第五十七話 白衣の行き先
「葉の広い木が多かったです。それから、近くに倒れた木がありました」
リシェの話を、イネスが紙に短く書きつけた。
「その薬草は、倒れた木のそば?」
「少し離れていました。木の下には別の草が生えていて」
「土の湿り方は同じだった?」
ノートへ目を落とした。採った場所のことは書いてある。だが、倒木の下の土までは確かめていなかった。
「そこは分かりません」
「うん。では、分からない」
頷いて別の行へ目を移し、イネスが尋ねた。
「こっちの日向の株は、何日後に見たの?」
「同じ日です。帰りに道の近くで見つけました」
「同じ日か」
筆が止まった。二つの記録を見比べ、机に広げていた紙へ何かを書き足す。
その手元を見ていた。
自分のノートを、こんなに長く読む人は初めてだった。花の絵だけではなく、脇に書いた短い言葉まで、一つずつ確かめている。
「これ、何かに使えるんですか?」
「使えるかもしれない。私のところにも、この薬草があるんだけど葉の状態がそろわなくてね」
紙の端を押さえて、イネスが続けた。
「採ってきた場所の名前は残っている。でもどんなところに生えていたかは、あまり分からないんだ」
「同じ草でも違いますか?」
「違うことがある。それが場所のせいなのか、育ち方なのか、ほかの理由なのかを調べたい」
自分の記録を見直した。オルテンでは、日向の葉の方が厚く感じた。ただ、それがいつもそうなのかまでは分からない。
イネスも同じように考えているらしかった。
「これで答えが出るわけじゃないよ。でも、確かめるところは増えた」
そう言って椅子から立ち上がった。
「実物を見てみる?」
「実物?」
「研究施設にある株。あの記録と比べてほしい」
顔を上げた。
「行ってもいいんですか?」
「私が連れていくから。ここから歩けるよ」
思わず頷きかけて、窓へ目を向けた。光の位置がさっきより変わっている。
「あの、先に宿へ戻ってもいいですか。お昼には帰るつもりだったので」
窓を見たイネスが、それから自分の机を見下ろした。
「……もう昼か」
椅子の背から白衣を取り、広げていた本を閉じ始めた。
「ちょうどいい。私も食べよう」
*
図書館を出ると、通りの音が一度に戻ってきた。すぐそばを通る荷車をよけ、鞄を抱えて端へ寄った。フィエルが顔を出し、外の匂いを確かめている。
「宿はどこ?」
「ポルテです」
「じゃあ途中まで一緒だ」
歩きながら、イネスがノートのことを尋ねた。いつから書いているのか。植物の名前はどう覚えたのか。絵も自分で描いたのか。
古い図鑑を使っていることや、オルテンの本屋で調べていたことを話した。
「この街の図書館は、初めて?」
「はい。本が多くて、どこから見ればいいのか迷いました」
「私も、探していた本と違うものを読んでいることがある」
「イネスさんも?」
「気になる題があるとね」
その返事に、リシェは笑った。
パン屋の看板が見え、角を曲がった。宿の扉を開けると、ハンナが食卓を拭いていた。
「おかえり。ギルドは見つかった?」
「はい。明日の朝、また行くことになりました」
「よかったね。お昼も食べる?」
「お願いします。それから、午後に——」
振り返ると、イネスが入口のそばで白衣を持ち直していた。
「イネスです。図書館でこの子の記録を見せてもらって。午後、植物研究施設へ案内したいんですが」
ハンナがリシェへ目を向けた。
「行ってみたいの?」
「はい」
「分かった。夕食までには戻る?」
イネスを見ると、答えが返ってきた。
「戻れるよ。長く引き留めないようにする」
そう言ってから、少し考える。
「夕食は何時ですか?」
「出かける前に教えるよ。あなたも食べていく?」
「お願いします」
ハンナが奥へ向かうと、イネスも空いた席に腰を下ろした。リシェは向かいに座り、鞄を足元へ置いた。
朝、宿を出たときには、ギルドで仕事の話を聞いて戻るつもりだった。それが図書館へ行き、午後には研究施設を見せてもらうことになった。
ノートを机の端へ置いた。
今日のページに、何を書くことになるのだろう。
*
午後に訪れた研究施設は、通りから少し奥まった場所にあった。
門の向こうに建物がいくつか並び、その間には畑のような区画が広がっている。鉢を載せた台もあった。背の高い草の隣には、小さな札を立てた苗が一列に並んでいる。
門をくぐってすぐ、足を止めた。
知らない葉がある。
図鑑で見たことのある花も、その隣に咲いていた。絵では小さく描かれていたのに、実物はリシェの膝より高い。
「リシェ」
呼ばれて顔を上げると、イネスが少し先で待っていた。
「入口から進まないと、今日が終わる」
「すみません」
「気持ちは分かるけどね。あとで見よう」
頷いて後を追った。
建物の中では、若い男性が棚の前に立っていた。片手に紙、もう片方に木箱を持ち、二つを見比べている。
「トーマ」
イネスの声に、男性が振り返った。
「あ、おかえりなさい。頼まれた鉢、届いてます」
「ありがとう。どこ?」
「作業室です。あとは、この箱が……」
「それは隣の部屋。宛先に書いてある」
トーマが箱を傾け、横に貼られた紙を見つけた。
「あ。本当だ」
持っていた紙が滑り、リシェはとっさに手を伸ばした。
