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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第百十七話 兄の願い


 食事をする店は、フェリクスが決めていた。


 通りから少し入ったところにあり、二階の小部屋には四人分の席が用意されている。


「私も来るって分かってたの?」


 イネスが尋ねると、フェリクスは椅子を引いた。


「リシェだけ誘ったら、あとで何を言われるか分からないからね」

「よく分かってる」


 窓際へ座ろうとしたリシェの前にも、椅子が引かれた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 腰を下ろすと、フェリクスは一瞬だけこちらを見てから、向かいへ座った。


 イネスがその顔を眺め、何か言いかける。けれど、店員が料理の説明に来たので、口を閉じた。


 フィエルはリシェの椅子の横で伏せた。ロギは窓辺へ移り、道を歩く人を見下ろしている。


「苦手なものはある?」


 フェリクスに聞かれ、リシェは卓へ置かれた品書きを読んだ。


「特には……これは食べたことがありません」


 魚の料理を指すと、焼いたものだと教えてくれる。川で獲れる魚に香草を詰め、皮を香ばしく焼くのだという。


「それにしてみる?」

「はい」


 注文を終えると、フェリクスは旅の準備について尋ねた。


 ルメリアの言葉を少しずつ覚えていること。地図で道を調べていること。ゼフィが一緒に来てくれること。


 話しているうちに、届いた地図のお礼を言っていなかったと気づいた。


「あの、地図と本ありがとうございました。すごく詳しくて」

「役に立ったならよかった」

「大事に使います」


「うん」


 そこで会話が途切れた。


 フェリクスは水を一口飲み、イネスは卓の下で足を組み替えた。


「兄さん」

「何?」

「さっきから、お礼を言われるたびに変な顔してる」


 リシェは思わず背筋を伸ばした。


「私、何か……」

「違うよ。君は何も悪くない」


 フェリクスがすぐに答える。その横で、イネスがとうとう笑った。


「兄さんも悪くないけど、分かりにくいよね」


     *


「もう少し気楽に話してくれていいと思っていたんだ」


 料理が運ばれ、店員が部屋を出てから、フェリクスが言った。


 リシェは膝の上で手を揃える。


「気楽に、ですか?」

「毎回お礼を言わなくてもいいし。何か欲しいものや、してほしいことがあれば、遠慮なく言ってくれれば」


「じゃあ、私の研究室に棚を」

「イネスには聞いていない」


「ほら。私にはこうなのに」


 イネスは気にした様子もなく、焼いた野菜を皿へ取った。


 フェリクスはリシェへ向き直る。


「困らせたいわけじゃないんだ。ただせっかく兄になれたからね」


 最後の声が少し小さくなった。


 リシェは、目の前の人を見た。


 屋敷では、いつも誰かがフェリクスへ相談に来ていた。書類を読み、予定を決め、頼まれたことにすぐ答えていた。今日も部屋と食事が用意され、何も困らないようにしてくれている。


