第五十五話 宿屋ポルテ
アルセインの入口には、荷馬車の列ができていた。
先頭が進むと、リシェたちの馬車も少し動く。荷台を確かめる人たちの向こうに、通りを歩く人の姿が見えた。
坂の上から眺めた街が、もう目の前にある。
入口を抜けると、膝の上のフィエルを抱き直した。
軒先に吊られた鍋。積み上げられた布。籠いっぱいの丸いパン。
香ばしい匂いに顔を向けた途端、反対側から声が飛んできた。
「そっち、通るよ!」
樽を載せた荷車が、馬車のすぐそばを抜けていく。思わず背筋を伸ばした。
一つの店を見ている間に、次の店が通り過ぎてしまう。人の頭の向こうにも看板があり、その先にも道が続いていた。
「あれは、何のお店でしょう」
細長い板や丸い枠の並んだ店を指すと、向かいのゼフィが顔を向けた。
「織物に使う道具を売っているんだ」
「布を作る道具ですか?」
「そう。布を売る店とは別に、こういう店もあるんだよ」
振り返ったときには、その店はもう後ろだった。
今度は紙を束ねて積んだ店が見えた。入口から出てきた人が、抱えた紙を落としかけて慌てている。その隣では、腰に剣を下げた二人が立ち話をしていた。
フィエルも鞄から顔を出し、忙しく鼻を動かしている。
「見るもの、いっぱいだね」
囁くと、小さな耳がこちらへ向いた。
*
馬車が止まるなり、周囲が慌ただしくなった。
荷物を下ろす人。馬を引いていく人。到着を待っていたらしい人。
旅の間は一列になって進んでいた商隊が、広場で少しずつほどけていく。
荷物をまとめ、座席の下まで確かめていると、外からルークが声をかけた。
「忘れ物は?」
「ありません」
「本も?」
「あります」
「よし。そいつを忘れたら、途中で引き返しそうだからな」
「引き返しません」
答えてから、少し迷った。
「……でも、探しに来ると思います」
ルークが笑った。
荷物を受け取ってもらい、馬車を降りた。足元が動かないことに、まだ少し違和感があった。
近くでは、エリオが父親から渡された袋を運んでいた。
「リシェ、宿は?」
「まだ決めてないの」
「じゃあ、ポルテは? 俺たちそこに泊まるんだ」
ローレンが顔を上げた。
「部屋が空いているか、聞いてみよう。前に泊まったときは、食事もおいしかったよ」
「煮込みがうまかった」
エリオが付け足す。
「パンを浸して食べるんだ。最後まで」
「覚えていることが、そればかりだね」
「大事だろ」
リシェは笑った。
「一緒に行ってもいいですか?」
「もちろん」
行き先が決まると、少しほっとした。街には宿がたくさんあるのだろう。でも、どこなら泊まれるのか、いくらかかるのか、今のリシェには分からなかった。
「ゼフィリスさんも、どうです?」
ローレンが声をかけた。
「私は先に寄るところがあるから、あとで訪ねてみようかな」
「では、ブルーノに伝えておきます」
「ありがとう」
自分の荷物を肩に掛けたゼフィを見上げた。
「この街には来たことがあるんですか?」
「何度も来ているよ。知り合いもいるから、顔を見に行こうと思って」
だから、街に入っても驚いた様子がなかったのだ。
通りへ目を向け、ゼフィが少し笑った。
「店が変わっていることもあるけどね」
「さっきの道具のお店も?」
「あそこはずっとある。私が初めて来たときから」
もう見えない店の方を振り返った。その間にも、広場へ新しい馬車が入ってくる。
「またあとで、リシェ」
「はい」
人の流れに入り、通りを曲がっていく姿を見送ってから、セリナとルークのところへ戻った。
「いろいろ、ありがとうございました」
手元の書類から、セリナが顔を上げた。
