第六十話 まだ知らない仕事
引っ越して最初の朝、リシェは通りを曲がる代わりに、庭を横切った。
食堂で朝食を取り、そのまま作業室へ向かう。パン屋の角も、井戸のある広場も通らない。足元のフィエルが草の匂いを確かめているうちに、もう建物の入口へ着いた。
昨日までの通い道がなくなると、朝の時間が少し余った。
作業室の扉は開いていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
机に紙を広げていたイネスが、いつもの鉢へ向かうリシェに片手を上げた。
「今日は先にこれを見て」
台に空の鉢が三つ並び、その下には土のこぼれた跡があった。
「運ぶときに、底を確かめてほしい。ひびが入っているものは分けておいて」
「分かりました」
一つ目を持ち上げ、底を見た。細い線がある。指でなぞりかけて、手を止めた。
「これはひびですか?」
イネスが覗き込んだ。
「それは作るときについた跡。ここを見て」
隣の鉢を持ち上げると、底から脇へ線が伸びていた。内側にも同じ線が見える。
「こちらは分けよう」
二つを見比べた。
植物を見る仕事だけではない。鉢を運び、札を確かめ、道具を片づける。どれも、知らないまま手を動かしていいわけではなかった。
それから十日ほどで、朝の仕事の順番が決まってきた。
食堂から作業室へ行き、記録する鉢を確かめる。終わった紙をイネスに見せ、頼まれた作業を手伝う。
採集に出る日は前もって伝え、午後が空けば図書館へ行くこともあった。
施設の中で眠そうな人を見かけても、もう驚かなくなった。ただ、食堂でパンを持ったまま考え込んでいる人には、いつ声をかければいいのかまだ迷った。
*
「届きました!」
ある午後、トーマが細長い包みを抱えて作業室へ入ってきた。
イネスが顔を上げた。
「待ってた。こっちへ」
机を空けて包みを開くと、中には植物が入っていた。根の周りを湿ったものに包まれた株と、紙に挟まれた葉。採った場所や日付を書いた紙も添えられている。
台の上へ並べるのを手伝った。
「これ、どこから来たんですか?」
イネスが答えたのは、聞いたことのない地名だった。
「遠いんですか?」
「ここからなら何日か、かかるね。道を外れて調べる時間も必要だし」
「薬草を採る人が、持ってきてくれるんですか?」
「今回は冒険者に頼んだ。行く途中に、危険な場所があるから」
「冒険者……」
添えられた紙を広げ、イネスが続けた。
「植物だけでなく、周りの様子も記録してもらっている。研究者が一緒に行くこともあるけど、今回は採集と報告をお願いしたんだ」
紙には、地面の傾きや周囲の木についても書かれていた。顔を近づけると、自分のノートに書いていることと少し似ている。
「冒険者もこういう仕事をするんですね」
「するよ。調査の護衛も物を運ぶ仕事も。剣を振るうだけではない」
腰に剣を下げて街を歩いていた人たちを思い出した。
何と戦うのだろう、と考えていた。だが、その中には、こうした包みを届けに来た人もいたのかもしれない。
イネスが株を持ち上げた。
「この葉、気になる?」
「はい」
「では、まず届いたときの状態を残そう。育て始める前にね」
知らない場所で育った植物が今、目の前にある。その場所のことも知りたくなったが、まずは葉の形を描いた。
*
同じ頃、ゼフィは魔獣研究者エルネストの部屋を訪れていた。
机の向こうで、眼鏡をかけた男が顔を上げる。
「今度は何を見つけた?」
「まだ、何も見つけていないよ」
「君がそう言うときは、何かある」
エルネストが読んでいた紙を脇へ置くと、ゼフィは椅子へ座った。
「聞きたいことがあるんだ。魔獣の気持ちを人間が受け取ることはある?」
「従魔契約の話か?」
「契約しているかどうかは分からない。そういうものがなくても、相手の気持ちが分かることはあるのかな」
少し考えてから、エルネストが答えた。
「長く一緒にいる相手なら、仕草や鳴き声から察する人はいる。耳の向き、体の動き、近づき方。見慣れれば分かることは多い」
「初めて会った魔獣では?」
「何を分かったかによる。警戒している、怒っている。その程度なら、経験のある人間にも判断できるだろう」
頷いた。
雨の森で、少女が見つめていた先。近づいてこなかった黒い魔獣。そして、灰青色の瞳に浮かんだ小さな金色の星。
「言葉を聞いたということか?」
「そういう話ではないよ」
