第六十八話 石の間に灯るもの
朝の風が、少し涼しくなっていた。
昼にはまだ暑くなるが、窓を開けたときに入ってくる空気は、夏の盛りとは違う。
袖に腕を通し、鞄を肩に掛けた。
エリオたちが旅立ってから、数週間が過ぎていた。次の街へ着いたという知らせがポルテに届き、リシェも一通、手紙を書いた。返事はまだ来ていない。
今頃、何を売っているのだろう。
そう思いながら廊下へ出ると、向こうからイネスが歩いてきた。背負った荷物が大きい。片手には、紐を掛けた木箱まで持っていた。
「おはようございます」
「おはよう。準備できた?」
「はい」
リシェの鞄を見て、イネスが尋ねた。
「図鑑は?」
「重かったので、写した紙を持っていきます」
「そうか。私は二冊入れた」
もう一度、その荷物を見た。
「重くないですか?」
「重い」
即答して、イネスが木箱を持ち直した。
*
門では、弓と旅の荷物を携えたゼフィが待っていた。リシェたちに気づくと、片手を上げる。
「おはよう。二人とも、そろったね」
「ゼフィリス。少しだけ荷物を入れてくれない?」
挨拶に続けて頼んだイネスが、木箱を足元へ置き、背負った荷物も下ろした。
「本が二冊と、この箱。それから、予備の道具だけ」
並べられたものを見て、ゼフィが言った。
「少しだけ、という量かな?」
「使うかもしれないんだ」
「分かった。すぐ使うものは、手元に残しておいてね」
ゼフィが鞄の口を開いた。
本が二冊、その中へ消える。
続いて、木箱が入った。
思わず一歩近づいた。箱は、鞄より大きく見えた。それなのに、入れたあとも鞄の形は変わっていない。
「今の、入ったんですか?」
「うん。マジックバッグだよ」
顔を上げ、ゼフィが続けた。
「見た目より、ずっと多く入るんだ」
鞄と、荷物のなくなった地面を交互に見た。本では読んだことがある。でも、実際に使うところを見るのは初めてだった。
「そんなに大きな箱も、入るんですね」
「これは容量が大きいものだからね」
イネスが予備の道具を差し出した。それも収まると、残した鞄を背負う。
「助かった。帰りは標本もお願いしたい」
「増えるんだね」
「採れれば」
ゼフィが笑った。リシェも口元を緩めながら、フィエルを下ろした。
朝食を済ませたフィエルは元気だった。門を出ると、すぐにリシェの隣を歩き始めた。
*
街の外へ続く道では、荷車や畑へ向かう人とすれ違った。やがて家が少なくなり、道の脇で草の穂が揺れ始めた。
先を歩くゼフィが、分かれ道で止まった。
「ここから林へ入るよ」
地図と見比べた。
行き先は、古い石造りの跡。描かれた印は小さかったが、そこへ着くまでには、いくつもの道を選ばなければならなかった。
森へ入ると日差しが細くなり、乾いた葉を踏む音が続いた。
木の根元へ目を向けたイネスが、足を緩めた。
「ここに――」
「帰りに見ようか」
ゼフィが振り返った。
「先に目的地へ行こう」
「分かった」
名残惜しそうに木を見て、イネスが歩き出した。リシェも気になる葉を見つけたが、ノートには場所だけを短く書いた。
途中から、道に根や石が増えた。フィエルは低い石を軽く越えていく。その後を追う足は、少しずつ遅くなった。
上り坂が続いている。
肩の紐を持ち直していると、ゼフィが歩みを止めた。
「ここで一度休もう」
岩のそばへ腰を下ろし、水を飲んだ。思っていたより喉が渇いていたことに気づいた。
「まだ遠いですか?」
「もう少し。次の曲がり角を過ぎれば、石の壁が見えるよ」
イネスも座り、足元へ鞄を置いた。
「本を持ったままなら、もっと手前で止まってたな」
リシェは頷いた。自分の図鑑を持ってこなかったのも、よかったと思った。
*
最初に見えたのは、木の間に続く低い石の列だった。近づくと、途中まで崩れた壁だと分かった。
表面に苔がつき、隙間から細い草が伸びている。向こうには、屋根のない石造りの跡が残っていた。
足を止めた。
「ここに、建物があったんですね」
「そうだね」
周囲へ目を向け、ゼフィが続けた。
「何に使われていたかは、今のところ分からない。記録も少ないんだ」
壁に囲まれていたらしい場所に、木が一本伸びていた。根が石の間へ入り込み、床だったところには土と落ち葉が積もっている。
壁の手前で、イネスがしゃがんだ。
「リシェ。こっち」
指された先に、紫の花があった。石の陰から細い茎が伸び、その先にいくつかの花をつけている。
鞄から紙を取り出した。
絵と、目の前の花。
何度も見比べた。
「似ています」
「まず、触らずに見よう」
隣へ座り、イネスが尋ねた。
「君が前に見た花と、どこが同じ?」
「花びらの形と、ついている向きです。それから、葉も」
紙へ書き足した。今度は、株だけを見ない。
壁のどちら側に生えているか。日が差す場所か。周囲にどんな草があるか。
イネスが一枚の葉をそっと支えた。
「裏は、こうなっている」