「無事に着いてよかったね。疲れたでしょう?」
「少し。でも楽しかったです」
「雨の中で待ったのも?」
ルークに尋ねられ、首を振った。
「それは長かったです」
「正直でよろしい」
セリナも笑った。
鞄の口を少し下げ、フィエルの顔を見せた。
「でも、フィエルが走れるようになりました」
「ああ。今度は一緒に歩けるね」
「はい」
誰かが商隊長を呼んだ。セリナがそちらへ返事をしてから、リシェへ向き直る。
「元気でね、リシェ」
「セリナさんも、ルークさんも」
頭を下げると、ルークの手が軽く肩に触れた。
「街の中でも、夢中になって迷うなよ」
「気をつけます」
顔を上げ、もう一度二人を見た。それから、待ってくれているエリオたちの方へ歩き出した。
*
宿屋ポルテの入口では、少年が箒を動かしていた。馬車が近づくと手を止め、顔を上げる。
「泊まりですか?」
「ああ。ブルーノはいるかな?」
「呼んできます。馬車は裏へどうぞ」
少年が扉の中へ消えた。
建物の脇から裏へ回ると、荷物を下ろせる場所があった。馬車が止まるより先に、宿の中から男が出てくる。
「ローレンじゃないか!」
「久しぶり、ブルーノ」
「今回は遅かったな」
「途中で雨に足止めされてね」
「それなら、まずは休まないとな。エリオも来たのか」
「来たよ。荷物どこに置けばいい?」
「そこへ。部屋へ運ぶ分とは分けておけよ」
荷台を示してから、ブルーノがリシェへ顔を向けた。
「こちらは?」
「同じ商隊で来たリシェさんだ。部屋があれば、泊まりたいそうなんだけど」
「リシェです」
「私はブルーノ。この宿の主人だ。空きを確かめよう。中へどうぞ」
荷物を持ったところで、入口から女の子が顔を出した。
「父さん、お客さん?」
「そうだよ。荷物を運ぶから、道を空けておくれ」
脇へ寄った女の子が、リシェの鞄を見て目を丸くした。
「狐?」
「魔獣だよ。フィエルっていうの」
フィエルも顔を出し、女の子を見た。
「泊まるの?」
「部屋が空いてたら」
「母さん! 狐も泊まる!」
中へ駆けていく女の子を、箒を片づけていた少年の声が追いかけた。
「リリ、走るな!」
リシェは少し笑って、宿の扉をくぐった。
中には食堂があった。机がいくつも並び、奥からは煮込みの匂いがする。椀を重ねていた女性が手を止め、こちらへ来た。
「いらっしゃい。リリが騒いでごめんなさいね」
「ハンナ、こちらはリシェさん。小さい部屋は空いていたか?」
「ええ。今朝、出たお客さんの部屋が使えるよ」
ハンナがリシェに向き直った。
「私はハンナ。部屋は上にあるの。食事もここで取れるけど、どうする?」
宿代と食事のことを聞き、財布の中身を確かめた。泊まれば、その分だけお金は減る。だが、今日からまた外で眠るつもりはなかった。
「まずは三日お願いします。食事も」
「分かった。途中で延ばしたくなったら、早めに教えてね」
代金を渡すと、ハンナが息子を呼んだ。
「ニルス、部屋へ案内してくれる?」
「うん」
リシェの荷物へ手を伸ばし、少年が言った。
「重い方、持つよ」
「ありがとう」
鞄を抱えると、リリもすぐについてきた。
「私はリシェ。十歳だよ」
「十歳?」
リリが顔を見上げた。
「私、八歳」
「俺は十二歳。ニルス」
階段を上りながら、少年が名乗った。
「リリ、先に行かない」
「扉を開けてあげるの」
「どの部屋か知らないだろ」
足を止めたリリを見て口元を緩めながら、二人の後を上った。
*
部屋には寝台と小さな机があり、窓から通りが見えた。
ニルスが荷物を置くと、リリが鞄の前にしゃがんだ。
「触っていい?」
「ゆっくりなら」
