第五十八話 値札のない仕事
「こっちの束は入れないの?」
エリオが台の上を指した。リシェは首を振った。
「まだ湿ってるの。ほかの葉と一緒にすると傷むかもしれないから」
「じゃあ、別の籠?」
「うん」
エリオが空の籠を引き寄せた。
宿屋ポルテの裏で、リシェは採ってきた薬草を選り分けていた。朝、ギルドで紹介された採集者たちと東の林へ行った。目当ての草は見つかったが、同じ場所にそっくりな葉も混じっていて、何度か手を止めることになった。
今まで見てきた草を知っていても、初めての林で迷わず採れるわけではない。
それでも、籠の中には納品できる葉がある。
「俺もひと束持つよ」
「いいの?」
「父さんの用事、終わったし。ギルドまでだろ?」
葉へ手を伸ばしかけたエリオが、すぐに引っ込めた。
「どこ持てばいい?」
茎のまとまったところを示した。聞いてから持ってくれるのが、少しうれしかった。
*
持ち込まれた葉を、トビアスが台へ広げた。表を見て裏を返し、束の内側も確かめる。その手元を見守った。
「この一枚は外そう」
指された葉には、折れたところに黒ずみがあった。
「あ……」
採ったときにはなかったはずだ。
「運ぶ途中で、下敷きになったのかもしれないね」
籠の底を見た。葉が動かないように詰めたつもりだった。だが、入れ方にも気をつけなくてはいけない。
残りは受け取ってもらえた。台の上に置かれた代金を、隣のエリオが見た。
「これでいくら?」
リシェが答えると、葉の束へ目を戻した。
「朝から行ってこのくらいか」
「今日は場所を教えてもらいながらだったから」
銅貨を財布へしまった。宿代を全部まかなえるほどではない。
それでも、アルセインで初めて、自分の仕事で受け取ったお金だった。
ギルドを出ると、エリオが自分の手を見た。指先に小さな葉の切れ端がついている。
「採るだけじゃないんだな」
「うん。戻ってからも見るよ」
「父さんの商品と似てる。運んだあと、割れてないか確かめるし」
切れ端を払って続ける。
「でも葉が一枚傷んだのと、瓶が一本割れたのは違うな」
「瓶は片づけるのも大変そう」
「すごく」
二人で笑いながら、宿へ向かった。
*
翌日の午後、リシェは研究施設を訪れた。今度は門で止まらず、イネスのいる建物へ向かう。花の並ぶ区画を通るときだけは、少し歩くのが遅くなった。
作業室では机の上が空けられていた。前に来たときは紙と本で埋まっていた場所に、記録用の紙が三枚並んでいる。
「来たね」
顔を上げたイネスが言った。
「今日はこの三つを見てほしい」
鉢の札と、紙の上に書かれた記号が同じだった。ノートを出しかけて、尋ねた。
「こっちに書くんですか?」
「そう。あとで私も読むからね。君のノートに残したいことは別に書いて構わない」
椅子に座り、一枚目を見た。見る日と、鉢の記号。その下には、葉や茎の状態を書く欄がある。
「大きさは測りますか?」
「今日は形や色を見よう。測るときは、どこからどこまで測るかをそろえる必要があるから」
隣へ座り、イネスが続けた。
「まず一つ、一緒にやってみよう」
葉の先を見た。昨日見た薬草とは違う。丸い葉が、茎の左右に出ている。
「元気そうです」
「どこを見て、そう思った?」
口を閉じた。
何となく、そう見えた。でも、何となくでは、イネスに伝わらない。
もう一度、鉢へ顔を近づけた。
「葉が下に垂れていません。それから……黄色くなったところは、見えません」
「うん。それを書こう」
筆を動かすと、元気そう、と書くより長くなった。
次の鉢では、葉が一枚だけ下を向いていた。ほかの葉と色は変わらない。それも見えたとおりに書いた。
三つ目まで終わると、イネスが紙を読んだ。
「ここ。『小さい葉が増えている』とあるけど、前にも見た?」
顔を上げた。
「……見ていません」
葉の付け根に、小さな葉があった。それを見て、増えたのだと思ってしまった。
「では今は何と書ける?」
少し考え、書いた言葉に線を引いた。
葉の付け根に、小さい葉が二枚ある。
イネスが頷いた。
「次に見たとき、今日の記録と比べられるね」
紙を見直した。ノートにも、知らないうちに同じ書き方をしているかもしれない。
宿に戻ったら、読み返してみようと思った。
*
そのあと数日、リシェは採集に出たり、図書館へ行ったりして過ごした。
ポルテへの帰り道では、もうノートを開かなくなった。
パン屋の角でフィエルが鼻を動かすのは変わらない。リリに頼まれた日に小さなパンを買って帰ると、フィエルの分もあるのかと、真剣な顔で聞かれた。
