ、通れるところを示した。イネスは何度も立ち止まったが、今日はリシェも同じくらい足を止めた。


 花のそばだけではない。雨水の残った窪みにも、倒れた枝にも精霊がいる。


 近づいてくる光へ気を取られ、石につまずきかけると、ゼフィの手が肩を支えた。


「足元も忘れずにね」

「はい……」

「見るものが増えると、忙しいね」


 その言葉に、少し笑った。


 やがてイネスが、崩れた石の向こうを指した。


「あそこにもある」


 紫の花が、枯れ枝の下に見えていた。枝は大きくないが、細いものが何本も絡み合っている。手前の石は傾き、踏むと動きそうだった。


 近づこうとしたイネスを、ゼフィが止めた。


「そこは乗らない方がいい。枝だけ退かせるか、見てみよう」


 周囲を確かめてから片手を上げると、声が低くなった。短い呼びかけを重ね、手を静かに動かす。


 その周りへ集まる光を見た。葉の間にいたものが、ゼフィの手元へ移っていく。


 細い風が生まれた。枯れ葉が浮き、枝の先が持ち上がる。絡み合った枝はゆっくりずれ、花を避けるように脇へ退いた。


 息をのんだ。


 風が収まると、小さな光も散っていった。


「ありがとうございます。これなら見える」


 しゃがんで花へ顔を近づけたイネスのそばで、リシェはゼフィを見上げた。


「あの子たちが動かしてくれたんですか?」


 ゼフィの手が下りた。


「見ていたんだね」

「はい。手のところへ集まって、それから、枝が……」

「今のは精霊魔法だよ。風の精霊に協力してもらったんだ」


 もう一度、枝の動いた場所を見た。


「ゼフィさんの魔法は、精霊の力なんですか?」

「今使ったものはね」


 隣で、火の精霊がゆっくり揺れていた。


     *


「私の魔力を代償にして、精霊の力を借りる。そのために、呼びかける作法を使うんだ」

「お願いすれば、誰でも使えるんですか?」

「適性が必要だよ。それから、借りた力を扱う練習も。もちろん、精霊が協力してくれることが前提だね」


 自分の手を見た。


「精霊が見えるだけでは、だめなんですね」

「うん。見えることと、術を使うことは別なんだ。ただ、相手がどこにいるか分かれば、教わるときの助けにはなると思う」


 手元を漂う光へ目を向けた。


 自分には、魔法が使えない。それでも、精霊の力を借りる方法は、自分の魔力だけで使う魔法とは違うらしい。


 もっと聞きたいと思ったところで、イネスに呼ばれた。


「リシェ。この株、昨日のものと比べてみて」

「はい」


 ノートを出し、隣へしゃがんだ。花はよく似ていて、葉の大きさもそれほど違わない。


 ただ、株の根元へ細かい枯れ葉が重なっている。さっき枝を退かしたときに、落ちたものもあるようだった。


 下の葉を見ようと顔を傾けると、指で触れる前に、小さな光がその上へ止まった。


「そこ、少し見せてくれる?」


 何気なく声をかけた。


 枯れ葉が、ふわりと浮いた。指は、まだ届いていなかった。


 浮いた葉はくるりと回り、株の外へ落ちる。もう一枚も、続いて動いた。


「え?」


 手を止めた。花の周りに、小さな光が集まっていた。細い風が足元を通り、根元を覆っていた枯れ葉が少しずつ脇へ寄っていく。


 イネスも顔を上げた。


「ゼフィリス?」

「今のは、私ではないよ」


 こちらを見ていたゼフィを、リシェも振り返った。


「私、まだ何もしていません」

「頼んだだろう?」


 火の精霊が楽しそうに言った。


「見たいんだね、って。それで、手伝ってくれたんだよ」


 花のそばへ目を戻した。小さな光が、ノートの方まで近づいてくる。


 胸へ触れたのは、弾むような気持ちだった。


「ありがとう」


 囁くと、光が指先を巡った。


     *


 しばらく株の周りを見ていたゼフィが、リシェの隣へしゃがんだ。


「何と頼んだの?」

「そこを少し見せてって」

「それだけ?」


 頷いた。さっきのゼフィのように、手を動かしてはいない。呼びかけの言葉も知らなかった。


「今のは、私も精霊魔法を使ったんですか?」

「いいえ。精霊が自分でしてくれたんだよ」


 退けられた枯れ葉を見て、ゼフィが続けた。


「君が力を借りて動かしたわけではない。だから、君の魔力を使った術とは違う」

「お願いを聞いてくれたんですね」

「そうだね」


 その返事のあとに、少し間があった。火の精霊が二人の間へ近づく。


「あはは。星を宿す子に頼まれたら、手伝ってみたい子はいるだろうね」


 小さな光を見た。


「でも、何でもお願いしていいわけではないですよね」

「もちろん。嫌なら断るし、できないこともあるよ」

「今のは大丈夫だったんでしょうか」

「本人たちを見てごらん」


 光はまだ手元にいた。喜びに似たものも伝わってくる。


 少し安心して、もう一度礼を言った。


 株とリシェを交互に見ていたイネスが、やがてノートを指した。


「せっかく見せてもらえたなら、記録しようか」

「あ、はい」


 筆を持ち、見えるようになった下の葉を描いた。枯れ葉に隠れていたことも書く。その横で、火の精霊が紙を覗き込んでいた。


「手伝ってもらったら、もっと見るものが増えたね」

「はい。ここにも、小さい葉がありました」

「へえ。本当だ」


 炎が低くなり、リシェと一緒に株を覗いた。イネスが本を開き、ゼフィは周囲を確かめるために立ち上がった。


 最後の線を書き終えてから、花の周りを見た。小さな光の一つは、もう石の陰へ戻っていた。別の一つは、ノートの端に残っている。


 次のページを開くと、その光もついてきた。

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