外へ出たフィエルが、小さな手の匂いを嗅いだ。指先が頭に触れても、嫌がる様子はない。
「ふわふわ……」
声を落としたリリのそばで、ニルスも少し腰をかがめて見ていた。
「外に出るときは、一緒にいてね。裏は馬車が入るから」
「うん。気をつける」
兄妹が出ていくと、部屋が静かになった。
窓を開けた。向かいの建物の前を人が歩いている。荷車の音が近づき、また遠ざかった。
足元へ来たフィエルのそばにしゃがみ、柔らかな背を撫でた。
「着いたね」
小さな鼻先が手に触れた。
荷物から本を出して机へ置き、ノートと筆記用具も隣へ並べた。馬車の中では揺れるたびに押さえていたものが、今は動かずにそこにある。
椅子に座った。少し休むだけのつもりで寝台へ目を向けると、フィエルが先に、その下で丸くなっていた。
*
夕食を呼ぶ声に顔を上げた。
ノートを開いたまま、机に伏せていたらしい。窓から差す光が、いつの間にか弱くなっている。
下へ降りると、エリオが席を取っていた。
「こっち」
隣へ座った途端、ハンナが湯気の立つ椀を置いてくれた。
「お待たせ。熱いから気をつけてね」
柔らかく煮えた肉と野菜が入っていた。一口食べると、次の一口をすぐにすくった。
「おいしい?」
「うん」
「言っただろ」
エリオが少し得意そうな顔をした。
ローレンとブルーノが話している横で、エリオも明日の荷物について尋ね始めた。話が途切れたところで、リシェは口を開いた。
「採集者ギルドは、この近くですか?」
「歩いて行けるよ」
椀を運んできたニルスが答えた。
「仕事を探すの?」
「うん。オルテンでも、薬草を採ってたの」
「それなら、道を教える。宿を出て右に——」
「待って。書いてもいい?」
ノートを取りに戻った。席へ帰ってくると、リリが隣に座っていた。
「図書館もあるよ」
「行ったことあるの?」
「ある。すごく本があるの」
鉛筆を止めた。
「植物の本も?」
「そこまでは見てない」
「まずギルドの道だろ」
ニルスに言われ、リリが椀を引き寄せた。
教えてもらった道を描いた。宿からパン屋の角まで。そこを曲がり、井戸のある広場を通って、その先へ。
線のそばに目印を書き足していく。
「分からなくなったら、店の人に聞けばいいよ」
「ありがとう」
図を見直していると、入口でブルーノの声がした。
「ゼフィリス! 久しぶりだな」
顔を上げると、ゼフィが立っていた。
「久しぶり。ローレンから話は聞いた?」
「ああ。前に使った部屋が空いてるよ。今回もギルドから呼ばれたのか?」
「今回は自分の用事だよ。調べたいことがあってね」
「そうか。荷物はあとにして、まず食べていきな」
席を示したブルーノに礼を言い、ゼフィがこちらへ来た。
「少しは休めた?」
「はい。寝てしまいました」
「馬車でも、あまり眠っていなかったからね」
その視線が、鞄の中のフィエルへ向いた。
「こちらも眠そうだ」
フィエルの瞼がゆっくり下りていた。足元の静かな場所へ鞄を寄せた。
「明日は採集者ギルドへ行きます。ニルスが道を教えてくれました」
ノートを見せると、ゼフィが描かれた図を見た。
「うん。目印があると分かりやすいね」
「ゼフィさんは?」
「冒険者ギルドに顔を出すつもりだよ。そのあとも、何人か会いに行きたい人がいるんだ」
それぞれに、明日の予定がある。
ノートを閉じ、残っていた煮込みをすくった。食堂の窓の向こうでは、通りの店が明かりを灯し始めていた。
明日はあの通りを自分で歩く。
迷わず着けるだろうか。
少し心配になって、閉じたノートに手を置いた。それから、ニルスが描き足してくれたパンの看板を思い出した。
まずは、あの角まで行ってみよう。