ローレンとエリオは、朝から商品を運び出すことが増えた。ゼフィは朝食の席にいる日もあれば、戻るのが遅い日もある。
ある夕方、リシェが採集袋の紐を直していると、隣の席で食事をしていた客が、入ってきたゼフィへ声をかけた。
「ゼフィリスさんじゃないか」
足を止め、ゼフィが答えた。
「久しぶり。君もここに泊まっていたんだね」
「昨日から。ギルドで名前を聞いたから、どこかで会えるかと思ってたんだ」
二人はしばらく話していた。リシェには分からない地名も出てきた。
途中で客が依頼のことを尋ねると、ゼフィが首を振った。
「今は予定が決まっていないから、約束はできないよ」
「そうか。あんたが来てくれれば、心強いんだが」
残念そうだったが、それ以上は頼まなかった。
こちらの席へ来たゼフィを見上げた。
「知っている方なんですか?」
「前に同じ依頼に参加した人だよ」
「一緒に旅をしたんですね」
「少しだけね」
ゼフィの視線が、リシェの手元へ向いた。
「紐は直った?」
「はい。結び目が大きくなりましたけど」
「ほどけるよりいい。新しいものに替えるまでは使えそうだね」
袋を引いて確かめた。今度は、口がきちんと閉じた。
*
三度目に研究施設を訪れた日、イネスはリシェを見るなり、一枚の紙を差し出した。
「前に見た株を、もう一度お願い」
紙を受け取って鉢の前へ座り、記号を確かめてから前の記録を読んだ。
葉の付け根に小さい葉が二枚ある。
顔を近づけると、その二枚は前より開いていた。すぐに書こうとして、手を止めた。
「前より開いた、と書いてもいいですか?」
イネスが隣から覗き込んだ。
「前の形を覚えている?」
「はい。でも絵も描いておけばよかったです」
「今日は描いておこう。次に比べやすくなる」
余白へ小さな葉の形を描き、そのあと下を向いていた葉を探した。今も同じ葉が垂れている。だが、端に少し黄色いところができていた。その位置も書き添えた。
記録を終えると、イネスが前の紙と並べて読んだ。
「分かりやすいね」
少し姿勢を正した。
「前の記録があったので」
「そう。だから続けて残したい」
紙を机へ置き、イネスが言った。
「この仕事、これからも頼めないかな」
「観察ですか?」
「観察と記録。それから採集に行ったときの話も聞きたい。もちろん、手伝ってもらう分の報酬は出す」
机の上の紙を見た。植物を見せてもらって、自分も知らないことを教わっている。それがお金を受け取る仕事になるとは、まだ考えていなかった。
「私でいいんですか?」
「今日の記録は、君が書いたものだよ。分からないところを聞いてくれるのも助かる。私が後で読み違えずに済むからね」
口元が緩んだ。
「やりたいです」
答えてから、採集に出る日を思い浮かべた。
「でも、毎日は来られないかもしれません」
「ほかの予定もある?」
「はい。採集の仕事も続けたいので」
ノートを開き、今週の予定を示した。
「貯めたお金はまだありますけど、宿に泊まる分も、これから稼がないといけなくて」
今すぐ困っているわけではない。でも街で暮らしていくなら、食事も部屋も、ただではなかった。
予定を眺めたあと、イネスが窓の外へ目を向けた。
「それなら、住む場所のことも相談してみようか」
「住む場所?」
「施設の中に住宅があるんだ。私も、ほかの研究者も、そこで暮らしている」
庭の向こうに建物が見えた。窓の一つが開いていて、その下では誰かが鉢に水をやっている。
そこにも人が住んでいるのだと、初めて知った。
「部屋が使えるか、確認してみる。ここで手伝ってもらう条件も含めてね」
イネスがリシェへ向き直った。
「採集をやめて毎日ここにいる必要はないよ。どのくらい手伝えるか、一緒に決めたい」
「……フィエルも?」
足元の鞄に目を落とした。フィエルは口のところへ顎を載せ、眠っていた。
「その子も一緒に暮らせるか、ちゃんと聞いておこう」
もう一度、庭の向こうを見た。
ここに住んだら、朝もあの花が見られる。観察した鉢を、次の日にも確かめられる。
そう思ったあとで、ポルテの食堂が浮かんだ。リリがフィエルを待っている。ニルスは、今日も椀を並べているだろう。
「今すぐ決めなくてもいいからね」
イネスの声に振り返った。
「まずはどんな条件になるか聞こう。それから部屋を見て、考えればいい」
リシェは頷いた。
「はい。お話聞きたいです」
机の端から紙を一枚取り、イネスが確認することを書き始めた。
リシェもノートを開き、今日の観察記録の次に少し空けて、新しい見出しを書いた。
研究施設で暮らすこと。
その下には、まだ何も書かなかった。