 そのフェリクスが、今は自分の返事を待っていた。


「兄さんはね、呼んでほしいんだよ」


 イネスが言った。


「フェリクス兄様、って」

「それは、自分で言うから」

「いつ? 帰る前?」


 フェリクスが黙った。


 リシェは二人を交互に見た。イネスは楽しそうだったが、フェリクスの方は本当に返事に困っている。


「そう呼んでも、いいんですか?」


 尋ねると、すぐにこちらを向いた。


「もちろん」


 今度は早すぎるくらいだった。


「私たちが兄さんって呼んでも、そんな顔しないよね」

「君たちは呼んだあとに大抵何か頼むだろう」

「リシェには頼んでほしいのに?」


 言い返せなかったらしい。


 イネスが笑いを堪えながら水を飲む。


 リシェは少し考えてから、膝の手をほどいた。


「フェリクス兄様」


 呼んだだけなのに、喉の奥がくすぐったかった。


 向かいで、フェリクスの手が止まる。


「……うん」


「魚の食べ方を、教えてもらえますか」


 皿には、頭も尾もついた魚が載っていた。香草の匂いはおいしそうなのに、どこから手をつければいいか分からなかった。


「もちろん。こちらを見ていて」


 フェリクスは自分の皿を少し寄せ、背に沿って身を分けた。骨の位置を示し、片側を食べ終えたあとの外し方も教えてくれる。


 リシェも同じように道具を動かした。


 途中で身が崩れたが、骨は外せた。


「できました」

「うん。上手だ」


 顔を上げると、イネスが頬杖をついていた。


「よかったね、兄さん」

「食事中だよ」


「嬉しそうだなと思って」


 フェリクスはもう答えず、リシェの皿に小骨が残っていないか確かめた。


     *


 翌日は、フェリクスの用事が終わるまで、リシェは研究室でいつもの仕事をした。


 収穫後の株から伸びた芽を測り、葉の枚数を記録する。別の研究員が育てている鉢でも、新しい芽が出たという知らせがあった。


 午後、迎えに来たフェリクスへその話をすると、昨日見た鉢をもう一度眺めた。


「君がいない時も、育っているんだね」

「はい。同じやり方で育ててもらっています」


「それなら、旅へ出ても残せる」


 リシェは記録を閉じかけた手を止めた。


 出発するまでに、終わらせなければいけないと思っていた。


 けれど、冬を越したあとはどうなるのか、次の夏も同じように育つのか。調べることは、まだ先まで続いている。


「私がいなくても、続けてもらえるんでしょうか」

「続けたい人がいれば。君が戻ってから、結果を聞くこともできるだろう?」


 窓辺の鉢を見た。


 自分で見たいことばかりだった。でも、自分一人で全部を見続けることはできない。


「記録、分かるようにしておきます」

「それがいいね」


 フェリクスが手を差し出した。


「では、今日は買い物に付き合ってくれる?」

「何を買うんですか?」

「母さんたちへの土産。君の意見を聞きたい」


     *


 買い物は、思っていたより長くなった。


 セシルには茶葉、アデルには菓子。ラルフにも丈夫な玩具を選び、最後に入った書店で、フェリクスの足が止まった。


「リシェは?」


「私ですか?」

「欲しいものはない?」


 卓には旅の記録や図鑑が並んでいた。


 気になる本はあった。けれど、研究室にもまだ読んでいない本がある。地図も辞書も送ってもらったばかりだった。


「今日は大丈夫です」


 答えると、フェリクスは一度頷いた。


 それで終わると思ったのに、少し迷ってから付け加える。


「何もなくても、一緒に出かけるだけでいいんだけどね」


 リシェは本の背から顔を上げた。


「何か買ってもらわないと駄目、という意味ではなくて。今のうちにしてやれることがあればと思ったんだ」


 屋敷でも昨日も、今日も。


 フェリクスは何度も手を差し出してくれた。そのたび、ありがとうと答えるだけで精いっぱいだった。


 リシェは店の奥を見た。


 旅の日記を置いた棚の、上の段。背伸びしても届かなかった本が一冊ある。


「兄様」


 フェリクスが、途中まで出しかけていた財布をしまった。


「うん」


「あの本を取ってくれますか?」


 指した先へ、すぐに手が伸びた。


「これかな」

「ありがとうございます」


 受け取って表紙を開く。


 二頁ほど読んだところで、返事がなかったことに気づいた。顔を上げると、フェリクスは隣に立ったまま、こちらを見ていた。


「……兄様?」


「何でもない。ゆっくり見ていて」


 声が、昨日よりもっと柔らかかった。


     *


 フェリクスが帰る朝、馬車には土産の包みがいくつも積まれた。


 見送りに来たイネスが、その量を見て眉を上げる。


「私が帰る時と変わらないね」

「君の荷物ほど重くはないよ」


 リシェは書店で買った本を抱えていた。


 結局、自分のお金で買った。フェリクスは少し残念そうだったが、支払いを止めなかった。


「次に来る時も、先にお手紙をください」

「分かった。今度は知らせる」


 馬車へ乗る前に、フェリクスが屈んだ。


「母さんたちへ何か伝えておく?」

「手紙を書きます。それと……」


 言いかけて、少し迷う。


 フェリクスは急かさなかった。


「また、一緒に出かけたいです」


 顔を上げると、両腕が伸びてきた。


 体がふわりと持ち上がり、リシェは慌てて本を抱え直す。目線が近くなったところで、フェリクスが笑った。


「僕も。また来るよ」


 地面へ下ろされても、しばらくその袖を掴んでいた。


 イネスが横から覗き込む。


「その顔、母さんたちに見せたいな」


「君は仕事に戻りなさい」


「はいはい」


 馬車が動き出すまで、リシェは門の前で手を振った。


 窓から振り返される手が見えなくなると、隣のイネスがこちらを見る。


「私のことも、お姉様って呼んでいいんだけど」


「……呼んでほしいんですか?」


「うん。兄さんがあんまり嬉しそうだったから」


 リシェは困って、腕の中の本へ目を落とした。


 それから小さく笑い、研究室へ戻る道を一緒に歩いた。

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