第六十九話 世界に色が増えた日
葉のそばにいた光が、リシェの手元へ近づいてきた。ノートの端を越え、指先の上で止まる。
筆を動かすのをやめた。小さな光の中に、何かの形が見えた気がした。でも、目を凝らすと輪郭がほどけてしまう。
「触ってもいいんでしょうか?」
「嫌なら離れるよ。まずは、そのまま待ってみて」
火の精霊の答えに、手を開いた。光が指の間を通り、手のひらの上へ移る。
重さは感じなかった。ただ、胸の奥に、くすぐったいような喜びが触れた。
「うれしい?」
「君の方はどう?」
問い返され、顔を上げた。
「私も、うれしいです」
「じゃあ、似た気持ちなのかもしれないね」
火の精霊が楽しそうに揺れた。
足元には別の光が来ていた。淡い緑色のものが二つ、フィエルの耳のそばを漂っている。一度鼻を近づけたフィエルが、リシェの隣へ座った。
肩の近くにも、何かがいる。顔を向けると、薄い金色の光がゆっくり上下していた。
「私の方に、来ます」
「君のそばが心地いいんだよ」
少し離れた場所へ浮かび、火の精霊が続けた。
「ほら、あっちからも。星を宿す子が来たんだもの。近くで見てみたいんだね」
石の隙間にいた光が、一つ、また一つと近づいた。すぐそばまで来るものもいれば、途中の葉に留まるものもいる。リシェの周りを一度回り、また木陰へ戻っていくものもあった。
ノートを胸に寄せ、ゆっくり見回した。
花の周りだけではなかった。
苔の間に、淡い光がある。木の枝の先で、青白いものが揺れている。葉が動いていないところにも、小さな何かが漂っていた。
森は、こんな場所だったのだろうか。
今まで何度も歩いてきた。地面へ目を向け、葉を返し、花の名前を調べてきた。それでも、そのすぐそばにいるものを知らなかった。
赤い炎へ目を戻すと、さっきまで曖昧だった輪郭も、今はずっと捉えやすくなっていた。
光と形が、少しずつ重なっていく。
見慣れた緑の間に、淡い金色や青白い光が揺れていた。苔むした石にも、乾いた枝にも、目を留めたいものがある。
同じ森に、色が増えたようだった。
*
「ゼフィさんにも、見えますか?」
尋ねると、ゼフィがリシェの手元へ目を向けた。
「どの辺りにいる?」
「ここです。指の上に」
手を少し持ち上げると、小さな光が驚いたように離れ、すぐにまた近づいた。
静かに見ていたゼフィが言った。
「かすかに、光が見えるね。ただ、君が見ているほどはっきりとは、捉えられていないと思う」
「肩のところにも、います」
「そちらは……分からないな」
肩のそばの光へ目を向けた。自分には、そこにいるのが分かる。
ゼフィも同じ景色を見ているのだと思っていた。
「エルフでも、小さな精霊までいつも見えるわけじゃないよ」
火の精霊が言った。
「君は、気づいてからが早いね」
「さっきまで、見えなかったのに」
「意識したことがなかったんだろう? 見えるもののそばに、ほかにも誰かがいる。そう分かるだけで、変わることがある」
もう一度森を見た。少し視線を動かすと、光が葉の陰へ消える。意識を向け直すと、そこにいると分かる。
まだ、いつでも同じように見えるわけではなかった。
「全部を追いかけなくても大丈夫」
近づいてきた火の精霊が言った。
「君、今にも首が疲れそうだ」
自分がずっと顔を動かしていたことに気づいた。ゼフィが小さく笑う。
「少し座ろうか」
壁のそばの石へ腰を下ろすと、フィエルも足元へ来た。小さな精霊たちは、思い思いの場所へ散っていった。それでも、近くの草や膝の上には、まだいくつかの光が残っている。
その辺りを見つめてから、ゼフィが火の精霊へ顔を向けた。
「先ほどの呼び名について、伺ってもよろしいでしょうか」
「星を宿す子?」
「はい」
リシェも顔を上げた。
二人の間へふわりと移り、火の精霊が答えた。
「精霊や魔獣と、心を通わせられる子のことだよ。とても珍しいんだ」
「瞳に、星が現れることとも関係が?」
「うん。でも、目を見て分かったわけじゃないよ」
