第六十四話 二人に話したこと
エルネストの部屋には、本よりも紙の方が多かった。
棚に並んだ箱にも、机の上の束にも、何かが書かれている。壁には魔獣の絵が掛かり、その隣には骨格を描いた図があった。
入口で足を止めると、窓際の机から眼鏡をかけた男が顔を上げた。
「エルネストだ。君がリシェだね」
「はい。今日はありがとうございます」
「ゼフィリスから、種類の分からない魔獣と暮らしていると聞いた」
立ち上がったエルネストが、低い台の上を空けた。
「その子がフィエル?」
鞄を下ろすと、銀白色の顔が現れた。フィエルは部屋を見回し、鼻を動かしている。
「台へ下ろしてもいいかな。嫌がるようなら、そのままで構わない」
「はい」
フィエルを抱き、台へ下ろした。
エルネストはすぐには触らず、少し離れて耳と尾、足の形を見た。それから低い位置へ手を差し出すと、フィエルが匂いを嗅いだ。
「触ってもよさそうだね」
背へ置かれた手は、ゆっくり動いた。
リシェは台のそばに立ち、ゼフィは少し後ろの椅子へ座った。
*
「どこで出会った?」
「カルンを出たあとの森です。後ろ脚を怪我していました」
「今はその脚で普通に歩ける?」
「はい。走ることもできます」
脚を確かめ、フィエルが嫌がらない範囲で体を見てくれた。毛をかき分けて耳の後ろを見ていたエルネストが、フィエルが顔を動かすと、いったん手を離した。
「従魔契約はいつ結んだ?」
口を開きかけ、閉じた。それから少し声を落とした。
「……それが、分からないんです」
エルネストが顔を上げた。
「いつ結んだか覚えていない?」
「契約した覚えがないんです」
フィエルへ目を向けた。
「契約していない魔獣は街の結界を通れないって、オルテンの友達に教えてもらいました。でも、フィエルは一緒に入れて……」
エマに聞いてから、何度も考えた。自分は契約のやり方を知らない。それなのに、フィエルは街で暮らしている。
「だから、契約していることになっているんだと思うんですけど。いつ、どうやったのかは分からなくて」
ゼフィへ目を向け、エルネストが尋ねた。
「アルセインにも、一緒に入ったんだね?」
「うん。結界を通っているよ」
頷いてから、エルネストがリシェへ向き直った。
「なら単に懐いているだけとは考えにくい。出会ってからのことを、順番に聞かせてもらえるかな」
森でフィエルを見つけたときのことを話した。怪我をしていたこと。置いていけず手当てをして、一緒にいたこと。
「フィエルという名前は、君がつけた?」
「はい」
「そのとき何か変わったと感じた?」
呼びかけたときの顔は覚えている。でも、それが契約と関係するのかは、考えても分からなかった。
「よく覚えていません。名前を決めて、呼んだだけだと思います」
「分かった。思い出せないところを、無理に埋めなくていい」
筆を置き、エルネストが続けた。
「街へ入れる以上、契約の存在を考える根拠はある。ただ、その経緯やどのような契約なのかは、今の話だけでは判断できない」
「普通の従魔契約とは違うんですか?」
「同じかどうかもまだ分からない。名前をつけたというだけで、結論にはできないよ」
頷いた。
すぐに答えが出ると思っていたわけではない。それでも、自分が不思議に思っていたことを、一緒に考えてくれる人がいるのは心強かった。
*
棚から本を取ったエルネストが、何枚かページをめくった。
銀白色の体に似た魔獣が載っている。だが、耳の形や尾の長さが違った。
「種類についても今のところ、私の知っているものには当てはまらない」
本とフィエルを見比べた。
「まだ小さいから、違って見えるんでしょうか」
「その可能性もある。ただ幼い姿の記録があるものとも、いくつか違うところがあるね」
食べるものや眠る時間について尋ねられ、普段の様子を話した。
そのあと、エルネストがもう一度フィエルへ手を伸ばした。口元を確かめようとしたところで、リシェは言った。