「これ」
「ありがとう」
受け取ったトーマが、そこで初めてリシェを見た。
「お客さんですか?」
「リシェ。薬草の記録を見せてもらったんだ。これから株を比べる」
「なるほど。僕はトーマです。物の手配とか、連絡とか、そういうのをしてます」
「リシェです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
その視線が鞄へ移った。フィエルが顔を出している。
「その子も?」
「フィエルです」
「分かりました。じゃあ、僕はこれを届けてきます」
箱を抱え直して通り過ぎたトーマが、一つ先の扉に手を掛けた。
「そっちじゃない」
イネスの声に、すぐ隣へ戻る。その様子に、リシェは口元を押さえた。
*
作業室には、鉢がいくつも並んでいた。窓際の棚にも、奥の台にも植物がある。乾かした標本を挟んだ紙が積まれ、机の上には小さな道具が置かれていた。
白衣を羽織ったイネスが、一つの台の前で止まった。
「これなんだけど」
近づくと、ギルドでも見た薬草だった。葉の広がり方が少しずつ違う。よく伸びている株もあれば、葉が小さく、下へ垂れている株もある。
「どれも同じ草ですよね」
「そう。違う場所から運んできたものを、ここで育てている」
札を示して、イネスが続けた。
「こっちはオルテンの近くから来た株。こちらは別の場所」
ノートを開き、オルテンで採った日の記録と、鉢の葉を見比べた。触っていいか尋ねると、イネスが頷いた。
「葉を折らないようにね」
指先で、そっと支えた。
薄い。
ノートに書いた木陰の葉と同じかは、分からなかった。手を離した。
「これ、いつ運んできたんですか?」
イネスがこちらを見た。
「どうして?」
「場所を変えたあとでも、葉は同じなのかなと思って」
「運んだ影響もあるね。だから、元の場所でどんな状態だったかを知りたいんだ」
取り出された記録の紙には、採った場所と日付が書いてあった。でも、周囲の木や土の湿り方は、リシェのノートほど詳しくなかった。
「この株が、私の見たところに生えていたかは分かりません」
「うん。そこは決めつけない」
二つの記録を並べ、イネスが言った。
「でも、次に同じ地域で調べるなら、日向と木陰を分けて見る。土も確かめる。そういう調べ方を考えられる」
鉢へ目を戻した。
採るときは、使える葉を探していた。ここでは、使えそうにない葉にも目を向ける。
なぜ小さいのか、なぜ垂れているのか。
それを知るために、同じ草を何度も見る。
隣の鉢を指した。
「これは、葉が少ないですけど……途中で落ちたんですか?」
「そこは私のせい」
「え?」
「先週、標本にするために採った。記録にも書いてあるよ」
示された一行を読み、少し笑った。元気がないのだと思ったが、そうではなかった。
「見ただけでは、分からないですね」
「だから記録がいる」
椅子を引き寄せたイネスに、座るよう促された。
「オルテンで採ったときの話を、もう少し聞かせて」
ノートを机に置いた。今度は、どのページを開けばいいか分かった。
*
窓からの光が台の端へ移った頃、戸口で音がした。トーマが顔を出している。
「イネスさん。そろそろ帰る時間では?」
イネスが顔を上げた。
「もう?」
「さっき、夕食までには帰すって言ってましたよね」
リシェも窓を見た。話している間に、ずいぶん時間が経っていたらしい。
筆を置き、広げた紙を重ねながら、イネスが言った。
「ありがとう。助かった」
「今日の届け物は、終わりましたから」
そう言って、トーマが廊下へ戻った。
ノートをしまうと、イネスがその手元を見た。
「また来てもらえないかな」
「ここへですか?」
「うん。今日の話を書き直しておく。それを確かめてほしいし、よければほかの株を見るのも手伝ってほしい」
台に並んだ鉢を見た。まだ見ていない植物がある。入口で足を止めた花も、結局、近くでは見られなかった。
「来たいです。でも明日は採集に行く予定で」
「では、その次の日は?」
「大丈夫です」
「午後にしよう。午前は私も出る用事があるから」
ノートをもう一度取り出し、約束を書いた。
貯めてきたお金は、まだある。採集の仕事も続けながらなら、しばらくは宿に泊まれる。明後日の午後をここで過ごすことに、困る理由はなかった。
「フィエルも連れてきていいですか?」
鞄の中では、フィエルが丸くなっていた。イネスが覗き込む。
「ずっと静かだったね。もちろん。ただ鉢を倒さないように見ていて」
「はい」
帰りは、イネスが門まで送ってくれた。庭を通るとき、朝とは違う葉に気づいた。閉じかけている花もある。
また足が止まりそうになると、イネスが言った。
「それは、次に来たときに見よう」
笑って頷いた。
門を出てから振り返ると、イネスはもう建物の方へ戻っていた。歩きながら紙を取り出しかけ、風にあおられて慌てて押さえている。
鞄を抱え直した。
明日は、この街の周りの林へ。
その次は、もう一度ここへ。
宿へ向かって歩きながら、ノートに書いていないことを思い出した。
あの紫の花の名前。
今日は、まだ分からないままだった。
次に持ってくるときには、花を描いたページにも、すぐ開けるように印をつけておこう。