顔を近づけると、本から写した説明と合っていた。でも、森で見た花の裏側は分からない。
「ここにある花は、候補のものと合います。でも、前の花が同じかは……」
「まだ確かめられないね」
イネスが頷いた。
「それでいい。二つを混ぜずに残そう」
ゼフィに預けた本を出してもらい、説明のほかの部分も確かめた。イネスがページと実物を見比べるそばで、新しいノートのページを開き、今日の日付と場所を書いた。
初めて見た花の続きを、ようやく調べられた気がした。
*
イネスが別の株を確かめている間、リシェは壁の手前で花の絵を描いた。少し離れたところでは、ゼフィが森と崩れた石へ目を向けている。
足元にはフィエルがいた。
しばらくして銀白色の耳が動き、リシェも筆を止めた。
風だろうか。
木の葉は、あまり揺れていない。それでも、何かが近くにあるような感じがした。
知らない魔獣に出会ったときのような緊張はない。
こちらを、面白そうに見ている。
そんな気配だった。
ゆっくり顔を上げると、壁の向こうにかすかな赤い光があった。目を向けると薄れ、少し視線を外すと、また揺れて見える。
葉の隙間から差す日とは違った。
赤いものが、こちらへ動く。
目を凝らした。光の端がほどけるように揺れている。炎に似ているが、はっきりした形は捉えられない。
「ゼフィさん」
呼びかけにこちらを見たゼフィの視線が、赤い光のある場所で止まった。姿勢を正す。
「……高位の精霊がいらしたとは、存じませんでした」
「そんなにかしこまらないでよ。話しにくいじゃないか」
声がした。
周囲を見回したが、近くに人はいない。イネスは壁の向こうで、まだ植物を調べていた。
「あはは、こっちだよ」
赤い光が、目の前で揺れた。
「人が来たから、何をしているのかなと思ってね。そうしたら、君が僕の方を見たんだ」
ノートを胸に抱いた。
「今、話しているのは、あなたですか?」
「うん。聞こえているね」
声が少し弾んだ。
「僕のことは、どのくらい見える?」
「赤い光みたいなものが、少し……」
「少しだけか。なるほどね」
光が近づいた。瞬きをしても、輪郭はぼやけたままだった。
「君、精霊を意識したことがないんだろう?」
「本で読んだことはあります。でも、見たことはありません」
「そうか。いると知らなければ、目の前にいても気づかないことはあるね」
赤いものが、ゆっくり上下した。
「でも、君には見えるはずだよ。星を宿す子」
顔を上げた。
「……星を宿す子?」
そばで、ゼフィがわずかに身じろぎした。
自分の瞳に金色の星が現れると聞いた日のことを思い出した。
「私のことですか?」
「そう。こんなところで会えるなんて、今日は面白い日だね」
返事は、ためらいのないものだった。
ゼフィを見ると、その言葉を初めて聞いたようだった。赤い光へ視線を戻し、静かに続きを待っている。
「それは、どういう……」
「聞きたいことができた?」
声には、うれしそうな響きがあった。
「僕も君に聞いてみたいことがある。でも、その前に、もう少し見てみようか」
赤い光が、紫の花のそばへ移った。
「精霊は、自然のある場所ならどこにでもいるんだ。森にも、水辺にも。君が歩いてきた道にもね」
「ここにも、いるんですか?」
「もちろん。ほら、君の目の前にも」
花へ目を向けた。細い茎と、開いた花びら。その向こうには、苔のついた石がある。
でも、ほかには何も見えなかった。
「分かりません」
「花の形ばかり見ているのかな。少し、目を凝らすのをやめてみて」
眉を緩めた。
「姿を探す前に、そこに誰かがいると思ってごらん。僕に気づいたときも、先に何かを感じなかった?」
「感じました。見られているような」
「うん。その感じも、手がかりにしてみよう」
息を整えた。
いる。
見えていないだけで、花のそばにも何かがいる。
そう思いながら、もう一度目を向けた。
葉の端で、何かがちらついた。日の光だと思っていたものが、葉から離れる。
小さな、淡い光だった。
顔を近づけると薄れ、少し力を抜くと、また浮かび上がる。
「あ……」
「そう、それだよ」
楽しそうな声がした。
小さな光が花のそばを漂い、石の陰へ移った。そこにも、別の光があった。
一つだけではない。
ゆっくり顔を上げた。
木の根元。苔の上。葉と葉の間。
今まで何もないと思っていた場所に、かすかな光が揺れている。
「こんなに……」
「さっきから、そこにいたんだよ」
赤い光へ目を戻すと、ぼやけていた輪郭が先ほどより捉えやすくなっていた。炎のような姿が、宙で柔らかく揺れている。
「僕も、少し見やすくなったかな?」
「はい」
頷いた。
ノートに描いた花のすぐそばを、小さな光が通り過ぎる。
同じ花。同じ石。同じ木陰。
でも、見る前には知らなかったものが、そこにいる。
筆を持ち直した。何を描けばいいのか少し迷ってから、花の絵の隣に小さな光を書き添えた。