「そこはあまり触られたくないみたいです」
エルネストの手が止まった。フィエルは顔を背け、リシェの方へ寄った。
「分かった。口の中はまた必要なときにしよう」
背を撫でると、張っていた気持ちが緩んだ。その様子を、エルネストが見ていた。
「今、顔を背ける前に言ったね」
手が止まった。
「触られるのを嫌がると、どうして分かった?」
「……何となくです」
「いつもの様子から? それとも気持ちが伝わってくるような感じかな」
すぐには答えられなかった。
フィエルとは長く一緒にいる。仕草で分かることも、たくさんある。でも、それだけではなかった。
後ろから、ゼフィの声がした。
「森で会った魔獣のときも、気持ちが分かるように見えたんだ」
振り返ると、穏やかな表情のまま続けた。
「フィエル以外の相手でも、そういうことがあるのかな?」
フィエルを抱き上げ、空いた椅子へ座った。
二人が自分の答えを待っている。
鞄の口を整えるふりをしてから、小さく頷いた。
「……あります」
*
「言葉が聞こえるわけではないんです」
膝の上のフィエルを撫でた。
「うれしいとか、怖いとか……そういうものが、何となく分かることがあって。自分の気持ちとは、少し違う感じがするんです」
「どの相手でも?」
「いいえ。分からないこともあります。フィエルは、前より分かるようになりました」
「普通の動物でも?」
首を振った。
「商隊に狼が来たときは、分かりませんでした。でも、フィエルが警戒しているのは分かって」
ゼフィが静かに尋ねた。
「雨の森で会った、黒い魔獣は?」
あのとき、思わず口にしたことを覚えている。少し迷ってから答えた。
「先へ行ってほしくない、という感じがしました。でも、どうしてなのかまでは分からなくて」
「先日の小さい魔獣は、フィエルを気にしていた?」
「はい。近くで見たいのかなと思いました」
しばらく考えてから、エルネストが言った。
「その二頭とは契約していないね」
「していません」
「では、フィエルとの契約だけで説明することはできない」
二人の顔を見た。
「変だと思いますか?」
「珍しいことだとは思う。だから、何が起きているのかを確かめたい。いつ頃からそう感じる?」
「小さい頃からだと思います。いつからなのかは、よく分かりません」
「ほかにも、周りの人が気づいていないものを感じたことはある?」
孤児院の廊下が、頭に浮かんだ。
振り返っても、誰もいない。それでも何かがいるような気がしていた。
「……あります。カルンの孤児院にいたときです」
ゼフィの表情が、わずかに変わった。
「孤児院で暮らしていたんだね」
「はい。小さい頃から、ずっと」
膝へ目を落とした。
「そこに何かがいるような気がしていました。見たことはないんですけど。昔からだったので、そういうものなのかなって」
「その気配が、何かをしたところは見た?」
「見ていません」
首を振ると、エルネストが頷いた。
「分かった。気配を感じたことと、それが何をしたかは、分けて考えよう。カルンを出たときは、誰かと一緒だった?」
今度は、なかなか声が出なかった。
ゼフィが少し身を起こした。
「話しにくければ、少し休もうか」
「……大丈夫です」
フィエルを抱き直した。
「一人でした。逃げたんです」
*
部屋が静かになった。
外の足音が、一度近づき、遠ざかる。
「引き取られる話があって。でも、その相手が怖くて」
フィエルの毛並みを見つめた。
「前にも何度か話はありました。でもなぜか、全部なくなってしまって。どうしてなのか、私には分かりません」
連絡が来なくなったこと。事情が変わったと言われたこと。そのたびに、また同じ部屋で暮らしたこと。
「最後の話は進んでしまって。それで……出ていきました」
「引き取り先の名前は分かる?」
エルネストの問いに唇を結び、二人を見た。
「ヴァルツ商会です」
ゼフィは何も言わなかった。エルネストもその名前を繰り返さず、続きを待っていた。
