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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第五十話 戻る場所


 木の根元には、紫の花が五つ咲いていた。


 しゃがみ込み、そのうちの一つへ顔を近づけた。細い茎の先で、小さな花びらが開いている。葉の表面には短い毛があり、縁はわずかに内側へ巻いていた。


 本で見たものと似ている。でも挿絵の花は、もう少し濃い色だった気がする。


「これ、珍しいんだろ?」

「たぶん……。でもまだ同じものか分からない」

「葉も見えたのに?」

「本を確かめたい」


 鞄の中にはフィエルがいる。図鑑は馬車に置いてきていた。


 もう一度、花を見た。葉のつき方も、茎の長さも、覚えておかなければ。


「一つ採って、あとで比べる?」


 手を伸ばしたエリオを見て、慌ててその手のそばへ指を出した。


「待って。知らないものは触らない方がいいこともあるから」

「そっか」


 エリオが手を引いた。リシェも花には触れず、地面に落ちている葉がないか探した。枯れ葉は多いが、この草の葉は見つからない。


 風が枝を揺らし、木漏れ日が花の上を動いた。光の当たる場所へ少し体をずらす。


「こっちからだとよく見えるよ」


 エリオも覗き込んだ。そのとき鞄の中でフィエルが動き、口を開けると銀白色の顔が出てきた。


「どうしたの?」


 フィエルは花を見ず、木々の間へ鼻先を向けた。耳が立っている。


 胸に、小さな落ち着かなさが伝わってきた。さっきまで布の上でおとなしくしていたのに。


 その額を撫でた。


「もう戻ろうか」

「うん」


 エリオも立ち上がった。かごを持ち直し、来た方へ顔を向けたが、二人ともすぐには歩き出さなかった。


 木々の間を見た。


 白い幹の木が見えない。


 少し戻れば見えるはずだ。花を見つけたときには、すぐ後ろにあった。


「こっち、だよね」


 一方を指すエリオに頷きかけ、足元を見た。さっき避けた枝はどれだっただろう。似たような細い枝が幾つも落ちている。


「……たぶん」


 自分の声が小さくなったことに気づいた。エリオがこちらを見る。


「リシェは?」

「私も、そっちだと思うけど」


 二人で木を一つ回り込んだ。その向こうにも白い幹はなかった。木々の隙間に少し明るい場所が見えるが、それが皆のいる草地なのかは分からない。


 足を止めると、かごの中の葉がかさりと鳴った。


「エリオ、待って」


 先へ行きかけていたエリオが振り返る。


「違う?」

「分からない」


 口にすると、急に怖くなった。


 ほんの少し花を見るだけだった。木を越えても戻る場所は分かると思っていた。それなのに、振り返った景色は来たときと違って見える。


 鞄の紐を握った。エリオも周囲を見回し、唇を結ぶ。


「声かけよう」


 リシェは頷いた。ルークは、何かあったら大人を呼ぶように言っていた。


 今なら聞こえるかもしれない。


「あの……!」


 声を出したが、木々の間に吸い込まれたように感じた。エリオが息を吸う。


「誰かいますか!」


 二人で黙って耳を澄ませた。


 枝が擦れる音。

 遠くで鳥が鳴いた。


 人の声は聞こえない。


 喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。もう一度呼ぼうとしたとき、離れたところで声がした。


「リシェ! エリオ!」


 ルークだった。


「ここです!」


 今度こそ、大きな声を出した。


「ここにいます!」


 エリオも続けた。草を踏む音が近づいてきて、木々の間にルークの姿が見えた途端、肩から力が抜けた。


 だが、ルークは笑っていなかった。二人の前まで来ると、まずリシェとエリオを順に見た。


「怪我は?」


 低い声だった。


「ないです」

「俺も」

「フィエルは?」

「大丈夫です」


 鞄の中も確かめてから、ルークが二人の後ろへ目を向けた。


「ほかに誰か一緒に来ていないな?」


 二人が頷くと、短く息を吐いた。


「ここを動くな」


 そう言って、来た方へ声をかける。


「見つかった! 二人とも無事だ!」


 遠くから返事が届き、リシェは顔を上げた。


 ルークだけが探していたのではなかった。


 二人へ向き直り、ルークが尋ねた。


「どこまでと言った?」


 かごの持ち手へ目を落とした。


「……白い幹の木まで」

「分かっていて、越えたんだな」

「はい」


 エリオも小さく返事をした。


「花があって」


 言いかけたところで声が止まった。ルークは続きを待っていた。


「本で見たものか、確かめたくて……少しだけなら、戻れると思いました」

「俺が見るだけならって言ったんだ」


 エリオが口を挟んだ。


「リシェは、木までって言われたって——」

「エリオ」


 名前を呼ばれ、エリオが黙った。


「お前が誘ったなら、それはお前のしたことだ。リシェが一緒に行くと決めたこととは、別に考える」


