第六十七話 知っている花、知らない場所
「見つけた」
イネスが作業室へ入ってきたとき、リシェは鉢の葉を数えていた。声に顔を上げると、その脇に分厚い本が抱えられていた。
「何をですか?」
「君の紫の花。候補があった」
すぐに立ち上がりかけて、座り直した。
あと一枚。
小さな葉まで数え終え、記録へ書いてから机へ向かった。
イネスが本を開いた。余白の広いページに、花と葉、それから実の絵が描かれている。
「ノートは?」
鞄から取り出し、印をつけたページを開いた。森で見た花。紫の花びらの重なり方も、茎についていた葉の形も、よく似ていた。
「これかもしれません」
本へ顔を近づけた。
「でも、ここは見ていません」
絵の下にある根を指した。
「掘らなかったから?」
「はい。葉の裏も見ていなくて」
「それなら候補のままにしよう」
頷いて、イネスが尋ねた。
「全部を確かめてから名前を書く?」
少し考え、首を振った。
「似ている花があったことは書いておきたいです。あとでまた比べられるように」
「うん。それがいい」
本の題とページを書き写し、花の名前のそばには、候補、と添えた。
何日も調べて分からなかったものが、ようやく一つの絵につながった。
名前が決まったわけではない。それでも、次に見るところが分かった。
「この花は、薬草なんですか?」
「そう。こちらでも調べている人がいる。ただ、私が今気になっているのは、生える場所の方だね」
イネスが説明の一行を指した。
古い石造りの跡や、石の多い場所で見られることがある。
「私が見たところには木がありました」
「森の中にも石はある。君が見た花がこれなら、土の下や少し離れたところに何かあった可能性もある」
あの森を思い浮かべた。花に気を取られ、周りをよく見ていなかった。帰り道さえ、分からなくなったのだ。
「花しか見ていませんでした」
「一度で全部を見るのは難しいよ」
本のページを押さえ、イネスが続けた。
「今度は別の場所で同じような花を探せる」
顔を上げた。
「この近くにもあるんですか?」
「確かめたい場所はある」
*
イネスが持ってきた地図には、街の北側に小さな印があった。森の中だった。
「古い石造りの跡が残っている。少し前に、似た花を見たという報告があってね」
「行くんですか?」
「行きたい。でも、場所を確かめて、必要なら標本を採って、記録して……私一人だと、花の前から動かなくなりそうだ」
リシェは笑った。施設の門を入ったとき、自分も動かなくなったことがある。
「だから、道と周りを見てくれる人が必要」
地図を机に置き、イネスが言った。
「ゼフィリスに相談してみようと思う」
ノートの上で手が止まった。
「私も行けますか?」
すぐには答えず、イネスが地図からリシェへ目を移した。
「行きたい?」
「はい。実物を見て、比べたいです」
「では同行できるかも含めて相談しよう。君が来られるなら観察の手伝いを頼みたい」
頷いた。
研究施設から外へ調べに行く。届いた植物を見ているだけではなく、自分が育っている場所へ行けるかもしれない。
ノートに地名を書きかけ、まだ日程が決まっていないことを思い出した。先に、持っていきたいものを書いた。
ノート。筆記用具。図鑑。
花の絵を写した紙も、必要だった。
*
ゼフィが施設を訪れたのは、翌日の午後だった。挨拶を済ませると、イネスが早速地図を広げた。
「ここ。道は知ってる?」
「近くまでは行ったことがあるよ。今の状態は、確認した方がよさそうだね」
報告の紙に目を通すゼフィの隣で、二人の話を聞いていた。
いつ、誰が花を見たか。どこから入ったか。
「リシェも行きたいと言っているんだ」
イネスの言葉に、ゼフィが顔を上げた。
「この花を調べに?」
「はい」
ノートを開いた。
「森で見たものと似ているか確かめたいです。前は葉の裏も見ていなかったので」
絵と、本から写したものを見比べ、ゼフィが言った。
「なるほど」
それから、地図へ目を戻した。
「今回は街の近くの道を歩くだけではない。二日は夜を外で過ごすことになる。ギルドで君が補助として参加できるか確認しよう」
「はい」
「イネス、出発は急ぐ?」
「花が終わらないうちに行きたい。ただ、明日でなければ困る、というほどではない」
「分かった。数日中に相談できると思う」
胸の奥の期待を、少し落ち着かせた。
行けると決まったわけではない。でも、行くために何を確かめるかは、もう話し始められている。
ゼフィがノートを返してくれた。
「準備は結果を待ちながら進められるね」
「はい。花の絵はもう写しました」
「早いね」
その声に、少し笑った。
*
話が済んだところで、フィエルが台の下から出てきた。前脚を伸ばして大きく欠伸をすると、ゼフィの足元へ近づき、靴の匂いを嗅いだ。
「よく眠れた?」
しゃがんだゼフィの手へ、フィエルが鼻先を寄せた。
イネスが窓側の鉢を指した。
「その子のことでも、少し気になるものがあって」
リシェは記録を取りに行った。
フィエルの眠る場所を書き始めてから、数日が経っていた。新しい芽は少し大きくなり、隣の株も葉の張りがよくなった。
二枚の記録をゼフィへ見せ、イネスが説明した。
「この辺りの鉢だけ調子が上がっている。ちょうど、その子がよく寝る場所なんだ」
ゼフィの視線が、紙からフィエルへ移った。
「寝る場所との関係を調べているの?」
「まだ記録を並べているところ。他の理由もあるかもしれないから」
鉢を見て、イネスが続けた。
「鉢を移して比べることも考えている。ただ、一度にいろいろ変えると分からなくなるから順番を決めたい」
ゼフィが頷いた。
「何か分かったら私にも聞かせてくれる?」
「もちろん。魔獣のことは私より詳しいだろうし」
フィエルは話を聞いている様子もなく、リシェの足へ体を寄せた。撫でると、尾がゆっくり揺れた。
その姿を見ていたゼフィは、エルネストの部屋で話したことには触れなかった。
*
調査への参加が認められたのは、その数日後だった。ゼフィが道を確かめ、ギルドとも相談を済ませた。
リシェは植物の観察と記録を手伝う補助役として同行する。出発は朝、戻るのは三日後。現地の状況によっては、調べずに帰る。
イネスから予定を聞き、部屋へ戻って荷物を広げた。大きな図鑑を入れると、鞄が重くなった。ノートも、紙も、食事の包みも入る。
フィエルが布の上から、その様子を眺めていた。
「図鑑、持っていきたいけど」
一度取り出した。
調べる花の絵は、別の紙へ写してある。説明も、必要なところは書き残した。今回はそれだけでいいかもしれない。
棚へ戻すと、鞄が軽くなった。代わりに、現地で確かめることを書いた紙を、一番取り出しやすいところへ入れた。
葉の裏。花のつき方。周囲の土と、石。
指でなぞってから、鞄の口を閉じた。
あの森では、花を見たい気持ちだけで歩いてしまった。今度は何を見に行くのかを決めて、誰かと一緒に出かける。
窓の外では、庭の木の葉が揺れていた。その向こうにある森を思い浮かべ、棚の図鑑へ一度目を向けた。
次にこの本を開くときには、絵だけでは分からなかったことを一つでも書き添えられるだろうか。




