第五十一話 火のそばで待つ
最初に気づいたのはフィエルだった。
鞄の中で眠りかけていたはずなのに、急に顔を上げた。リシェの手の下で、背中が硬くなる。
「フィエル?」
呼びかけてもこちらを見ず、耳を立てて馬車の外へ鼻先を向けていた。
鞄の口を少し広げると、夕方の風が草の匂いを運んできた。それまでと変わらないように思えたが、フィエルからは落ち着かない気持ちが伝わってくる。
「どうした?」
向かいに座るゼフィが尋ねた。
「何か気になるみたいで」
答えながら額を撫でた。フィエルは頭を寄せず、前脚を鞄の縁へ掛けた。
ゼフィも馬車の外を見た。街道の先では、今夜の野営の準備が始まっている。先に着いた馬車から荷物が下ろされ、人々が馬を外していた。
リシェたちの馬車も、ゆっくりその列へ加わった。
車輪が止まっても、フィエルは立ったままだった。
*
その日の夕食は、まだ火に掛けられたばかりだった。焚き火のそばで、リシェは洗った椀を布で拭いていた。
昨日の採取のあと、エリオと話したとおり、今日は手伝いを始める前に声をかけた。頼まれた椀を拭き終えたら、次に何をするか聞こうと思っていた。
すぐ隣に置いた鞄から、フィエルがときどき顔を出しては木々の方へ目を向けている。つられて見ても、何も見つからない。
「これで最後?」
エリオが椀を二つ持ってきた。
「うん」
一つ受け取り、底に残った水を拭いた。もう一つを手にしたまま、エリオが鍋へ顔を向ける。
「今日は何が入ってるんだろ」
「まだ見てない」
「昨日の葉っぱはすぐ分かったよな」
「エリオが先に見つけたね」
「まあな」
少し得意そうな笑顔に笑い返したところで、短い声が飛んだ。
「馬を押さえて!」
離れた場所だった。二人で顔を上げると、馬の一頭が首を高く上げ、落ち着かない様子で足を踏み替えていた。手綱を持つ人が、低い声でなだめている。
鞄から身を乗り出したフィエルの背へ、慌てて手を置いた。強い警戒が伝わってきた。その奥に、何かへ向かおうとするような気持ちもある。
「フィエル、出ないで」
布を押さえながら呼びかけると、フィエルが振り返った。だが、すぐにまた木々の方を向く。
街道側を見ていた護衛が手を上げた。
「狼だ!」
指が止まった。声のした方を見ようとすると、エリオが立ち上がりかけた。その前に、ルークがこちらへ走ってきた。
「椀は置いて。二人ともセリナのところへ」
「狼って——」
「今は行って」
エリオの言葉を遮る声に、すぐ椀を下ろしてフィエルの鞄を持ち上げた。エリオも椀を置き、二人で馬車の間へ向かった。
昨日とは違った。
ルークの声を聞いた瞬間、次に何をすればいいかを考える前に、言われた場所へ行こうと思った。
セリナは荷物を下ろしていた人たちに声をかけていた。
「手を止めて、内側へ。馬のそばは担当の人に任せてください」
リシェたちを見つけると、手招きした。
「二人はここに」
馬車の車輪の内側だった。近くには、ほかの旅人も集まっている。
鞄を抱え、エリオと並んで立った。セリナは別の人へ声をかけ、また外側へ目を向ける。
誰かが足早に通るたび、肩が強張った。
馬の鼻息。荷物が地面へ置かれる音。
護衛たちの短い呼び声。
さっきまで聞こえていた笑い声は、もうなかった。
馬車の隙間から外を見ると、木々の手前に灰色の影があった。低く頭を下げ、こちらを見ている。もう一頭が、その後ろを横切った。
思っていたより近かった。
鞄を抱く腕へ力を込めた。
「見なくていい」
小さく言ったエリオも、同じところを見ていた。
顔を戻した。
「うん」
フィエルの耳が鞄の口から出ていた。こちらもじっと外を見ている。
フィエルの警戒する気持ちは分かった。でも、あの狼からは何も伝わってこなかった。
怖いのか、怒っているのか。
何を求めてここへ来たのか。
見ていても分からない。ただ、目が合ったような気がしたとき、自分の体が小さくなるように感じた。
鞄へ顔を近づけた。
「ここにいてね」
フィエルは布の上へ下りず、前脚を縁へ掛けたままだった。
*
護衛たちは商隊の外側に立っていた。ルークもその一人だった。
焚き火から取った燃える枝を持つ人が、木々の方へ進む。別の護衛は馬のいる側を見ていた。
狼はすぐには離れなかった。灰色の体が草の陰へ消え、少し違う場所から現れる。見ないようにしていても、物音がするたび顔が向いてしまった。
「馬車から離れないで」
