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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第五十二話 雨の近づく森


 昼の支度が終わる頃、フィエルが鞄から出た。


 リシェはすぐに抱き上げず、その足元を見ていた。前脚を出して後ろ脚を続ける。草の上を三歩進んでも、体は傾かなかった。


「リシェ、見て」

「うん」


 声を落としたエリオに答える間に、フィエルは少し離れたところで立ち止まり、振り返った。手を差し出すと、今度は迷わず戻ってくる。


 まだ走らせたくはなかった。だが、怪我をした脚にもしっかり体重を掛けている。


「前より歩きやすそう」


 しゃがむと、膝へ前脚を載せてきた。外へ出られたことが嬉しいのか、弾むような気持ちが伝わってくる。笑って、その背を撫でた。


 狼が現れた夜から二日が過ぎていた。


 その間にも、商隊は街道を進んだ。リシェとエリオは食事の支度を手伝い、休憩のたびに馬車のそばで話をした。エリオは荷物の積み方を教え、リシェは道端で見つけた植物を指さした。


 見たいものがあれば、まず近くの大人へ声をかける。


 それが少しずつ、二人の習慣になり始めていた。


「フィエル、こっち来る?」


 低く差し出されたエリオの手へ鼻を近づけたフィエルは、すぐにリシェの膝へ戻った。


「まだ俺より、リシェか」

「いつも一緒だから」

「俺もけっこう遊んでやってるのに」


 そう言いながら、エリオは無理に触ろうとはしなかった。


 近くを通ったゼフィが足を止めた。フィエルはリシェの膝から下り、鞄のそばまで歩いていく。その後ろ脚を、ゼフィの視線が追った。


「ずいぶんしっかり歩くようになったね」

「はい。昨日よりかばっていない気がします」


 腰を落としたゼフィへフィエルが振り向き、深い緑色の瞳を見上げた。


「怪我をしたのはいつ頃?」

「オルテンに着く前です。街で治療してもらって、しばらく休んでいました」

「そう」


 脚には触れず、その立ち姿を見た。


 銀白色の毛。狐に似た耳と鼻先。小さな体。


 姿の似た魔獣なら、幾つか知っている。だが、フィエルをそのどれかだと思って見ると、特徴が合わなかった。


 幼いからなのか。それとも、知らない種類なのか。


 何度か近くで見ても判断はつかなかった。


「フィエルのことは本でも調べていたね」

「はい。でも同じ魔獣は見つからなくて」


 フィエルの背を撫でながら、リシェが尋ねた。


「ゼフィさんは見たことがありますか?」


 少し考えてから、ゼフィは首を振った。


「似ているものはいる。でも、どれとも違うように見える」

「やっぱり……」

「アルセインなら、ほかの本も探せるだろう。今は無理に種類を決めなくてもいい」


 リシェが頷いた。その手の下で、フィエルが目を細める。


 もう一度、怪我をした脚へ目を向けた。出発した頃に比べると、回復は目に見えて早かった。


「歩き方はよくなっているけど、急に長く歩かせないようにね」

「はい」


 リシェが鞄の口を開けると、フィエルは中の布へ鼻先を寄せたあと、自分から前脚を入れた。後ろ脚が縁を越えるところだけ支えてやると、くるりと体を回して落ち着く。


 布が脚の下でよれていないか確かめた。


     *


「この辺りにしては、静かだな」


 少し離れたところで、護衛の一人が言った。ルークが水の入った器を下ろす。


「今のところはな」

「前に通ったときは、もっと魔獣を見た。道へ出てこなくても森の端にはいたんだが」


 鞄の紐を直しながら、そちらへ顔を向けた。


 魔獣。その言葉には、つい耳が向く。


「この道にはたくさんいるんですか?」


 尋ねると、ルークが振り返った。


「場所による。森が近いところでは、気をつけて見てるよ」

「今回はいないんですか?」

「見えていないだけかもしれない。出てこないからって探しに入るなよ」

「はい」


