第百十五話 手紙では足りない
ルメリアの使節団が去ってから、一月が過ぎた。
広場の旗は外され、中央通りには夏物の布を売る店が増えた。研究室の窓も昼間は開けたままになり、机の紙を飛ばさないための重しが欠かせなくなっていた。
リシェの新しいノートには、ルメリアの言葉が少しずつ増えている。
最初に覚えたのは挨拶だった。次は数字。そのあと、道を尋ねる言葉を書いたのだが、返事を読む練習でつまずいた。
「どこですか、だけ覚えても駄目なんですね」
「教えてもらった道が分からないと困るからね」
ゼフィは机に三つの物を並べた。
インク壺、本、空のカップ。
「本の右へ」
「……カップ?」
「今のは、インク壺を動かしてほしいという意味」
リシェは伸ばした手を戻した。
肩のロギが、嘴を羽の中へ埋める。
『笑った?』
『まだ笑ってないよ』
その返事が一番怪しかった。
*
昼前、研究室へ大きな箱が届いた。
トーマが卓へ運ぼうとして傾けたので、イネスとリシェが両側から支える。箱にはヴァレール家の印があった。
「何か頼んだ?」
イネスに聞かれ、リシェは首を振った。
中に入っていたのは、地図と本と、厚く包まれた小さな箱だった。
上に置かれた手紙を開くと、フェリクスの字が現れる。
――船の出る港と、主な街道を記した地図を同封する。
――経路を考える際には、距離だけで決めないこと。季節、治安、通行の条件も確認するように。
その下に、別の筆跡が続いていた。
――あなたが見たいと思ったものを、いつか私たちにも教えてね。
セシルだった。
リシェは手紙を読み終えてから、地図を広げた。
使者が見せてくれたものより細かい。港の名前があり、山を越える道には小さな印がついている。何か所かには、フェリクスが添えた紙片が挟まれていた。
「兄さん、調べ始めたら止まらなくなったんだな」
イネスが横から覗く。
「こっちは母さんが選んだ本だと思う。旅先で人の家に招かれた時の作法だって」
「こんなにあるんですか」
開いた頁には、訪問の時間や、贈り物について書かれていた。
「全部覚えなくていいよ。困った時に探せるようにしておこう」
最後の小箱には、ラルフの絵が入っていた。
走っているところ、腹を見せているところ、何かをくわえて逃げているところ。アデルからの紙に、好きな一枚をリリにも見せてあげて、とある。
リシェは自分のノートの犬を見直し、そっと閉じた。
*
届いた地図は、その夜から忙しくなった。
ゼフィが知っている道へ印をつけ、カイルが最近通った街道の話をする。リシェは二人の間で、名前と場所を結びつけていった。
「この港まで行くなら、こっちも通れるよ」
カイルが線を指で辿った。
「でも荷車が多い。雨のあとだと動かなくなることがある」
「こちらは山越えになるね。冬は避けたい」
ゼフィの指が別の道へ動く。
同じ場所へ向かうのに、線はいくつもあった。
リシェは地図の端へ、小さくルメリアと書いた紙を置いた。
「先生はどっちへ行きたいですか?」
ゼフィが顔を上げた。
「僕も行くことになっている?」
「あ……」
聞くつもりで、聞いていなかった。
旅を考える時、いつの間にか隣にはゼフィがいた。フィエルとロギと、それから先生。一緒に地図を見てくれるので、そう思ってしまっていた。
「すみません」
紙を引き寄せようとすると、ゼフィがその端を押さえた。
「今、聞いてくれればいいよ」
カイルが椅子の背へ体を預ける。リシェは地図から顔を上げた。
「私、ルメリアへ行ってみたいです。その前にもいろんな場所を見たいです。薬草も知らない魔獣も。先生がよければ、一緒に来てほしいです」
「うん。僕も行きたい」
返事が早くて、次に用意していた言葉が止まった。
「いいんですか?」
「君たちと旅をするのは、楽しそうだからね」
肩から、ロギの尾が頬へ触れた。
