第六十三話 近づいてきたもの
「お、ちびっこ」
ギルドの入口で足を止めると、柱にもたれていたカイルが片手を上げていた。今日も頭の耳が、ぴく、と動いている。
「リシェです」
「覚えてるって。今日も仕事?」
「はい。ゼフィさんと外へ行きます」
隣のゼフィへ、カイルが目を向けた。
「何の依頼?」
「近郊の道標を確かめに。傾いているものがあるらしい」
「そっちか。俺は西へ行くんだ」
柱から背を離し、鞄から顔を出したフィエルを覗き込む。
「お前も?」
小さな鼻先が近づいた。指を出しかけたカイルが途中で止め、そのまま待っていると、フィエルが自分から匂いを嗅いだ。
「よし。覚えたな」
「カイルさんを?」
「そう。俺もこいつの名前は覚えてる」
リシェはカイルを見上げた。
「フィエルは名前で呼ぶんですね」
「ちびっこは、ちびっこだろ」
笑うカイルに口を開く前に、ゼフィが穏やかに言った。
「そろそろ行こうか」
「はい」
「気をつけてな」
背後から声が追いかけてきた。
「道標を見に行って、帰り道なくすなよ!」
「なくしません!」
振り返って答えると、カイルが楽しそうに手を振った。
*
前に調べた小道では、橋の手前にあった枝が片づけられていた。頭上の折れかけた枝もなくなり、道の脇に切った木が積まれている。
少し立ち止まった。
「通れるようになってます」
「報告が届いたんだね」
荷車の新しい跡が、橋の向こうへ続いていた。誰かがもう、この道を使ったのだ。
足跡を踏まないよう脇へ寄り、フィエルを下ろした。
今日の目的地は、橋より手前の分かれ道だった。木製の道標が傾き、片方の板が地面を向いている。根元には土が寄せられていたが、雨のあとに崩れたらしい。
「これだね」
ゼフィの言葉に、依頼票と見比べた。確かめるのは、道標の場所と状態、それから表示が読めるかどうか。
板の文字は低い方からなら読めた。でも、街から歩いてくる人には裏側が見えてしまう。
来た道へ戻り、もう一度近づいてみた。
「こっちからだと、どちらへ行くのか分かりません」
「それも書こう」
傾いた向きと根元の様子を記録した。字の消えたところはなく、板が割れているわけでもない。
「板を替えなくても、立て直せそうですね」
「そう見えるね。実際に使えるかは、直す人に確かめてもらおう」
頷き、道標の形を簡単に描いた。足元でフィエルが欠伸をする。
「もう少し待ってね」
声をかけると、フィエルが靴のそばに座った。
*
記録を終え、帰り道へ入ったときだった。
フィエルが顔を上げ、耳を林の方へ向けた。リシェも足を止める。
草の間で何かが動き、小さな茶色の影が木の根元から出てきた。
丸い体に、細い足。背には濃い色の筋があり、耳の先が黒かった。
息をひそめた。見たことのない魔獣だった。
ゼフィが一歩前へ出ると、魔獣はすぐに身を低くした。耳が伏せられ、細い尾が止まる。
「リシェ、少し後ろへ」
フィエルを抱き上げ、ゼフィの後ろへ下がった。
魔獣は動かなかった。だが、その目はずっとこちらを向いている。
胸に、小さく落ち着かないものが触れた。
怖い、という感じとは違う。
近づきたい。
でも、目の前にいる人が気になる。
そんなためらいが、何度も揺れていた。
フィエルを見ると、こちらも魔獣を見ていた。腕の中で身を乗り出そうとしたので、抱く手に少し力を入れた。
「フィエル、待って」
魔獣が首を伸ばした。その動きを見て、小さく呟いた。
「……フィエルが気になるの?」
ゼフィがわずかに顔を向け、リシェは口を閉じた。
魔獣は、ゼフィを大きく避けるように歩き始めた。道へは出ず、草の縁を回る。ゼフィが体の向きを変えると一度止まり、それからまたリシェの方へ近づいてきた。
