第五十六話 本の向こうにある花
パンの看板を見つけたとき、リシェは少しほっとした。
宿を出てから、まだ一度も曲がっていない。それなのに、昨日は気づかなかった店や横道がいくつもあり、途中でノートを開きかけていた。
店先には焼きたてのパンが並び、フィエルの鼻先がそちらへ向いた。
「帰りにね」
看板の角を曲がった。
次は、井戸のある広場。
汲んだ水を桶に移す人たちの間を抜け、もう一度ノートを見た。描かれた線を指でたどると、広場から出る道が二つあることに気づいた。
ニルスが書き添えてくれた目印は、階段のある店だった。顔を上げると、右側の道にそれらしい入口が見えた。
「あっちだ」
フィエルに声をかけ、ノートを閉じた。
ほどなく、籠を背負った人が建物へ入っていくのを見つけた。入口の表示を読み、足を速める。
採集者ギルド。
一人でたどり着けた。
*
中ではすでに納品が始まっていた。台の上に葉を広げる人もいれば、根の束を袋から出している人もいる。乾いた草と土の匂いがした。
オルテンのギルドより広いが、何をする場所なのかは分かる。空いている受付へ近づいた。
「こんにちは。仕事のことを聞きたいんです」
台の向こうの男性が顔を上げた。
「こんにちは。初めて来た人かな?」
「はい。昨日、オルテンから着きました」
登録の証を差し出すと、名前を確かめてくれた。
「リシェさんだね。私はトビアス。こちらでも依頼は受けられるよ」
その言葉に、胸を撫で下ろした。
「この辺りは、もう歩いた?」
「街の外はまだです」
「それなら、まず採集場所を知るところからだね」
トビアスが一枚の依頼票を取り出した。書かれていた薬草には、見覚えがあった。
「これ、採ったことがあります」
「使う部分も分かる?」
「葉です。傷んだものは入れません」
「では、少し見てもらおうか」
浅い箱から、三枚の葉が出された。一枚は端が黒ずんでいる。もう一枚には小さな穴があり、残る一枚は形が整っていた。
黒ずんだ葉を外し、次に形のよい葉を持ち上げた。裏返すと、付け根に白いものがついている。
「これも、だめです」
「そう。乾かす前から傷んでいたものだね」
小さな穴のある葉を見た。
「こちらは……使えますか?」
「今回の依頼なら、この程度は構わないよ。穴のないものだけを探すと、必要以上に採り歩くことになる」
トビアスが指した依頼票の条件を、読み直した。
同じ薬草でも、納める相手によって求められるものが違う。オルテンで覚えた選び方を、そのまま使えばいいわけではなかった。
「採る前に、ちゃんと読みます」
「分からないところは聞いてね」
頷き、次の欄へ目を移した。
「東の林というのは、遠いですか?」
「日帰りで行ける。ただ、初めてなら道を知っている人と行った方がいい」
明日の朝、近郊へ向かう採集者が何人かいるという。同行できるか、トビアスから声をかけてくれることになった。
「では、明日の朝にまた来てください。話がまとまったら、そこで説明するよ」
「ありがとうございます」
すぐに採りに出られると思っていたので、少し予定は変わった。だが、知らない林を一人で歩くより、その方がよかった。
明日のことをノートに書いた。顔を上げると、トビアスが鞄を見ていた。フィエルの耳が口からのぞいている。
「その子も一緒に?」
「はい。静かにしていられます」
「そうか。同行する人にも伝えておくね」
鞄に触れると、フィエルが顔を出した。少し目を細めたトビアスが、次の依頼票を取りに来た職員へ呼ばれて振り返る。
仕事の話は済んだ。
まだ昼には早い。ノートをしまう前に、もう一つ尋ねた。
「図書館へは、ここから行けますか?」
*
図書館の扉は、思っていたより重かった。
両手で押すとゆっくり開き、中へ入った途端、足音が変わった。通りの声が遠ざかり、紙をめくる音が聞こえる。
広い部屋の奥まで本棚が続き、その間を人が静かに歩いていた。
入口で立ち止まった。
オスカーの店で見たものより、ずっと多い。
どの棚にも、本がある。
高いところまで並んだ背表紙を見上げていると、受付の職員が声をかけてくれた。
