第百十八話 火を使わない日
「今日は、ロギの力は借りないでやってみよう」
ゼフィに言われ、リシェは隣の赤い鳥を見た。
街外れの草地には、丸めた布が五つ置かれていた。少し離れた木の枝に、細い紐が結んである。
「火を使わない練習ですか?」
「うん。誰かに見られている時もあるし、使いたくない場所もあるからね」
「僕は?」
ロギが尋ねると、ゼフィは枝の上を示した。
「今日は見ていてくれる?」
「つまらないなあ」
文句を言いながらも、枝へ飛び移った。
リシェは腰の袋を確かめた。薬、布、水、小さな刃物。出発までに持ち歩くものを揃え始めていたが、袋の中にはまだ余裕があった。
「何をするんですか?」
「向こうの紐に触って、ここへ戻る。その間、僕が投げる布に当たらないように」
ゼフィが一つ拾い上げる。
リシェは足元を見て、木までの道を確かめた。
それほど遠くない。走ればすぐだった。
「では始めよう」
駆け出して三歩目で、肩に布が当たった。
*
二度目は布を見すぎて、足が止まった。
三度目は避けようと大きく横へ動き、次の一つに当たった。
四度目には、木まで辿り着いた。
枝の紐へ手を伸ばした途端、背中に柔らかいものがぶつかった。
「帰るまでだよ」
振り返ると、ゼフィが空になった手を下ろしていた。
リシェは紐を握ったまま、息を整えた。
「先生、当てるのが上手すぎます」
「最初よりゆっくり投げているよ」
「それでも当たります」
枝の上から、ロギが言った。
「今のは紐を見た時に止まったからだね」
「分かってる」
思わず返してから、口を閉じる。
ロギは嘴を少し開けたが、そのまま何も言わなかった。
リシェは木を離れ、布を拾い集めた。
「……もう一回、お願いします」
*
休憩を告げられた時には、膝の上で両手を握り込んでいた。
疲れてはいる。でも、もう一度やればできそうな気がして、やめたくなかった。
ゼフィが水袋を渡してくれる。
「今何をしようとしていた?」
「避けようと」
「どこを通って?」
木を見る。
最初に決めた、まっすぐな道しか考えていなかった。
「横から行ってもいいんですか?」
「もちろん。木に触れて戻れればいい」
草地には、背の低い茂みも、地面の浅い窪みもある。木の反対側は少し遠回りだが、ゼフィから見えなくなる場所があった。
「でも、そっちは遠いです」
「近い道で何度も当たるのと、どちらがいいかな」
リシェは返事をせず、水をもう一口飲んだ。
フィエルがそばへ来て、腕へ鼻先を寄せる。
『つぎ』
「フィエルもやりたいの?」
銀白の尾が動いた。
ゼフィへ目を向けると、布を受け取ってくれた。
「見てみようか」
リシェが立ち上がるより早く、フィエルは草地へ出た。
ゼフィが布を投げる。
飛び退くと思った。
けれどフィエルは、低く身を沈めたまま走り抜けた。布が背の上を通り過ぎる。
二つ目は速度を緩め、鼻先の前へ落とした。
木の根元へ着くと、枝を見上げる。紐には届かなかったが、幹へ前脚をかけ、すぐに戻ってきた。
「速い……」
リシェが呟くと、ゼフィは三つ目の布を手にしたまま頷いた。
「よく見ていたね」
戻ったフィエルが、リシェの前で胸を張った。
その頭を撫でながら、さっきの動きを思い返す。
全部を大きく避けてはいなかった。
自分は布が飛んでくるだけで、届く前から逃げようとしていた。
*
次は、木の右側へ回った。
ゼフィの手元を見ながら進む。布が離れたところで足を止めかけ、今度はそのまま走った。
後ろへ落ちる。
一つ目を避けられた。
二つ目は進む先へ飛んできたので、茂みの手前で曲がる。枝が袖を擦ったが、布には触れなかった。
木へ着いても、すぐには紐へ手を伸ばさない。
振り返ると、ゼフィが次を持っていた。
木の裏へ回る。
布が幹に当たった。
その音を聞いてから紐に触れ、帰りは来た時と違う道を選んだ。
あと少し。
最後の布が飛んできたので、足を緩める。
目の前へ落ちるはずだった。
けれど、布は思ったより手前で沈み、靴の先へ触れた。
「あっ」
リシェは立ち止まった。
木の枝からロギが降りてくる。
「惜しかったね」
「うん……」
落ちた布を拾うと、地面側だけが湿っていた。
五つとも、同じ重さではなかったのだ。
「最後まで、よく見ていたね」
ゼフィへ布を返す。
「当たりました」
「うん。でも最初とは違ったでしょう?」
リシェは通ってきた道を見た。
木へ行って、戻ってきた。
四つは当たらなかった。
「もう一回やりたいです」
「今日はここまで。疲れた時に続ける練習は、別の日にしよう」
そう言われて初めて、脚が重いことに気づいた。
*
片づけの間、ロギはフィエルの背に乗っていた。
リシェが最後の布を袋へ詰めると、赤い鳥が首をこちらへ向ける。
「さっきは何も言わない方がよかった?」
手が止まった。
枝の上から指摘された時の、自分の返事を思い出す。
「ごめん。できなくて悔しかったの」
「僕に怒ったのかと思った」
「ロギには怒ってない」
袋の口を結び、しゃがんで目の高さを近づけた。
「見ていてくれて、ありがとう。でも次は終わってから教えてもらえる?」
「分かった」
ロギは少し考え、尾を持ち上げた。
「じゃあ僕も教えてほしいことがある」
「何?」
「君がどっちへ行くか、当てる練習」
「ロギも投げるの?」
「投げないよ。先に木へ着いて待ってる」
それならできそうだ。
頷くと、ロギは早速、さっきの木を見上げた。
「次の時ね」
ゼフィに言われ、広げかけた翼を畳んだ。
*
街へ戻る道で、リシェはゼフィへ尋ねた。
「先生。旅に出るまでに、剣も習った方がいいですか」
腰にある小さな刃物は、紐を切ったり、採集に使ったりするものだった。カイルのようには振れないし、魔獣へ向けたこともない。
「使いたいと思っている?」
「戦えた方がいいのかなって」
ゼフィはすぐには答えなかった。
少し先を歩くフィエルと、その背のロギを見る。
「身を守る方法は増やしておこう。ただ、剣を持てば安全になるわけでもないからね。まずは逃げることと、転んだ時に起きること。それから、人を呼ぶこと」
「今日も逃げる練習だったんですね」
「そう。君は調べたいものを見つけると、近くまで行きたくなるから」
言い返せることがなかった。
「それにフィエルも強くなっている。ロギもいる。全部を一人でできるようになる必要はないよ」
その言葉に、リシェは前を見た。
フィエルが道の分かれ目で止まり、こちらを待っている。
「でも、二人を助けられるようにもなりたいです」
声が届いたのか、ロギが振り返った。
ゼフィはリシェの歩幅に合わせ、少し速度を落とした。
「それも一緒に考えよう」
*
翌朝、起き上がろうとした瞬間に、脚が痛んだ。
寝台の縁へ座るだけで時間がかかる。
フィエルが心配そうに覗き込んだので、頭を撫でて大丈夫だと伝えた。
『あるく?』
「歩けるよ。ちょっとゆっくりだけど」
立ち上がり、机まで進む。
ノートを開き、昨日の練習を書こうとして、先に一行だけ記した。
――翌日は、脚が痛くなる。
肩へ飛んできたロギが、その文字を覗いた。
「それも覚えておいた方がいいね」
今度はリシェも、一緒に笑った。