「では、何かを伝えようとしていると感じた?」
「そう見えた」
机の上で指を組み、エルネストが言った。
「それだけなら、何とも言えない。魔獣の行動を正しく読んだのかもしれないし、偶然、出来事と結びついたのかもしれない」
「人間と魔獣が心を通わせる例は?」
「長く過ごせば何を欲しがってるか分かることはあるだろう。ただ、感情を直接理解できることは別だ」
椅子へ深く座り直した。
エルネストの言葉は慎重だった。見たものを否定はしない。だが、分からない部分を埋めようともしない。
「誰か、心当たりが?」
「旅の途中で気になることがあったんだ」
「本人に聞けばいい」
「本人もうまく説明できないようだった」
エルネストが頷いた。
「なら、急いで答えを出す必要はないだろう。分からないのに説明を求めても、君が聞きたい答えを作らせるだけになる」
ゼフィは小さく笑った。
「相変わらずだね」
「君こそ。気になったものを、そのまま置いておくのは苦手だったか?」
「少しは置いておけるようになったよ」
眼鏡を直し、エルネストが答えた。
「それなら結構」
それ以上のことは話さなかった。
*
数日後、リシェは約束していたパンを持って、ポルテを訪れた。扉を開けると、リリがすぐに気づいた。
「フィエル!」
「私もいるよ」
リシェが言うと、リリが笑った。
「リシェも!」
机から椀を下げていたニルスが、呆れた顔をした。
「最初からそう言えばいいのに」
ハンナに挨拶をし、食堂の隅へ座った。フィエルを下ろすと、リリも床へしゃがんだ。
「みんなで食べてね」
「切ってくるよ」
ハンナが包みを受け取ると、奥からエリオが出てきた。
「ちょうどよかった。見て」
手には小さな布の袋を持っていた。口に通した紐を緩め、中を見せるために広げる。
「これ、俺が見本を並べたんだ。父さんに値段の説明もさせてもらった」
「売れた?」
「一つ。残りは父さんが売った」
「すごいね」
「一つだけだけどな」
そう言いながら、うれしそうだった。
リシェも、届いた植物の話をした。遠い場所から来たこと。冒険者が採って、周りの様子まで書いて持ってきたこと。
「そんな仕事もあるんだ」
エリオが袋を畳んだ。
「俺、護衛が一番多いと思ってた」
「私も戦う仕事だと思ってた」
「商人だって、店で売るだけじゃないしな」
そのとき、入口でブルーノの声がした。
「ゼフィリス、今日は早いな」
振り返ると、ゼフィが挨拶を返してから、こちらへ来た。
「久しぶり。施設には慣れた?」
「はい。まだ知らない植物が、たくさんあります」
「それは楽しそうだ」
ゼフィが席につくと、ハンナが切ったパンを運んできた。一切れを受け取り、少し迷ってから尋ねた。
「ゼフィさんも、植物を採る仕事をしたことがありますか?」
「あるよ。見つけた場所を記録して、研究者に届けたこともある」
「難しい依頼なんですか?」
「植物と場所によるね。珍しいものでも、安全なところに生えていれば、採ること自体は難しくない。逆のこともある」
イネスが開いていた紙が、頭に浮かぶ。
「研究施設に、冒険者の方から植物が届いたんです。私も、いつかああいう仕事ができるのかなと思って」
ゼフィはすぐには答えなかった。
「今の採集の仕事は、どう?」
「続けています。でも、行ける場所はまだ少ないです」
「街の周りを知るには、時間がかかるからね」
すぐに遠くへ行きたいわけではない。でも、図書館の本に載っている場所や、イネスのもとへ届く植物の育つ場所を、いつか自分でも見てみたかった。
「冒険者ギルドには行ったことがある?」
「ありません」
「では一度、どんな仕事があるか見てみようか」
「一緒に行ってもらえるんですか?」
「明日の午後、私も行く用事があるんだ。時間が合えば」
「午前中は施設の仕事です。午後なら行けます」
「それなら、昼食のあとに迎えに行くよ」
頷いて鞄からノートを取り出し、明日の欄へ、冒険者ギルド、と書いた。
横からエリオが覗き込む。
「どんな依頼があったか、あとで教えて」
「うん」
その足元では、リリがフィエルに向かってパンを見せていた。
「これは私の。フィエルはこっち」
ハンナに用意してもらった分を別の小皿へ置く。フィエルが鼻を近づけると、リリがうれしそうに笑った。
ノートを閉じた。
採集者ギルドとは、どんなところが違うのだろう。
明日は、もう一つの仕事の入口を見に行く。




