第百十六話 育ったもの
セシルからの返事は、イネスの手に渡ってから届いた。
「止められましたか?」
手紙を差し出す時の顔が真剣だったので、リシェは先に聞いてしまった。
「ううん。私に出発までに教えておくことが増えた」
封を開く。
十三歳になってすぐでなければいけないのか、旅の資金はどのくらい用意するのか、具合が悪くなった時に誰へ知らせるのか。
便箋には、リシェがまだ考えていなかった問いが並んでいた。
最後には、短い一文がある。
――出発する前に、必ず顔を見せに来てね。
「行きます」
読み終えた手紙へ答えてから、イネスを見上げる。
「全部、まだ決めていません」
「じゃあ一緒に考えよう。今すぐ答えを出す必要はないから」
イネスは机の隅に置いてあった鉢を持ち上げた。
「その前に、こっちは今すぐ見てほしい」
差し出された株の根元に、小さな葉が開いていた。
東の丘陵から持ち帰った薬草だった。
*
夏の間、研究室の窓辺には同じ薬草の鉢が増えた。
以前は育たなかった種類だ。今回も、最初に植えた株は葉の色が悪くなった。
リシェは諦めきれず、イネスともう一度丘陵へ行った。
根を傷つけない採り方、土の深さ、日の当たる時間。見直すものが多く、最初はどれを記録すればいいか分からなかった。
株の育つ岩陰で、水の精霊が伝えてくれたのは、冷たい、という短い言葉だった。
何が冷たいのか聞いても、同じ感覚しか返ってこない。
ロギも一緒に尋ねたが、精霊が知っていたのは、自分のいる場所が心地よいということだけだった。
リシェは根元の土へ指を入れた。
表面より、奥の方が冷たかった。
イネスに確かめてもらうと、持ち帰っていた土ではなく、鉢の置き方を変えてみることになった。
ただ、涼しい場所へ移しただけでは育たなかった。
葉を日陰に置きすぎた鉢も、根元まで湿らせた鉢も、順番に弱っていく。
「これも駄目ですね」
記録へ線を引くたび、リシェの声が小さくなった。
「駄目だった条件は、もう一度試さなくて済むよ」
イネスは枯れた株の根を洗い、元気な株と並べた。
「でも持ち帰った分がなくなってしまいます」
「だから一度に全部は使わない。急がなくていい」
残った株をどう分けるか、二人で相談した。
葉には光を当て、根のある鉢は熱くならないようにする。水は上から頻繁にかけず、土の中が乾ききらない量を探した。
リシェは朝と夕方に鉢を確かめ、留守の日にはほかの研究員へ記録を頼んだ。
やがて一株が新しい葉を出し、続いてもう一株が伸びた。
夏の終わりには、枝を分けて植えたものまで根づいていた。
*
「切りますよ」
リシェが鋏を構えると、イネスが鉢を回した。
「その下から。残す葉をもう一度数えて」
「三枚です」
「うん。どうぞ」
育てた株から、初めて薬に使う分を採る。
葉を切り取った途端、嬉しさより不安が先に来た。せっかく育ったのに、これでまた弱ったらどうしよう。
イネスは切り口を確かめ、記録の日付へ印をつけた。
「次の葉が出るまで、また見ていこう」
採れた量は、小さな籠の底が隠れる程度だった。
それを薬師へ渡し、野生のものと同じように使えるか調べてもらう。
リシェは返事が来るまでに、鉢を三度並べ替えそうになった。そのたびにイネスから、今は条件を変えない、と止められた。
結果が届いたのは、畑の収穫が始まる頃だった。
イネスが紙を読んでいる間、リシェは卓の前に立っていた。
「使えますか?」
「使える」
その二文字を聞いた途端、膝から力が抜けた。
「ただ採った時期で差は出るみたい。前に調べた葉と同じだね。何度か収穫して比べてほしいって」
「じゃあ、続けられるんですね」
イネスが顔を上げる。
「うん。育てた葉を薬に使うところまで続けられる」
リシェは窓辺へ走りかけ、鉢の前で足を止めた。
切った枝の脇に、小さな芽が出ている。
『嬉しい?』