 エリオも隣で頷いた。護衛が街道の先へ目を向ける。


「狼は来たのにな」

「ああ。あれで、馬も落ち着かなかった」


 立ち上がり、器を片づけながらルークが言った。


「午後も、いつもどおり見ていこう」


 二人が離れると、エリオが小さく息を吐いた。


「来ない方がいいよな」

「うん」


 本に載っている魔獣を、実際に見てみたい気持ちはある。でも、商隊へ襲いかかってきてほしいわけではなかった。


 フィエルの鞄へ手を添え、馬車へ戻ろうとした。


 ゼフィは森へ目を向けていた。今の会話が気になったのだろうか。同じ方を見たが、木々の間には何も見つからなかった。


「ゼフィさん?」


 呼びかけに顔を戻し、ゼフィが言った。


「行こうか」


 歩き始めたその後を追った。


     *


 午後になると、空が白く曇った。朝には丘の向こうまで見えていたのに、遠くの景色がぼんやりしている。馬車の中へ入る風も、少し冷たくなった。


 鞄の口へ布を掛け、フィエルの顔が出る分だけ隙間を残した。


 森が街道の両側へ迫ってくる。枝の影が車輪の前を横切った。


 ぽつ、と音がした。


 顔を上げた。


 もう一度、ぽつ。


 馬車の覆いを、小さな雨粒が叩いている。


「雨?」


 外へ手を出したゼフィが、すぐに戻した。


「ああ」


 そのうち、音は一つずつ数えられなくなった。葉に当たり、覆いに当たり、街道の土へ染み込んでいく。


 御者が馬をなだめる声がした。前を走る馬車との間隔が少し広がった。


 荷物を内側へ寄せ、鞄についた青い花飾りも、濡れないよう布の陰へ入れた。


 出発した日の砂埃が嘘のように、道の色が濃くなっていた。車輪が土を押し、深い筋を残す。


 しばらく進んだところで、馬車が大きく傾いた。


 縁へ手をつくと、荷物がずれて足元で止まった。


「そのまま座っていて」


 ゼフィの声に頷いた。


 外から幾つかの声が届き、馬車が止まった。車輪が柔らかい土へ入り込んだらしい。


 鞄を抱え、自分の足で荷物が滑らないよう押さえた。フィエルが顔を出す。


「少し待とうね」


 囁くと、鼻先を布へ戻した。


 御者が声をかけ、人々が馬車の後ろへ回った。外の様子を確かめてから、ゼフィも立ち上がる。


「鞄を持っていて。少し降りる」

「はい」


 馬車を降りたゼフィが、ほかの人と一緒に後ろ側へ立った。


 掛け声がする。


 車体が揺れ、車輪が一度空回りした。泥が跳ねた。


 もう一度、声がそろう。


 今度は馬車がゆっくり前へ動いた。鞄を胸へ引き寄せたまま、息を吐いた。


 戻ってきたゼフィの服の裾には、泥がついていた。


「動いたね」

「ありがとうございます」

「リシェも荷物を押さえていてくれた」


 鞄の中でフィエルが小さく身じろぎした。布を直し、また外へ目を向ける。


 雨はさっきより強くなっていた。


     *


 次に止まったときは、なかなか動き出さなかった。


 セリナが御者と言葉を交わし、そのあと各馬車へ声をかけて回っていた。


「道が悪くなっています。先の様子を確かめるので、このまま待っていてください」


 リシェたちの馬車にも、声が届いた。


「降りる必要があるときは、こちらから知らせます」

「はい」


 馬車の外では、雨が細い線になって降っていた。道の低いところに水がたまり、草の間へ流れている。


 向こうの馬車で、エリオが覆いの隙間から顔を出した。リシェに気づくと手を上げる。小さく振り返すと、父親に何か言われたらしく、すぐに顔を引っ込めた。


 膝の上の鞄へ目を落とした。布の下から顔を出しているフィエルの耳が動く。手に鼻を触れ、それから森の方へ向いた。


 同じ方を見ると、木々の奥で何かが動いた。


 雨の向こうに、一瞬だけ暗い形が見える。


 目を細めた。


 幹ではなかった。

 木の幹より低く、ずっと横に長い。


 葉が揺れて、その形の一部を隠した。もう一度見えたとき、息を止めた。


 大きな狼が木々の間に立っていた。