炎がリシェのそばで揺れた。
「君たちがここへ来たときから、分かっていた。僕たちには、星を宿す子だと自然に分かるんだ」
膝の上で指を重ねた。
「ほかの精霊も?」
「もちろん。君が気づく前から、近くに来ていた子もいるよ」
手元へ目を落とすと、小さな光がノートの端を漂っていた。初めて見えたと思ったときには、もうそばにいた。
「私だけじゃ、ないんですか?」
「君が初めてというわけではないよ。でも、そうそう会える相手じゃない。僕も、会えるとは思っていなかったんだ」
ゼフィの表情が静かになった。
「この子の感覚は、従魔契約によるものとは別なのですね」
「契約していない相手でも感じるだろう?」
問いかけられ、リシェは頷いた。
「魔獣の気持ちが、分かることがあります。でも、全部ではなくて」
「うん。相手によっても違うし、君もこれから知っていくんだろうね」
手元を漂う光を見て、火の精霊が続けた。
「星を宿す子だからって、みんなが何でも教えてくれるわけじゃないよ。近くにいたい子もいれば、見に来ただけの子もいる」
言葉の途中で、一つの光が膝から離れた。石壁の向こうへ漂い、そのまま見えなくなる。
その光を見送った。
そばが心地いいことと、ずっと一緒にいることは違うのだ。
ゼフィが火の精霊へ礼を言った。でも、その目にはまだ尋ねたいことが残っていた。
*
「あなたも、ここにずっといるんですか?」
「ずっとではないよ。今は、ここが気に入っているんだ」
「どうしてですか?」
「静かだし、ときどき面白いものが来る」
炎が少し高く揺れた。
「今日は、君たち」
リシェは笑った。
「私たちは、花を調べに来ました」
「見ていたよ。二人とも、ずいぶん熱心だった」
「あっちにいるのが、イネスさんです。植物を調べる人で」
壁の向こうでは、イネスが地面へ顔を近づけていた。一つの株を見たあと、少し移動して別の株を確かめている。こちらの出来事には、まったく気づいていなかった。
「私はリシェです。こちらはフィエル」
「リシェと、フィエル」
一つずつ繰り返した火の精霊が、低くなってフィエルの前へ降りた。少しの間、銀白色の顔を眺めている。
「君も一緒なんだね」
フィエルが鼻を近づけると、楽しそうに揺れ、それからリシェの目の高さへ戻った。
「こちらのエルフは?」
「ゼフィリスです。リシェには、ゼフィと呼んでもらっています」
「では、僕もゼフィでいい?」
「はい」
「また、かしこまった」
火の精霊が笑った。リシェも口元を緩めてから、尋ねた。
「あなたのお名前は?」
「君たちに名乗る名前は、今はないんだ」
「ないんですか?」
「なくても、ここでは困らなかったからね」
少し考えた。何かを尋ねたいとき、名前があると呼びやすい。
でも、思いついたものをそのまま口にするのはためらわれた。フィエルの契約についても、まだ分からないことがある。
顔を覗くように、火の精霊が近づいた。
「何か考えた?」
「名前があったら、呼べるなと思って」
「今は、僕を見て話してくれれば分かるよ」
そう答え、炎が少し離れた。
「それより、君たちはいつまでここにいるの?」
「明後日までです。二晩ここで泊まって、調べてから帰ります」
「へえ。では、まだ時間があるね」
声が弾んだ。
「僕も一緒に見ていていいかな。君が何を見つけるか、気になる」
顔を上げた。
「はい。私も、聞きたいことがあります」
「よかった。僕もだよ」
*
「リシェ?」
イネスの声に顔を上げると、壁の向こうで立ち上がっていた。
「その株の記録、終わった?」
ノートを見た。花の絵の隣に、小さな光を描き足したところで止まっている。
「まだです。すみません」
「急がなくていい。終わったら、こっちも見てほしい」
そう言って、イネスがまたしゃがんだ。
その方へ動きながら、火の精霊が言った。
「本当に、花しか見ていないね」
楽しそうな声に、少し笑った。
「イネスさんには、見えていないんですよね」
