第五十三話 進まないという選択
ルークが戻ってきたとき、肩も髪も雨に濡れていた。後ろにはもう一人の護衛が続き、二人とも足元に泥をつけ、急ぎ足でセリナのいる馬車へ向かった。
鞄へ手を添えたまま、その姿を見ていた。話し声は雨の音に紛れて聞き取れない。ルークが街道の先を指し、セリナが短く何か尋ねる。頷いたルークの手が、今度は道の脇へ向いた。
ゼフィもそのやり取りを見ていた。
「何かあったんでしょうか」
「戻ってきた人が知らせてくれるよ」
落ち着いた声に、リシェは森へ視線を戻した。
黒い獣はまだ木々の間にいた。雨に濡れた枝の向こうで金色の瞳が動く。
こちらを見ている。
胸に残る切迫した気持ちは、まだ薄れていなかった。
指へ鼻先を押しつけてきたフィエルの温かさを確かめるように、そっと手を開いた。
*
「この先へは進みません」
馬車のそばへ来たセリナの声に、顔を上げた。
「街道の低いところに水が流れ込んでいます。馬車を通すのは危険なので、いったん戻ります」
「戻るんですか?」
「ええ。少し手前に道が広くなっている場所があったでしょう。まずそこまで」
木々が途切れ、古い轍が何本も重なっていた場所。思い出そうとすると、雨が降り始めた頃に通った気がした。
「馬車を順に動かします。揺れるから、荷物を押さえていてね」
「はい」
セリナが次の馬車へ向かうと、ゼフィが足元の荷物を寄せた。リシェも鞄を膝の上へ載せ直し、フィエルの脚が布に包まれていることを確かめて、その背へ手を置いた。
外では御者と護衛たちが声をかけ合い、馬の向きを変え、車輪の通る場所を見ている。すぐに動き出すわけではないらしい。
また森を見た。濡れた葉が風で揺れ、その奥にあった黒い姿が見えなくなった。
目を凝らしたが、幹の間にも、低い枝の下にも、金色の瞳はない。胸を押すようだった感覚も、少しずつ遠のいていく。
鞄の紐を握って、そっと向かいへ目を向けた。ゼフィは森を見ていた。こちらへ顔を戻すと、リシェは鞄の中へ視線を落とした。
自分でも、なぜ分かるのか説明できない。それを人に話したら、どう思われるだろう。
不思議がられて、もっと聞かれるかもしれない。フィエルのことまで尋ねられるかもしれなかった。
布の端を直した。
今は、それ以上話さないでおこう。
馬車がゆっくり動き、鞄を抱え直した。
来た道を戻っていく。進んでいたときには前へ流れていった木々が、今度は反対側へ遠ざかった。
*
道の広い場所へ戻ると、商隊は馬車の並びを整えた。車輪の下へ枝や板を入れ、覆いの端から水が入らないよう、紐を結び直す。
馬車に乗ったまま、外を見ていた。皆が雨の中で働いている。手伝いたいと思ったが、今は降りないように言われていた。
足元の荷物が濡れないよう寄せ、覆いから垂れた雫が鞄へ落ちない位置を選んだ。できることは、それくらいだった。
隣の馬車からエリオが顔を出した。
「リシェ!」
覆いの隙間へ近づいた。
「大丈夫?」
「うん。エリオは?」
「俺も。父さんが荷物を確かめてる」
ローレンは荷台へ上がり、積んだ箱の間へ手を入れていた。エリオもすぐに顔を戻し、父親から渡された布を受け取る。
自分の荷物を見た。本もノートも、まだ濡れていない。青い花飾りも布の内側に収まっていた。
指先で位置を直すと、フィエルがその手を追って顔を上げた。
「今日はここで待つんだって」
こちらを見たあと、鞄の中で丸くなる。先ほどよりは落ち着いている。リシェも少しだけ肩の力を抜いた。
覆いの端を押さえていたゼフィが外の人へ声をかけ、緩んだ紐を受け取って結び直した。雨水が外側へ流れるようになると、座席の端へ落ちていた雫が止まった。
「ありがとうございます」
「本は内側へ置いておこう」
頷いて、荷物をもう少し寄せた。
*
ひととおりの支度が済むと、セリナが商隊の人々へ今後の予定を伝えて回った。リシェたちは、馬車の覆いの下から話を聞いた。
「今日はここで待ちます。水が引いてから道を確かめ、進めるか判断します」