肩のロギへ、何度も頷いた。
『うん。育っただけじゃなくて、ちゃんと役に立つんだって』
*
その話は、研究室の中だけでは収まらなかった。
イネスが育て方をまとめ、ほかの研究員にも同じ条件で試してもらった。別の場所でも新しい葉が出ると、施設の責任者が鉢を見に来た。
さらに数日後には、薬師と栽培を担当する人たちが集まった。
リシェは説明に使う記録を揃える役だったはずなのに、途中で呼ばれた。
「日々の管理は、君が?」
「はい。留守の日はお願いしました」
「葉が弱る時は、どこから変わる?」
「下の葉からです。色が薄くなって、そのあと……実物を見てもらってもいいですか」
失敗した鉢を、一つだけ残してあった。
持ってくると、皆が屈んで葉を見る。リシェは元気な株と並べ、違いを指した。
質問は、ノートに書いた順番では来なかった。
水をやらなかった日はあるか。鉢の深さを変えたか。冬も同じ育て方でいいのか。
「冬は、まだ分かりません」
答えると、相手は頷いて紙へ書いた。
知らないことを言っても、話は終わらなかった。
「ではその記録も続けてほしい。こちらで増やした株についても知らせよう」
机へ並べた鉢を見て、薬師の一人が言った。
「毎年、採れる量が読めずに困っていたんです。これが安定すれば、頼める先が増える」
リシェは隣のイネスを見た。
イネスは相手の話を聞きながら、小さく頷いていた。
自分たちが育てた数株の先に、もっと大きな畑がある。
そこで採った葉が、知らない誰かの薬になる。
窓辺だけを見ていた時には、そこまで考えたことがなかった。
*
話し合いが終わり、鉢を戻していると、トーマが戸口で手招きした。
「リシェ、来客」
「私にですか?」
イネスが顔を上げる。
「誰?」
「ヴァレール家の方。受付で待ってる」
鉢を置く音が、少し大きくなった。
廊下へ出ると、旅の上着を着たフェリクスがいた。
リシェを見るなり、その顔が柔らかくなる。
「久しぶり」
「どうして……お手紙には、来るって」
「書く前に出た。こちらで用事があったんだ」
後ろからイネスが追いついた。
「先に知らせてよ。部屋片づけてない」
「そう思って宿は取ってある」
フェリクスはリシェの手元へ目を向けた。
土のついた指と、袖に引っかかった枯れ葉。
「仕事中だったか」
「ちょうど終わったところです。薬草が育ったので、見てもらっていて」
「母さんへの手紙に書いていたもの?」
「はい。薬にも使えるって、今日詳しく話を聞きました」
「それは見たいな」
リシェはすぐに研究室へ案内した。
鉢の前で説明を始めると、フェリクスは上着を脱いで椅子へ掛けた。葉を見せるために屈んだ姿が、屋敷で書類を読んでいた時とは違って見える。
「これを増やしているんだね」
「はい。最初は全然育たなくて」
枯れた株の記録も見せた。
フェリクスは頁を飛ばさずに読み、途中で何度か尋ねた。答えるうちに、どれだけ試したのか、自分でも分からなくなっていた日々がつながった。
「よく続けたね」
その言葉に、リシェはノートの角を握った。
「イネスさんが、諦めなくていいって」
「君も毎朝見に来てたでしょ」
横から言われ、二人で顔を見合わせる。
フェリクスはノートを閉じ、イネスへ返した。
「今日はもう連れ出しても大丈夫?」
「うん。鉢は私が戻すよ」
「では夕食に行こう。旅の話も聞きたいし、その前に」
差し出された手へ、リシェが自分の手を伸ばす。
フェリクスはその指先を見て、笑った。
「まずは、土を落とそうか」
慌てて手を引くと、イネスまで笑った。
流しへ向かうリシェの後ろを、フィエルがついてくる。ロギは窓辺で待ち、乾いた手を差し出すと肩へ戻った。
机には、育った薬草と、次の収穫を記録するための紙が残っている。
明日の朝も、また葉を数えよう。
そう思ってから、リシェはフェリクスの隣へ並んだ。




