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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第五十九話 小さな部屋の鍵


「住む場所と、仕事の話ができるよ」


 数日後、研究施設を訪れたリシェに、イネスが一枚の紙を差し出した。


 椅子に座り、ノートを開いた。紙には、手伝う仕事と給料、それから部屋や食事にかかる費用が書かれている。


「ここを見て」


 最初の欄を指して、イネスが言った。


「君は研究者として勤めるわけではないから、給料はまだ少ない。頼みたいのは、鉢の観察と記録、それから簡単な作業の手伝いだよ」


 文字を追った。観察する鉢は、まず今まで見ていたものから。知らない作業は、教わってから行う。


「記録は、毎日ですか?」

「続けて見たい日はある。でも、採集に行く日もあるだろう? 来られない日は私が見るから、予定を先に教えてほしい」

「はい」

「時間も決めよう。朝から晩までここにいてもらうつもりはないよ」


 頷き、次の欄へ目を移した。給料の下に、部屋代と食事などの生活費が並んでいる。


「これは……払うんですか?」

「給料から引かれる。残った分を受け取る形だね」


 指先で行をたどった。書かれた給料が、そのまま全部もらえるわけではない。でも、ここに住めば、ポルテの宿代を別に払わなくてよくなる。


 ノートに数字を書き写し、順番に引いていった。途中で一度、計算をやり直したが、イネスは急かさずに待っていた。


「残るのは、これですか?」

「そう」


 決して多くはなかった。それでも、眠る部屋と食事があって、そのほかに自分で使えるお金が残る。


「採集で受け取ったお金は?」

「それは君のもの。ここの仕事と予定が重ならなければ、続けて構わないよ」


 計算の横へ、小さく書き添えた。


 採集の仕事も続けられる。

 図書館へ行く日も、作れる。


「分からないところはある?」


 紙を見直して、尋ねた。


「お休みする日は、前に言えばいいんですか?」

「うん。体調が悪いときは、その日に言ってくれていい。無理して鉢の前に座られても困るからね」


 リシェが少し笑うと、イネスが立ち上がった。


「では部屋を見に行こう」


     *


 庭を抜ける途中で、トーマと出会った。今日は箱ではなく、鍵を持っていた。


「こっちです。掃除は済んでます」


 案内された建物は、作業室より静かだった。廊下の途中に靴が置かれ、窓辺には小さな鉢が並んでいる。奥の扉が開き、眠そうな顔の人が出てきた。


「おはよう」


 イネスの挨拶に、思わず窓の光を見た。もう昼前だった。


 相手は短く返事をして、そのまま外へ向かった。


「昨日、遅くまで作業していたんだろうね」


 特に気にした様子もなく、イネスが廊下を進んだ。トーマが一つの扉を開ける。


「ここです」


 中へ入ると、寝台と机、椅子があった。壁際には棚があり、窓からは庭の端が見える。


 大きな部屋ではない。だが、鞄を置いたあとも、床には歩ける場所がある。


 下ろしたフィエルが、まず寝台の下を覗き込んだ。それから棚のそばへ行き、窓から差す光の中で鼻を動かす。


 リシェも窓へ近づいた。見えるのは薬草の区画と、建物の間を通る細い道だった。


「私の部屋は、この廊下の奥。用があれば来ていい。いなかったら作業室にいることが多いかな」

「ここからすぐ行けるんですね」

「そう。それが一番いい」


 返事が早かったので、少し笑った。


 机に手を置いた。本を並べたら、どのくらい場所を使うだろう。ノートは棚に置いてもいい。フィエルのための布は、寝台のそばに敷けそうだった。


「気になるところは?」


 イネスに聞かれ、振り返った。


「食事はどこで食べるんですか?」

「食堂。見に行こう」


     *


 食堂は、ちょうど昼食の支度が整ったところだった。奥で鍋の蓋が持ち上がり、湯気が広がる。


 机にはすでに何人か座っていた。一人は食べながら紙を読んでいる。別の二人は、パンをちぎる手を止めずに話し続けていた。


「それで、葉の裏を――」

「先に食べてから」


 料理を運んできた人に言われ、片方が紙を机の端へ寄せた。


 イネスを見ると、手に持っていた紙を折り畳んだ。


「私もよく言われる」


 小声だった。笑いをこらえながら、隣に座った。


 食事のできる時間や、どこで椀を受け取るかを教えてもらった。フィエルについても話すと、ほかの人の席へ行かせず、食べ物を扱う場所には近づけないようにと言われた。


 頷いて、鞄を椅子のそばへ置いた。フィエルは中から周囲を眺めている。


 温かい皿が運ばれてきた。すぐに手を伸ばしかけたイネスが、リシェの前の皿がそろうまで待った。


「いただこうか」

「はい」


 食べ始めると、向かいの席の人がイネスへ話しかけた。知らない植物の名前が出て、イネスの返事が少し速くなる。