近くの馬車から、雨は明日まで続くだろうかと声が上がった。セリナが空を見る。
「今は、はっきり言えません。止んでも、すぐに通れるとは限らないので」
「別の道は?」
「馬車で通れるか確認が必要です。今から皆で動くより、ここで待つ方が安全だと判断しました」
声は穏やかだったが、答えははっきりしていた。
先ほど戻ってきたルークの足元を見ると、泥が靴の上までついていた。こちらに気づいたルークが、馬車のそばへ来る。
「寒くないか?」
「少し。でも大丈夫です」
濡れた袖を引き、覆いの外へ水を払った。エリオも隣の馬車から、こちらを見ている。
「道、そんなにひどかった?」
「ああ。水が横切っていた」
「深かったの?」
「底がよく見えなかった。道の土も流されてる」
手で地面の低いところを示し、ルークが続けた。
「上から見ると水だけでも、下が同じ深さとは限らない。車輪が落ちれば馬車ごと傾く」
自分たちの乗っている座席へ目を落とした。ここが水の中で傾くところを想像すると、鞄を持つ手に力が入った。
「早く気づいてよかったな」
それからゼフィを見て、ルークが言った。
「水の流れまで見ろと言われなければ、もう少し近くへ行っていたかもしれない。助かった」
「無事に戻れてよかった」
「しばらく、ここで待つことになりそうだ」
ほかの人に呼ばれ、ルークが離れていった。エリオもローレンに促されて馬車の内側へ戻る。
雨を眺めた。あのまま道の先へ進んでいたら、どうなったのだろう。
黒い獣の金色の瞳が思い浮かんだ。胸へ流れ込んできた、切迫した気持ち。
唇を結んだ。
獣が道の状態を知っていたのかは分からない。今となっては、確かめることもできなかった。
鞄の中でフィエルが身を動かした。手を入れると、銀白色の頭がその下へ収まる。耳の後ろを撫で、布を少し引き寄せた。
向かいで、ゼフィがその様子を見ていた。顔を上げかけたが、フィエルが指先へ鼻を寄せたので、また鞄の中へ目を戻した。
ゼフィは何も尋ねなかった。雨が弱まったかを確かめるように外を見てから、濡れた袖を整える。
それでも、ときおりその視線はリシェの表情や、手の下で寛ぐフィエルへ戻った。
*
夕方には、覆いの下で冷たいパンを食べることになった。火を起こす支度には時間がかかるらしい。
エリオが分けてもらったパンを持ってやって来た。馬車のそばまで来てよいか、ローレンに聞いてから来たのだと言う。
「今日は揺れないな」
座席へ腰を下ろしながら言うエリオに、リシェは少し笑った。
「止まってるから」
「ずっと乗ってると、揺れてないのも変な感じがする」
パンを割り、片方を口へ運ぶエリオに続いて、リシェも一口かじった。硬かったが、噛んでいるうちに甘みが出た。
外では雨水を受けた葉が、重たそうに垂れている。
「アルセイン、遅くなる?」
「たぶん。父さんが待つ日も考えて食料を見てた」
あと何日、と数えていた予定が変わる。図書館も新しい街も、少し遠くなった。
パンを持ったまま鞄の中を見ると、フィエルは眠っていた。エリオもゼフィも、ほかの人たちも無事だった。
「待てるといいね」
「え?」
「道がちゃんと通れるようになるまで」
リシェを見てから、エリオが頷いた。
「うん」
風が吹き、覆いの端から雫が落ちた。肩をすくめたエリオが、もう少し内側へ座り直す。
「それまで何しようか」
足元の荷物を見た。
「本ならあるよ」
「魔獣の?」
「植物のも」
「じゃあ俺がまだ見つけてないやつ、教えて」
本を取り出して二人の間へ置き、濡れないよう膝の上で支えた。ページを開くと、エリオが顔を近づける。
「これ、葉っぱが大きいな」
「うん。私もまだ見たことない」
「かごに入らなそう」
挿絵を見て、少し笑った。
向かいに座るゼフィが顔を上げた。リシェはエリオと一緒に、ページの下の説明を読んでいた。
今の瞳は灰青色だった。
森で見えた小さな金色は、どこにもない。
その横顔に少し目を留めてから、ゼフィは覆いの外へ視線を戻した。
雨は、まだ降り続いていた。