 それから、リシェへ視線を向けた。


「リシェ。嫌だったのに、無理に連れてこられたのか?」


 首を振った。


「私も、見たかったです」


 エリオのかごが、わずかに揺れた。


 ルークは二人を見たまま言った。


「二人とも、約束を破った。『見るだけ』でも、範囲の外へ出たことは変わらない」

「……はい」

「戻れなくなったら、誰かが探しに行く。その人も、決めた場所から離れることになる」


 さっき聞こえた返事を思い出した。顔も見えない誰かが、自分たちを探している。


「探す人が怪我をすることもある。商隊に残る人数も減る。二人が無事なら、それで終わりという話じゃないんだ」


 かごの持ち手を強く握った。


 花を見つけたとき、考えていなかった。戻るのが少し遅くなっても、急げばいいと思っていた。


 ほかの人が来ることまで、考えなかった。


「ごめんなさい」


 声が震えた。エリオも頭を下げる。


「ごめんなさい」


 少し黙ってから、ルークが言った。


「分からなくなってから、呼んだのはよかった。あちこち動かなかったのもな」


 顔を上げかけた。


「でも、次は分からなくなる前に止まれ。行っていいか迷ったら聞くこと。返事をもらってから動くんだ」

「はい」

「うん」

「戻ろう」


 二人のかごを持とうとしたルークに、リシェは首を振った。


「持てます」


 頷いて歩き始めたルークが言った。


「俺のすぐ後ろを歩いて」


 二人で並び、その背中についていった。


 ほどなく白い幹の木が見えた。


 こんなに近かったのかと思う。でも、自分たちだけではそこへ戻れなかった。


 木の内側には採取へ来ていた人たちが集まっていた。リシェたちを見て、一人が息を吐いた。


「無事でよかった」


 その声に、また頭を下げた。


「ごめんなさい」


 隣でエリオも謝った。ルークがほかの護衛と言葉を交わし、皆を街道へ戻す支度をする。


 帰り道では、誰も採取を続けなかった。


 足元を見て歩いた。紫の花の形はまだ覚えている。でも、今はノートへ描きたいとは思えなかった。


 商隊へ戻ると、セリナが二人を待っていた。ルークの説明を聞き、怪我がないことを確かめる。


「今日はもう馬車のそばにいなさい」

「はい」


 二人で返事をした。近くにいたローレンを見て、エリオがかごを両手で持ち直した。


 ローレンは何も言わず、息子を自分の馬車の方へ促した。


「リシェ」


 エリオが振り返る。


「……あとで」


 頷いて、自分の馬車へ戻った。鞄を下ろしてかごを置くと、持ち手の跡が手のひらに残っていた。


 指で擦っていると、鞄の中からフィエルが顔を出した。心配する気持ちが静かに伝わってくる。


 その額へ手を置いた。


「私、ちゃんと分かってたのに」


 白い幹の木まで。


 口に出して確かめたのに、越えてしまった。


 フィエルが指を鼻先で押し、手のひらの下へ頭を寄せてきた。唇を結び、その柔らかな毛を撫でた。


 人が近づく音に顔を上げると、ゼフィが水の入った器を差し出していた。


「飲める?」

「……はい」


 受け取って一口飲み、喉が乾いていたことにようやく気づいた。


 少し離れたところへ腰を下ろしたゼフィは、花のことも、叱られたことも聞かなかった。リシェもしばらく話さなかった。


 やがてエリオが戻ってきた。かごは持っていない。そばで足を止め、言葉を探すように口を開いた。


「俺……」


 顔を上げた。


「見るだけならいいって、勝手に言った。ごめん」

「私も行こうって思ったから」


 エリオが頷いた。


 二人で少し黙った。先に口を開いたのは、リシェだった。


「次に見たいものがあったら、まず聞こう」

「うん」

「駄目だったら……そのときは、やめる」


 すぐには返事をせず、それからエリオがもう一度頷いた。


「俺も」


 出発を知らせる声がした。エリオが自分の馬車へ戻り、リシェも荷物を整えた。


 座席へ上がる前にルークが馬車のそばを通り、思わず背筋を伸ばした。


 足を止めたルークが声をかける。


「リシェ。鞄上げようか」


 いつもの声だった。


 リシェはルークを見た。


「お願いします」


 鞄を受け取ったルークが、中のフィエルを見て水平に持ち上げた。リシェが乗り込むのを待ち、座席へそっと置く。


「足元、気をつけろよ」

「はい」


 離れていく姿を見送り、鞄へ手を添えて小さく息を吐いた。


 叱られた言葉は、まだ胸に残っていた。それでも、また顔を見て話せたことに少しだけ安心した。


 馬車が動き始めた。


 遠ざかる草地を眺めたあと、膝の上へ視線を戻した。


 ノートを出すのは、もう少しあとにしよう。


 今は忘れたくない言葉を、心の中でもう一度確かめた。


 迷ったら、聞く。


 返事をもらってから、動く。


 隣でフィエルが体を寄せ、リシェの手の下で、ゆっくり目を閉じた。

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