第六十五話 昼寝のそばで
通りの向こうから、大きな魔獣が歩いてきた。
ゼフィの隣で、思わず足を緩めた。灰褐色の毛に覆われた体は、そばを歩く女性の腰ほどまである。背には荷物を載せ、首には幅のある革の帯を巻いていた。
人が前を横切ると止まり、女性が進むと、また歩き出す。
「あの子も魔獣ですか?」
「そうだね。契約を結んで、従魔として飼われている」
魔獣は店の前で止まった。女性が荷物の紐を緩める間、鼻を地面へ近づけている。
鞄の中でフィエルが顔を出すと、魔獣の耳が動いた。リシェの方へ首を向け、ゆっくり鼻を上げる。
「どうした?」
振り返った女性も、フィエルに気づいた。
「ああ、小さい子がいたのね」
「こんにちは」
挨拶を返してくれた女性のそばから、大きな魔獣が一歩こちらへ寄りかけた。
「待って。先に荷物を下ろすから」
その場に座り、太い尾で道の上を一度掃いた。
フィエルを抱えたまま、その様子を見ていた。
「一緒に、お仕事をしているんですか?」
「ええ。重い荷物を運ぶときは助かるわ。階段だけは、私が運ばないといけないけど」
女性が袋を抱えると、座ったままの魔獣がその動きを目で追った。
「ずっと一緒なんですか?」
「もう何年も。合意契約を結んだ頃は、お互いに慣れなくてね」
荷物を下ろし、女性が首の毛を撫でた。
「今でも、気に入らない頼みは聞いてくれないわ」
「どんなことですか?」
「雨の日に、屋根のないところで待っていてほしいときとか」
笑って続ける。
「私だって嫌だから、仕方ないんだけど」
差し出された手へ頬を押しつける魔獣に、リシェも口元を緩めた。
荷物を受け取った店の人が、女性へ声をかけた。短くやり取りを済ませ、女性が魔獣の背を確かめる。
「お待たせ。行こうか」
身軽になった魔獣が立ち上がり、リシェたちへ一度鼻先を向けてから、女性の隣へついた。
通りを進む二つの背中を、しばらく見送った。
*
「合意契約だと、命令を断れるんですね」
歩き始めてから、リシェは言った。
「うん。主人と従魔という関係にはなるけど、何でも言うとおりにさせられるわけではないよ」
向こうから来る荷車を通そうと道の端へ寄ったゼフィに合わせ、リシェも隣へ移った。
「もう一つは、強制契約でしたよね」
「そう。魔獣を力で制圧して結ぶ契約。相手の同意を必要としない分、合意契約より強い服従の拘束がある」
鞄へ目を落とすと、フィエルがこちらを見上げていた。
「私は、フィエルを力で従わせたりしていません」
「うん。それは今日エルネストにも話したね」
「合意契約なら、気づかずにできることもあるんでしょうか」
少し考えてから、ゼフィが答えた。
「君が知っている手順を踏んだわけではない。だから今はどちらだと決めずにおこう」
頷いた。
名前をつけて、一緒に暮らしてきた。それだけのつもりだったのに、結界はフィエルを契約済みの魔獣として通している。
腕の中の体は、いつもと変わらない。柔らかな背を撫でた。
「あの人も魔獣の気持ちが分かるんでしょうか」
「長く一緒にいれば、仕草から分かることは増えるだろうね。ただ、君のように感じているかは分からない」
女性に撫でられたとき、魔獣はうれしそうだった。それはリシェでなくても見て分かる。
でも、こちらを向いたときに伝わってきた穏やかな好奇心は、目に見えるものではなかった。
「本来、魔獣は人に懐くものではないんだ。契約を結び、一緒に過ごす中で、ああいう関係を育てている」
ゼフィの言葉に、顔を上げた。
「では、森で会った魔獣が近づいてきたのは……」
「普通のことではないよ」
静かな返事だった。
「君が感じたことと関係があるかもしれない。だからこそ、あの話は慎重に扱いたい」
小さく頷いた。
*
角を曲がると、店先に檻の並ぶ建物が見えた。中には小さな魔獣がいる。隣には餌の袋や、革の帯らしいものが掛かっていた。
足を緩めた。
「ここは……」
「魔獣を扱う店だね」
檻の一つで、丸い耳がこちらを向いた。見ていると、奥から店員が出てきた。
「従魔を探しているのかい?」
「あ、いえ」
鞄を抱き直すと、店員の視線がフィエルへ移った。
「もう連れていたんだね。珍しい毛色だ。どこで手に入れた?」
「森で出会いました」
答えは、それだけにした。
店員はもう少しフィエルを見ていたが、奥から呼ばれるとそちらへ顔を向けた。
「見たいものがあったら、声をかけて」
頷いて店を離れてから、小声で尋ねた。