 話を聞きながら、自分の皿の野菜を見た。煮込まれて形が変わっているが、食べたことのあるものだった。


 ここで暮らす人たちは、食事の間にも植物のことを考えている。


 全部は分からない。でも、ときどき知っている言葉が聞こえると、顔を上げたくなった。


 食事が終わる頃、イネスが尋ねた。


「どうする? 持ち帰って考えてもいいよ」


 鞄の中を見ると、フィエルがこちらを向いた。その背をひと撫でしてから、顔を上げた。


「ここで、手伝いたいです」

「住むことも?」

「はい」


 イネスが頷いた。


「分かった。では、いつからにしようか」


     *


 ポルテへ戻る道は、もう覚えていた。だが、その日は扉の前で少し立ち止まった。


 中からリリの声が聞こえる。ブルーノが何か答え、すぐにニルスの声が重なった。


 扉を押した。


「ただいま」

「おかえり!」


 椅子から立ち上がったリリが尋ねた。


「フィエル、起きてる?」

「うん。その前にお話があるんだけど」


 ハンナが奥から顔を出した。


 研究施設で聞いたことを話した。仕事を手伝うこと。少ないけれど給料が出ること。部屋代や生活費は、そこから引かれること。


 それから、施設の中へ引っ越したいと伝えた。


 話を聞き終えたブルーノが頷いた。


「条件を確かめて、自分で決めたんだね」

「はい」

「なら、いいじゃないか」


 ハンナも口元を緩めた。


「食堂があるなら、食べる場所にも困らないね」

「あります。今日、お昼を食べました」

「それは大事だ」


 エリオの声がした。いつの間にか、ローレンと一緒に食堂へ戻っていた。


「おいしかった?」

「うん」

「じゃあ、よかったな」


 リリだけが黙っていた。顔を向けると、鞄を見つめている。


「フィエルも行くの?」

「うん。一緒に」

「もう来ない?」

「来るよ」


 しゃがんで、リリに言った。


「同じ街だもの。お仕事がない日に遊びに来てもいい?」


 少し考えてから、リリが尋ねた。


「フィエルも?」

「もちろん」

「じゃあ、いい」


 そう答えて鞄へ手を伸ばした。フィエルの頭を撫でる手は、最初に会った日より慣れていた。


「次いつ?」

「まだ決めてないけど、来る前に約束しよう」

「忘れないでね」

「うん」


 隣からニルスが言った。


「研究施設って、図書館より向こう?」

「そう」

「じゃあ、遠くないな」


 リシェは頷いた。


 街を離れるのではない。それでも、毎朝顔を合わせていた人たちと、明日から同じ場所で暮らさなくなる。


 ハンナの手が肩に置かれた。


「荷物をまとめたら、ご飯を食べにおいで。今日はまだ、ここのお客さんだからね」


     *


 引っ越しは、翌日の午後にした。


 荷物をまとめるのに、長くはかからなかった。本とノートを鞄へ入れ、洗った服を畳み、フィエルの布を重ねる。


 机の上が空くと、来た日の部屋に戻ったようだった。


 寝台の下まで確かめて扉を閉め、階段の下でブルーノに鍵を返した。


「お世話になりました」

「こちらこそ。また顔を見せておくれ」


 ハンナが小さな包みを渡してくれた。


「おやつに。向こうへ着いてから食べなさい」

「ありがとうございます」


 エリオが荷物を一つ持ち上げた。


「どっち?」

「え?」

「研究施設。俺、そっちの道は知らない」


 後ろからローレンが頷いた。


「戻ったら仕事を手伝ってもらうよ」

「分かってる」


 リシェは笑って、扉を開けた。


 外へ出ると、リリが大きく手を振った。その隣では、通りへ飛び出さないよう、ニルスが妹の肩に手を置いていた。


 振り返って手を振った。


     *


 新しい部屋へ荷物を運ぶと、エリオが窓の外を見た。


「本当に草ばっかりだな」

「まだほかにもあるよ」

「リシェにはいいところだ」


 荷物を置いて、机を軽く叩く。


「今度、ここで調べたことも教えてよ」

「うん。エリオも商売のこと教えて」

「任せろ」


 少し胸を張ってから、エリオが帰っていった。


 廊下で足音が遠ざかる。


 鞄から本を出して棚に並べ、ノートは机へ置いた。寝台のそばに布を敷くと、フィエルがその上へ乗り、何度か足で踏んでから、くるりと回って丸くなった。


 扉が軽く叩かれた。開けると、イネスが鍵を持って立っていた。


「渡すのを忘れていた」


 手のひらに、小さな鍵が落ちた。


「明日は朝食のあと、作業室へ来てくれる?」

「はい」

「では、また明日」


 イネスが廊下へ戻り、リシェは扉を閉めた。


 手の中の鍵を見下ろした。


 ポルテでは、帰ると誰かが迎えてくれた。


 ここでは、この鍵で自分の部屋を開ける。


 机の引き出しを開き、鍵を置く場所を決めた。それからノートを開いて、明日の予定を一行書いた。


 朝食のあと、作業室へ。


 足元では、フィエルがもう眠っていた。

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