セリナがもう一度言った。皆と一緒に頷き、足を動かさずにいた。隣では、エリオが両手を握りしめている。
突然、馬が大きく鳴いた。
びくりと肩が揺れた。護衛の声が重なる。
「右だ!」
灰色の影が低い姿勢で駆け、馬車の向こうへ消えた。見えなくなった先で鈍い音がして、誰かが声を上げる。
思わず一歩動きかけると、エリオの腕が自分の腕へ触れた。
二人で顔を見合わせた。
どちらも何も言わなかった。
元の場所へ足を戻した。今出ていけば、また誰かが自分を追いかけなければならなくなる。
鞄の中でフィエルが身を乗り出した。両腕で鞄を支え、胸へ引き寄せる。
「行かないで」
小さな声で言った。
「お願い、ここにいて」
見上げてきたフィエルの、強く張り詰めた気持ちの中に、リシェを気にする感情があった。
背を撫でた。指先が震えて、うまく撫でられない。
その手へ鼻を寄せたフィエルが、鞄の縁から前脚を下ろした。ただ、顔だけは外へ向けていた。
そばへ来たゼフィが二人を見て、少し腰を落とした。
「ここで待とう」
頷くと、エリオも唇を結んだまま頷いた。
ゼフィは二人を連れ出そうとはせず、そばに立って馬車の外へ目を向けていた。その姿が見えるだけで、少し息をしやすくなった。
時間がなかなか進まなかった。
声がする。足音がする。
火のついた枝が、馬車の隙間を横切る。
数えるように、ゆっくり息を吐いた。
やがて遠くで枝の折れる音がした。続いて、草を踏む音が木々の奥へ離れていく。
「下がった」
護衛の声だった。それでも、セリナはすぐには動かなかった。
「そのまま待ってください」
ルークたちが外側を確かめる。馬をなだめていた人も、まだ手綱を握っていた。
腕が痛くなっていることに気づいた。鞄を強く抱きすぎていた。少しだけ力を緩めると、フィエルが身を動かした。
*
「もう大丈夫だ」
ルークが戻ってきたとき、エリオが大きく息を吐いた。
リシェもようやく顔を上げた。ルークの服の裾には土がつき、腕には細い擦り傷があった。
「怪我……」
そう言うと、ルークが自分の腕を見た。
「枝で擦っただけだ。あとで洗う」
「ほかの人は?」
「大きな怪我はない。馬も無事だ」
頷いた。その返事を聞いてから、急に膝が頼りなくなった。ゼフィに促されて車輪のそばへ腰を下ろすと、エリオも隣へ座った。
二人を見て、ルークが言った。
「ちゃんと待てたな」
エリオが顔を上げる。
「……何もできなかった」
「動かないでいてくれたから、俺たちは狼を見ていられた」
短く言って、外側を見回した。
「もうしばらく、馬車のそばにいてくれ。今夜はいつもより見張りを増やす」
二人で返事をした。
ルークが離れていくと、自分の手を見た。まだ少し震えている。エリオも同じように、手のひらを見ていた。
「昨日、あんなのがいたら」
小さな声に、胸がきゅっと縮んだ。
白い幹の木が見えなくなったとき。
どちらへ戻ればいいか、分からなくなったとき。
もし、あの狼が現れていたら。
「……うん」
それ以上、言葉が出なかった。エリオも黙った。
鞄の中で丸くなったフィエルの背に、手を置いた。先ほどまでの強い警戒は、少しずつ薄れていた。それでも手を離そうとすると、顔を上げる。
「もう少し一緒にいようね」
フィエルが手の下へ頭を戻した。
しばらくして、セリナが様子を見に来た。
「温かいものを食べましょう。火のそばへ移っても大丈夫よ」
立ち上がると、足が少し痺れていた。エリオもゆっくり立ち、二人で焚き火へ向かった。
鍋の中では、煮込みが湯気を上げていた。食事の支度をしていた人が、椀を並べ直している。
布を手に取った。途中で置いてしまった椀が、一つ残っていた。拭こうとすると、エリオが隣の椀を持ち上げた。
二人とも、何も言わずに手を動かした。
椀を渡すと、温かな煮込みが注がれた。火のそばへ座り、両手で包む。
指先に熱が戻ってくる。一口飲むと、強張っていた喉がようやく少し緩んだ。
向こうではルークが腕を洗っていた。ほかの護衛は食事を受け取り、立ったまま木々へ目を向けている。
椀を膝へ載せた。
「エリオ」
「何?」
「明日、ルークさんの分も、ちゃんと用意しよう」
一度ルークを見てから、エリオが静かに頷いた。
「うん」
焚き火がはぜた。
肩を揺らしかけ、すぐそばの炎を見た。薪の端から小さな火の粉が上がっている。
今度は音のした場所が分かった。
もう一度、椀を両手で持ち直した。