「そのあと、森でフィエルを見つけました。オルテンでは、宿の人や、いろいろな人に助けてもらって……」
マルタの顔が浮かんだ。エマも、ハンスも。
話しているうちに、張り詰めていた息が少し戻った。
「採集の仕事をして、お金を貯めました。それで、この街まで来ました」
最後の言葉を口にして、黙った。こんなに続けて、自分のことを話したのは久しぶりだった。
ゼフィがゆっくり頷いた。
「そうだったんだね。話してくれてありがとう」
机の上の紙を脇へ寄せ、エルネストが言った。
「今の話だけで、君の感覚の仕組みは分からない。孤児院の気配が何だったかも、判断はできない」
頷いた。
「ただ契約していない魔獣の気持ちまで受け取っているのなら、軽く扱っていい話ではない」
リシェと目を合わせ、エルネストが続けた。
「この話は私たちの間に留めよう。君の名前と結びつけて、研究の記録に残すこともしない」
肩が少し下りた。
「珍しい力を持つ人がいると知ったら、自分のために使いたいと考える人もいる。君が望まなくてもね」
ゼフィの言葉を聞いて、尋ねた。
「……ほかの人には、話さない方がいいですか?」
「今は慎重にした方がいい」
エルネストの返事は明確だった。
「答えにくいことを聞かれても、その場で全部話す必要はない。誰になら話せるか迷ったときは、私たちに相談してほしい」
二人を見た。
怖がられてはいなかった。椅子を離されることも、フィエルを置いていくように言われることもなかった。
「はい」
今度の返事は、さっきより少し大きく出た。
*
言葉を選ぶように間を置いて、ゼフィが言った。
「リシェ。もう一つ、伝えておきたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「魔獣を見ていたとき、君の瞳に小さな金色の星のようなものが見えた」
瞬きをした。
「……私の目に?」
「雨の森と先日の道で。今は見えないよ」
思わず目元へ手を上げた。触れても、何も分からない。
エルネストが出してくれた小さな鏡には、いつもの灰青色の瞳が映っていた。
「これが変わるんですか?」
「私が見たときはね。君は気づいていなかったんだね」
「はい」
鏡の中の自分を、もう一度見た。何かが変わった感じはなかった。でも、ゼフィが冗談を言っているのではないことは分かった。
「無理に出そうとしなくていい。何がきっかけかまだ分からない。今日、確かめる必要もないよ」
エルネストの言葉に、鏡を返した。
膝の上で顔を上げたフィエルが、顎へ鼻先を寄せてきた。その額へ頬を近づける。
温かい。
自分の目に何が現れても、フィエルはいつもと同じだった。
*
帰る前、エルネストがノートにある茶色い魔獣の絵を見た。
「こちらは調べておこう。今度来たときに、候補を見比べようか」
「はい。お願いします」
「フィエルも、普段どおり一緒に暮らしていて構わない。気になる変化があれば教えてほしいけれど、調べるために無理をさせないこと」
頷いた。
ゼフィと外へ出ると、明るさに目を細めた。
荷車の車輪。店先の声。道を歩く人たち。
街は、来たときと同じように賑やかだった。
しばらく歩いてから、尋ねた。
「私の目、今も普通ですか?」
ゼフィがこちらを見た。
「うん。灰青色だよ」
「そうですか」
少し安心して前を向くと、歩きながらゼフィが言った。
「これから、知らないことがあったら聞いてね」
「今までも、教えてもらっています」
「そうだね。でも、私が君も知っていると思って、話していないことがあるかもしれない」
見上げた。
「何から説明すればいいか、私にも分かるから。遠慮しなくていいよ」
「はい」
鞄の中でフィエルが身じろぎした。背を撫で、歩く道へ目を戻した。
契約のことも、自分の瞳のことも、まだ分からない。話したことを思い返すと、少し怖くもなった。
でも次に何かが起きたとき、誰に尋ねればいいかは分かった。
鞄を抱え直し、ゼフィと並んで歩いた。