「何か探していますか?」
「植物の本を……花の名前を調べたいんです」
鞄のフィエルについても尋ねると、中に入れたまま静かにしていれば構わないと言われた。礼を言い、教えられた棚へ向かった。
植物の本だけで、棚がいくつもある。
花。樹木。薬草。
表題を読みながら歩き、見慣れた言葉のある一冊を手に取った。
近くの席に座ってノートを開くと、紫の花を描いたページが現れた。
花の形。葉のつき方。背の高さ。
森の中で見たものを、覚えているうちに書き残した。だが、今見直すと、描いていないところも多かった。
本を開き、一枚ずつ絵を見ていった。似た花を見つけると指を止め、説明を読む。
「葉が違う」
次のページへ進んだ。今度は葉が似ていたが、花の開き方が違った。
鞄の中でフィエルが丸くなった。そっと口を広げてから、本へ戻る。
一冊目には、見つからなかった。
二冊目は、絵より説明が多かった。知らない言葉があり、読んでも姿が思い浮かばない。
三冊目を取りに立ったとき、窓辺の席に積まれた本が目に入った。一番上の本には、紫の花の絵が見えていた。
足を止めた。
似ている。
もう少し見たくて一歩近づくと、本の向こうから顔が上がった。
「その本?」
「あ……すみません」
短い髪の女性だった。椅子の背には白衣が掛けられ、机には本のほかに、書き込みの多い紙が何枚も広がっていた。
「見たことのある花に、似ていたので」
「これ?」
こちらへ向けられた本を見た。紫の花が、いくつかまとまって咲いている。でも、葉はノートに描いたものより細長かった。
「違うかもしれません」
「見たものは、描いてある?」
「はい」
ノートを開いて見せると、女性が身を乗り出した。
「いつ? どこで見たの?」
「ここへ来る途中の森です。雨が降る少し前に」
「日が当たる場所?」
「大きな木の間でした。花のところだけ、少し明るくて」
女性の指が、絵の下の記録で止まった。
「周りの草まで書いているんだ」
「花の名前が分からなかったので、あとで調べるときに使えるかと思って」
「葉の裏は?」
首を振った。
「見ていません。触らなかったので」
「それなら、そこは分からない、と」
頷いた女性が、机の端の本を引き寄せた。
「こっちも見てみよう」
次々にページがめくられた。隣に立ったまま、絵とノートを見比べる。
花びらの形が似ているものがあった。女性がページを押さえる。
「これは?」
「花は似ています。でも、こんなに背は高くなかったです」
「まだ小さい株だった可能性はあるね。ただ、これだけでは決められない」
頷いた。似た絵を見つけても、それだけで名前が決まるわけではない。
もう一度ノートを眺めた女性が、前のページを少しだけ持ち上げた。
「ほかも見ていい?」
「はい」
オルテンで採った薬草の記録が現れた。採った日と場所。葉の状態。日向で見つけた株と、木陰で見つけた株の違い。
女性の手が止まった。
「この葉、木陰では柔らかかった?」
「はい。同じ草だったんですけど、日が当たるところのものより薄くて」
「土は?」
「木陰の方は、少し湿っていました。晴れている日でも」
机の紙を一枚引き抜いて見せてくれた。そこにも、同じ薬草の名前が書かれていた。
「困ったな」
顔を上げた。
「何か間違っていますか?」
「違う。聞きたいことが増えた」
空いている椅子から、女性が本をどかした。
「座ってくれる?」
腰を下ろすと、ようやく相手が自分の胸に手を当てた。
「私はイネス。植物研究施設で、薬草を調べている」
「リシェです」
「リシェ。今、時間はある?」
窓の光を見た。昼食には戻るつもりだったが、まだ少し余裕がある。
「少しなら」
「よかった」
イネスがノートの一行を指した。
「まず、この場所のことを教えてほしい。木陰といっても、どんな木があった?」
花の名前を調べに来たはずだった。その名前は、まだ分からない。
でも今度は、自分が見てきたものを、知りたいと言う人がいる。
記録を読み返し、森の景色を思い浮かべた。
「葉の広い木が多かったです。それから、近くに——」
イネスが紙を引き寄せ、筆を持った。