「うん。僕が姿を見せれば、見えるけど」
炎が戻ってきた。
「今、話しかけたら驚くかな?」
「たぶん、すごく」
「それも見てみたいな」
ゼフィが穏やかに口を挟んだ。
「標本を手にしている間は、少し待っていただけると」
「落としたら困る?」
「せっかく見つけたものなので」
「そうか。では、あとにしよう」
筆を持ち直した。
先に、今日の仕事を終えなくてはいけない。
葉のつき方と、花の数を書き足した。その間も、視界の端を小さな光が通る。気になって顔を向けそうになるたび、ノートへ戻った。
「よく我慢してるね」
火の精霊に言われ、リシェは笑った。
「全部見ていたら、終わらないので」
「それは困るね。僕も、君が何を書いているか見たいから」
*
昼食のために手を止めたところで、イネスがようやく顔を上げた。ゼフィが出してくれた包みを受け取り、石の上へ腰を下ろす。
「思っていたより株がある。午後は、向こう側も――」
話の途中で、目が止まった。
リシェの肩のそばに、赤い炎が浮かんでいた。今度は、イネスにも見える姿だった。
「……火?」
「こんにちは」
火の精霊が言った。
イネスの手から滑りかけた包みを、ゼフィがそっと下から支えた。
「落ちるところでした」
包みを握り直したイネスが、炎を見た。それからリシェを見て、また炎へ戻る。
「精霊?」
「そう。君が何を調べているのか、ずっと見ていたんだ」
「いつから?」
「君たちが来たときから」
しばらく黙ってから、イネスが包みを膝へ置いた。
「私、何も気づかなかった」
「ずいぶん忙しそうだったからね」
リシェがこらえきれずに笑うと、イネスがその顔を見て少し眉を上げた。
「リシェは、知っていたの?」
「さっき、話しかけてもらいました」
「そうか」
息をつき、改めて炎へ向き直った。
「私はイネス。ここに生えている薬草を調べに来ました」
「聞いたよ。僕も、少し一緒に見ていていい?」
「もちろん」
答えたあと、イネスがゼフィへ顔を寄せた。
「高位の精霊?」
「ええ」
小声の返事に、イネスの背筋が伸びた。
「それなら、もう少しきちんと――」
「そのままでいいよ」
炎がくるりと揺れた。
「みんな、同じことをするんだね」
今度はゼフィも笑った。
*
午後、リシェはイネスと石壁の向こう側を調べた。
日陰では花の数が少なく、葉の大きさにも違いがある。火の精霊は二人のそばを漂い、ときどきノートを覗き込んだ。
「花が終わったものまで、書くんだね」
「同じ株か確かめたいので」
「では、あっちの小さいものも?」
示された石のそばに、花をつけていない株があった。すぐには頷かず、イネスと一緒に葉を確かめた。
その周りにも、小さな精霊がいる。淡い光がリシェへ近づき、膝をついたリシェと一緒に、葉の下へ回った。
自然に口元が緩んだ。
今まで、一人で覗いていた場所だった。
そこに、最初から誰かがいた。
ノートには、見慣れた葉の形が増えていく。その周りには、まだ描き方の分からない光が揺れていた。
少し離れたところで、ゼフィがこちらを見ていた。
自分には捉えにくい小さな精霊を、リシェは目で追っている。
星を宿す子。
その呼び名を、高位精霊は瞳の変化を見るまでもなく口にした。
雨の森で見た星も、未契約の魔獣が近づいてきたことも、この存在なら知っているのかもしれない。
赤い炎へ視線を移した。
炎は今、リシェのノートを覗き込み、描かれた葉について何かを尋ねていた。リシェが答えると、楽しそうに揺れる。
尋ねたいことを胸に留め、ゼフィは周囲の森へ目を戻した。
「次は、何を見る?」
火の精霊に聞かれ、リシェはイネスと地図を確かめた。
まだ調べていない場所がある。
明日も、ここにいられる。
「向こうの木陰です」
答えて立ち上がると、小さな光がいくつか後を追った。足元では、フィエルが尾を揺らしている。
いつものように歩き出したのに、森の奥まで、初めて見る景色が続いていた。