 黒い毛は雨に濡れ、光の当たるところだけ濃い紺色に見える。先日、商隊を襲った灰色の狼とは、比べものにならない大きさだった。


 鞄を抱く腕を動かせなかった。


 狼は近づいてこない。木々の奥に立ったまま、こちらを見ている。


 金色の瞳が、雨の向こうではっきり見えた。


 その瞬間、胸の奥へ強い感情が流れ込んできた。


 鋭い警戒。

 切迫した、押しとどめようとする気持ち。


 思わず、馬車の縁へ置いていた手を引いた。自分が動こうとしたわけではない。それなのに、一歩を踏み出す直前に引き止められたような感覚が残った。


 先へ進んではいけない。


 そう感じた。


 声が聞こえたのではなかった。何があるのか、どこが危険なのかも分からない。ただ、目の前の獣から伝わる切迫した気持ちが、胸を強く押していた。


「リシェ?」


 ゼフィの声に返事をしようとしても、うまく声が出なかった。


 リシェの瞳の中に、小さな金色の星が浮かんだ。


 ゼフィの視線が、その顔で止まった。雨空の薄い光の中で、灰青色の瞳に金色が見えた。確かめるように目を向けても、リシェは気づかず、森の奥を見つめていた。


 その視線を追った。


 木々の間に、巨大な黒い狼が立っている。


 身を乗り出さず、距離と獣の姿勢を確かめた。馬車へ向かってくることも、牙を剥くこともない。しかし、気を緩めてよい相手ではなかった。


 リシェと森の間へ、わずかに体をずらした。


「そのまま座っていて」


 リシェには、その声が聞こえなかった。


 鞄へ手を置き、フィエルの背に触れて、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。


 雨の音が戻ってくる。


 黒い獣は、まだこちらを見ていた。


「……止めようとしてる」


 口から小さな声がこぼれると、ゼフィがこちらへ目を向けた。


「先へ行ってほしくないの……?」


 言いながら、自分でも戸惑った。


 声が聞こえたわけではない。何があるのかも、どうして進んでほしくないのかも分からない。ただ、押しとどめようとする気持ちが胸に残っていた。


 ゼフィはじっとリシェを見ていた。


 これまでは、同じ馬車に乗る幼い旅人として気にかけていた。本を開く姿も、植物を見つけて喜ぶ姿も、好奇心の強い子どものものとして見ていた。


 だが今、リシェは遠くに立つ獣を見て、その気持ちを口にした。


 獣のどんな仕草から、そう感じたのだろう。


 瞳に見えた金色も、まだ説明がつかなかった。


 初めて、リシェ自身へ確かな関心を向けた。


「どうしてそう思った?」


 静かな問いかけに、リシェは唇を開き、また閉じた。


「……そんな気がして」

「そう」


 それ以上は尋ねず、ゼフィが森へ視線を戻した。


 巨大な獣は距離を保ったまま立っている。馬車を狙って回り込む様子も、近づこうとする様子もなかった。


 街道の先を見ると、路肩を流れる水が先ほどより増えていた。道の曲がる向こうへ、濁った流れが続いている。


「何か見えましたか?」


 リシェの問いに、首を振った。


「ここからでは分からない。確かめてもらおう」


 馬車のそばを通りかかったルークへ声をかけた。


「ルーク。先の道を確認してほしい」

「これから見に行くところだ。何か気になるか?」

「路肩の水が増えている。この先へ流れ込んでいるから、路面だけでなく、低い場所の様子も見ておいてほしい」


 ルークが街道へ目を向けた。


「分かった。セリナにも伝える」


 そう答えて前の馬車へ向かった。


 リシェの隣に腰を下ろしたゼフィは、森を警戒しながら、ときおりその横顔へ目を向けた。


 リシェはそれに気づかなかった。


 木々の奥に、金色の瞳がまだ見えている。


 獣は近づかない。


 雨の中に踏みとどまり、リシェを見据えていた。


 馬車の列も、動かなかった。

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