小さな鼻が何度も動いていた。
その場を動かず、近づいてくる足元と、伏せたままの耳を見つめた。
すぐ前まで来た魔獣が顔を上げた。
腕の中のフィエルへ向かって。
胸に伝わるものが、少し変わった。ためらいの向こうから、強い好奇心が顔を出す。
もっと近くで確かめたい。
フィエルを下ろしかけた。
「そのままで」
ゼフィの声に、手を止める。
「ごめんね。今は抱いていて」
「はい」
魔獣が後ろ足で少し立ち上がり、鼻先を高くした。フィエルも顔を近づける。
二つの鼻先が触れる前に、魔獣は地面へ足を戻した。リシェの靴のそばの匂いを嗅ぎ、もう一度顔を上げる。
瞬きも忘れて見ていた。
その灰青色の瞳に、小さな金色の光が浮かんだ。
ゼフィの視線が止まった。
雨の森で見たものと、同じだった。
魔獣はしばらく二人のそばにいた。リシェが何かするのを待っているようでもあり、ただ匂いを確かめているようでもあった。
やがて林の奥で鳥が鳴くと、耳を立てた。来たときより軽い足取りで草の中へ戻り、木の根の向こうへ姿を消した。
そこでようやく息をついた。
「行っちゃいました」
「うん」
林へ目を向けたまま、ゼフィが答えた。
腕の中で手を舐めたフィエルの頭を撫でた。
魔獣の気配はもう遠い。先ほどまで伝わっていた好奇心も、薄れて消えていった。
*
歩き始めてから、何度か後ろを振り返った。魔獣は追ってこなかった。
「今の魔獣は、本で見たことがある?」
「ありません。ゼフィさんは?」
「見かけたことはあるよ。ただ人の近くまで来るところは、あまり見ない」
足を止めそうになった。
「そうなんですか」
「私が近づいたときは警戒していたね」
ゼフィはそれ以上、言葉を重ねなかった。リシェも黙ったまま、フィエルを抱き直した。
また、口にしてしまった。
あの魔獣が何を思っているか、知っているわけではない。言葉が聞こえたわけでもない。でも、さっきは確かに、フィエルを気にしているように感じた。
説明しようとすると、どこから話せばいいか分からない。
道の先へ目を向けていたゼフィが、しばらくして、いつもの声で言った。
「今日は二人ともよく歩いたね」
「はい」
「戻ったら少し休もう。報告はそのあとで構わないよ」
頷いた。
フィエルが自分で歩きたがったので、道の平らなところで下ろした。銀白色の尾が揺れ、足音が二人の間を進んだ。
*
ギルドで報告を終えると、魔獣のこともノートに書いた。
茶色の体。背中の筋。耳の先は黒い。
どのくらいの大きさだったか考え、余白に絵を描いた。
隣で自分の用事を済ませていたゼフィが、リシェが筆を置くと、その絵へ目を向けた。
「名前を調べたい?」
「はい。図書館に載っているでしょうか」
「載っているかもしれない。魔獣に詳しい人に聞くこともできるよ」
顔を上げた。
「知っている方がいるんですか?」
「エルネストという研究者。私の知人なんだ」
足元のフィエルを見て、ゼフィが続けた。
「フィエルのことも、種類を調べたいと思っていたよね」
「はい。オルテンでも分からなくて」
「よければ会ってみる? 知っている魔獣なら、話を聞けると思う。ただ必ず分かるとは約束できないけど」
フィエルへ目を落とすと、小さな耳がこちらを向いていた。
今まで読んだ本には、フィエルと同じ魔獣は見つからなかった。あの茶色の魔獣のことも、もっと知りたい。
「会ってみたいです」
ゼフィが頷いた。
「では、都合を聞いてみるね。君の予定が空いている日にしよう」
「ありがとうございます」
ノートの隅へ、エルネスト、と書いた。
今日見つけたのは、傾いた道標だけではなかった。
知らない魔獣と、その魔獣を調べている人へ続く、新しい約束ができた。




