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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第五十四話 雨上がりの足音


 目を覚ましたとき、雨の音がしなかった。


 毛布の中でしばらく耳を澄ませると、代わりに人の話し声と、馬の鼻を鳴らす音が聞こえてきた。どこかで布を引く音がして、枝に残っていた雫が、ぱらぱらと地面を打つ。


 膝のそばで丸くなっていたフィエルも顔を上げた。


「止んだみたい」


 小さな耳がぴんと立った。


 毛布を畳んで外へ出ると、空にはまだ薄い雲が広がっていた。それでも、昨日まで低く垂れ込めていた灰色とは違う。雲の切れ間に淡い青がのぞき、濡れた土と草の匂いがした。


 馬車のそばでは、雨をよけるために張っていた布が外されていた。荷物を確かめる人たちの間を、セリナが歩いている。


「おはようございます」

「おはよう、リシェ。よく眠れた?」

「はい。今日は出発できますか?」

「道を見に行ってもらってる。大丈夫なら出るよ」


 頷いた。止んだからといって、すぐに進めるわけではない。それはもう分かっていた。


 それでも、明るくなった空を見ると、少しだけ胸が弾んだ。


 二日近く、雨を見ながら過ごしていた。本は読めたし、エリオともたくさん話した。だが馬車の向こうへ続く道が、ずっと同じ場所にあるのは不思議な感じだった。


 鞄の中でフィエルが身じろぎした。


「降りたい?」


 顔をのぞき込むと、鼻先が手に触れた。


 足元はまだ湿っている。少し離れた草の短い場所まで歩いてから、フィエルをそっと下ろした。


 銀白色の足が地面を踏む。


 一歩、二歩。


 草の先に鼻を近づけたフィエルが顔を上げ、リシェを振り返った。それから少し先へ歩いていく。


 後ろ脚をかばう様子はなかった。


 ゆっくり後を追った。


「フィエル」


 呼ぶと、小さな耳がこちらを向いた。


 次の瞬間、フィエルが駆けてきた。


 ほんの数歩だった。


 でも、前脚だけで急ぐような、不揃いな動きではない。四本の足で草を蹴り、ふわりと尻尾を揺らして、まっすぐリシェのところへ戻ってきた。


「……走れた」


 しゃがみ込み、膝に前脚をかけたフィエルを両手で受け止めた。柔らかな毛が指に触れる。


「走れたね、フィエル」


 小さな体から弾むような喜びが伝わり、自然と口元がほころんだ。


 森で見つけたときは、立ち上がることさえつらそうだった。抱き上げるにも、鞄へ入れるにも、脚に触れないように気をつけていた。


 そのフィエルが今、自分から走ってきた。


「何してんの?」


 エリオがパンを片手に近づいてきた。


「フィエルが走ったの」

「え、もう?」


 リシェの膝から離れたフィエルが、今度はエリオの足元へ向かった。エリオがパンを持ち上げる。


「これは俺の朝飯」

「取らないよ」

「分かんないだろ。すごい見てるぞ」


 たしかに、フィエルの鼻先はパンの動きに合わせていた。リシェが笑うと、エリオも笑った。


「元気になったな」

「うん」


 答えてから、もう一度フィエルを見た。


 濡れた草の上を歩く足。周りの匂いを確かめる鼻先。名前を呼べば、こちらを向く耳。


 もう、鞄の中から景色を見るだけではなくなる。


 これからは一緒に歩けるのだと思うと、抱き上げたくなるくらいうれしかった。せっかく自分の足で歩いているので、手を伸ばす代わりにそばを歩いた。


     *


 道の確認に出ていた護衛たちが戻ったのは、朝食を終えた頃だった。


 水は引いていた。ただ、土の流された場所が残っているため、そこでは荷を載せた馬車を慎重に通す必要があるという。


 報告を聞いたセリナが、御者たちに順番を伝えた。


「今日は無理に遅れを取り戻さないよ。まずはこの先を抜ける」


 商隊が動き始めた。


 馬車は何度か止まり、ゆっくり進んだ。車輪が深く沈む場所では人が降り、護衛たちも手を貸した。


 リシェも足元を確かめながら歩いた。隣には、鞄に入れたフィエルがいる。歩きたいという気持ちは伝わってきたが、ここでは抱いていた。


 ぬかるんだ場所を抜け、再び馬車に乗ったときには、靴の底に泥がついていた。それを見て、向かいのゼフィが少し笑った。


「ずいぶん重そうだね」

「さっき足が抜けなくなりそうでした」

「かかとからゆっくり持ち上げるといい。急ぐと靴だけ置いてくることになる」


 自分の靴を見下ろした。


「置いてこなくてよかったです」