「買えば従魔にできるんですか?」
「誰でもできるわけではないよ。どちらの契約にも、契約するための適性が必要だからね」
店を振り返った。
檻の中の魔獣と、通りを歩いていた従魔。どちらも魔獣だけれど、人との関係は同じとは限らない。
「また見に来てもいいですか?」
「うん。次は、少し時間を取ろう」
鞄へ目を向け、ゼフィが続けた。
「今日はフィエルも眠そうだね」
小さな瞼が、ゆっくり下りていた。頷いて、研究施設へ向かう道を歩き始めた。
*
「おかえり」
作業室へ入ると、イネスは窓際の台に向かっていた。ゼフィとは、施設の門で別れていた。
「どうだった?」
「フィエルの種類は、まだ分かりませんでした。でも、普段の様子を聞いてもらいました」
「そうか。すぐには決まらないものもあるね」
振り返ったイネスが、鞄の中を覗いた。
「本人は眠そうだ」
いつもの場所へ布を敷き、フィエルを下ろした。窓からの光が、台の脚のそばへ差している。
布の端を踏んだフィエルが、くるりと回って丸くなった。
「リシェ。この鉢の前の記録を出してくれる?」
呼ばれて机へ向かった。指定されたのは、下の葉が垂れていた薬草だった。記録を探して台へ置くと、イネスが鉢を少し回した。
「ここを見て」
葉の付け根に、新しい芽があった。
顔を近づけた。前に記録したときには、そこには何も見えなかったはずだ。
「出てます」
「うん。それから、この葉」
垂れていた葉も、少し持ち上がっている。黄色くなった部分が元に戻ったわけではない。それでも、株全体が前ほど頼りなく見えなかった。
二日前の記録も並べると、イネスが日付を追った。
「少しずつ、変わっているね」
「元気になってきたんでしょうか」
「そう見える。ほかも確かめよう」
隣の鉢にも小さな芽があり、さらにその隣では、丸まっていた葉が開いていた。
台の端まで見ていった。全部が同じように変わったわけではない。奥の鉢は、記録とあまり違わなかった。
イネスが腕を組んだ。
「水の量は変えていない。鉢を置く場所も、そのままだね」
「はい」
「土に何か加えた?」
「加えてません」
管理の記録も持ってきて、二人で確かめた。
手入れをした日。葉を採った日。水をやった量。
思い返してみても、特別なことはしていなかった。
「この辺りだけ、変化がはっきりしてる」
イネスが指した窓側の数鉢の下を見ると、フィエルが眠っていた。
「フィエルが、いつも寝ているところです」
イネスも目を落とした。銀白色の体が、小さく上下している。
「……そういえば最近ずっとここだね」
「日が当たるので。暑くなると、少し奥へ移ります」
しゃがんで台の下と窓を見比べ、イネスが言った。
「この場所が暖かいから、株にも影響しているのかもしれない」
立ち上がり、奥の鉢へ目を向ける。
「ただ、それなら前から同じ傾向があってもよさそうだ」
リシェも考えた。フィエルがここで眠るようになったのは、施設へ通い始めてからだ。葉が変わり始めた日と、ぴったり同じかは分からない。
「フィエルが来た日も、書いておけばよかったです」
「今から書こう」
新しい紙を取り出し、イネスが続けた。
「どこで寝たか。どのくらいここにいたか。それも一緒に残してみる」
フィエルを見た。
「フィエルが何かしているんでしょうか」
「まだ分からないよ」
返事は早かった。
「同じ場所にいることと、原因であることは別。まずは比べられる記録を増やそう」
頷いた。
今日は、分からないことがたくさんあった。フィエルの種類も、契約のことも、自分の瞳のことも。
でも、どれも今すぐ答えを決める必要はないのだと、二人の研究者に教わった。
紙を机へ置き、台と鉢の位置を描いた。その下に、フィエルが眠っている場所を書き添える。
*
イネスが別の作業へ戻ったあとも、少しだけ台の前に残った。新しい芽をもう一度見て、次に比べられるよう、余白へ形を描いた。
足元でフィエルが寝返りを打った。しゃがんで呼びかける。
「フィエル」
耳が一度動いた。
「何かしてる?」
小声で尋ねると、細く開いた目がこちらを見た。
伝わってきたのは、眠たさと、そばにいることへの安心だった。
それだけだった。
「眠いよね」
笑って布の端を整えると、フィエルが鼻先を前脚の間へ埋めた。
立ち上がり、最後の記録を書いた。
今日も窓側の台の下で昼寝。
その上では、小さな新芽が光を受けていた。