 膝の上でフィエルが丸くなった。


 馬車が揺れ始め、顔を上げると、雨に洗われた木々が後ろへ流れていた。濡れた葉の間に日が差し、あちこちで光っている。


 止まっていた間も、森の中では新しい葉が開いていたのかもしれない。


 道はまだ長く続いている。


 その先へ、ようやく進める。


     *


 それからは旅の日々が戻ってきた。


 朝に荷物を積み、馬車に揺られ、昼には休み、夕方になるとその日の寝床を整える。雨で湿っていた布は乾き、靴底の泥も落ちた。


 リシェは、馬車が大きく揺れる場所では先に本を閉じるようになった。エリオは何も言わずに椀を渡してくれるようになり、リシェも、エリオが両手に物を持っているときには席を空けた。


 フィエルが鞄の外で過ごす時間も増えた。休憩中に少し歩くと、すぐそばをついてくる。草の匂いが気になって立ち止まることはあったが、呼べば顔を上げ、駆けて戻ってきた。


 短い足で懸命に走る姿は、何度見ても飽きなかった。


 ある夕方、焚き火のそばで靴を拭いていると、ルークがフィエルを見て言った。


「すっかり歩けるようになったな」

「はい。今日は休憩のときもずっと歩いてました」

「そうか。じゃあ、そのうちお前より歩くのが速くなるかもな」


 足元を見ると、フィエルもリシェを見上げた。


「待っててね」

「もう頼んでるのか」


 ルークが笑った。リシェも笑いながら、靴の裏に挟まった小石を取った。


 森を歩くとき、一緒に見たいものがたくさんあった。今までフィエルを抱いたまま通り過ぎた場所も、これからは二人で立ち止まれる。


 そう考えてから、隣で夕食の用意を手伝っているエリオへ顔を向けた。


「アルセインの周りにも、森があるんだよね」

「あるよ。でも街の中にも見るもの、いっぱいあるぞ」

「図書館も?」

「あるって父さんが言ってた。俺は市場の方が楽しみだけど」


 空いたかごを持ち上げて、エリオが続けた。


「着いたら、荷物下ろすの手伝わなきゃ」

「私も手伝える?」

「父さんに聞いてみる。割れる物は重いから、別のやつな」


 旅の終わりが、少しずつ具体的になっていった。


 どんな街なのだろう。どんな本があるのだろう。


 思い浮かべるたび、まだ見たことのないものが増えていく。


     *


 翌日の昼過ぎ、街道を行き交う人が多くなった。


 商隊とは反対へ進む荷馬車。籠を積んだ小さな車。馬に乗った旅人。すれ違うたびに御者同士が片手を上げ、短い挨拶を交わした。


 森が途切れる場所も増えた。向こうに畑が見え、道の脇には家が建っている。


 本を閉じたまま、外を見ていた。オルテンへ近づいたときにも、少しずつ人の暮らしが増えていった。


 でも、今日は次の馬車がすぐにやってくる。車輪の音が遠ざかる前に、また別の車輪の音が近づいた。


「もう近いですか?」


 向かいへ尋ねると、ゼフィが外へ目を向けた。


「あの坂を越えれば、見えるだろう」


 前方には、ゆるやかな上り坂が続いていた。


 思わず腰を浮かせかけて、座り直した。膝の上のフィエルを抱き直し、坂の向こうが見えるのを待つ。


 馬の足音がゆっくり続いた。


 見えていた空の下に、まず建物の上の方が現れた。


 次に屋根が増えた。


 そして馬車が坂を上りきると、リシェは息をのんだ。


 街が広がっていた。


 遠くまで重なる屋根。その間から、高い建物がいくつも伸びている。街の手前へ続く道には、こちらへ向かってくる馬車も、同じ方へ進む馬車も見えた。


 端から端まで見ようとして、ゆっくり顔を動かした。


「……あれ、全部ですか?」

「ああ。アルセインだ」


 ゼフィの声を聞いても、すぐには返事ができなかった。


 オルテンも、初めて見たときには大きな街だと思った。だが、目の前の街には、その向こうがまだある。ここから見える屋根の下を歩くだけでも、どれくらいかかるのか分からなかった。


 腕の中でフィエルが身を起こした。


「フィエル。着くよ」


 小さな鼻先が街の方へ向いた。


 鞄についた青い花飾りに触れた。


 エマに手紙を書こう。


 道で会った人たちのことも、雨の中で待ったことも、フィエルが走れるようになったことも。


 そして、アルセインのこと。


 まだ何を書けるのかは分からない。


 まずはこの目で見て、歩いて、それから伝えよう。


 馬車は坂を下り始めた。


 リシェはフィエルを膝に座らせたまま、近づいてくる街から目を離さなかった。

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