『僕も行くよ』
『うん』
足元のフィエルまで立ち上がったので、リシェはその頭へ手を置く。
カイルが卓の地図を軽く叩いた。
「で、いつ出る?」
その問いには、すぐ答えられなかった。
「まだ……」
「今すぐじゃないんだろ?」
「はい。研究も途中ですし、もっと覚えたいことがあります」
「じゃあ出る時までに決めればいい。俺も、その頃どこにいるか分かんないし」
気軽な言い方だった。
リシェがカイルを見ると、彼は地図の別の街を指した。
「ただ俺が行ったところなら話せる。ここの宿は飯がうまい」
「それも書いておきます」
「それは大事な情報だね」
ゼフィまで言うので、リシェは地図の横へ新しい紙を置いた。
*
エルネストのもとへ写しが届いたのは、さらに半月後だった。
連絡を受けて訪ねると、机には何枚もの紙が広げられていた。ゼフィは先に来ていて、手元の辞書と本文を見比べている。
リシェが読めたのは、覚えたばかりの単語がいくつかだけだった。
「精霊と話した人の記録ですか?」
「そう。ただ、思っていたより断片が多い」
エルネストは二枚の紙を並べた。
「これとこれは、別の時代に書かれている。同じ人物についての話とは限らないんだ」
火に助けられた者。水の声を聞いた者。庭で小さなものたちに囲まれた者。
使者から聞いた時は、一人の姿として浮かんでいた。それが今は、ばらばらに分かれてしまった。
「何人もいたんでしょうか」
「その可能性もある。だが同じ話が形を変えて残ったのかもしれない」
ゼフィが読んでいた紙を渡してくれる。
「こちらには、旅の途中で立ち寄った場所が書いてあるよ。地名が今も同じか確かめてもらっている」
リシェは行の間へ指を置いた。
その人は、そこを歩いた。
どんな顔で、何を見ていたのだろう。
「星の瞳のことは、ありませんでしたか?」
声を落として尋ねると、エルネストは首を振った。
「今届いた範囲にはね」
期待していた答えはなかった。
フィエルに似た獣の記録にも、新しく分かったことは少なかった。壁画のある礼拝堂より古い写しがあるらしいが、別の神殿で保管されていて、確認には時間がかかるという。
エルネストは使者からの手紙を読み直した。
「探してくれるそうだ。まずは待とう」
リシェは渡された紙を見つめた。
待つしかないことは、分かっている。
それでも、向こうにある書物を自分で開けたら、と思った。
*
その日の帰り、リシェはポルテへ寄った。
リリにラルフの絵を渡すと、すぐにニルスまで呼ばれた。パンをくわえて逃げる姿が一番気に入ったらしく、二人でどこへ飾るか相談し始める。
リシェはハンナにもらった水を飲みながら、それを眺めていた。
「今日は静かね」
隣へ座ったハンナに、少しだけ話した。
遠い国から資料が届いたこと。知りたいことの答えは、まだ見つからなかったこと。
「また、向こうの人に調べてもらうの?」
「はい。でもいつか自分でも見たいです」
「そう」
ハンナはそれ以上引き止めず、空いた杯を引き寄せた。
奥から、リリが顔を出す。
「リシェ、旅に行くの?」
ニルスもその後ろで止まった。
「いつか。まだすぐじゃないよ」
「どのくらい?」
「決めていません」
答えると、リリは絵を抱えたまま考え込んだ。
「じゃあ、行く日が決まったら先に言ってね」
「うん」
「あと、帰ってきたら見せる本、なくさないでよ」
リシェが持ってきたルメリアの冊子へ目が向いていた。
「これは持って帰るよ」
約束してから、鞄へしまう。
アルセインには、帰ってきて話したい人がいる。
遠い国には、まだ会ったことのない誰かが残した記録がある。
どちらも大事にしたまま、旅へ出ることはできるのだろうか。
研究室へ戻ったリシェは、セシルへの便箋を取り出した。
今日届いた資料のことを書き、最後に、まだうまく言葉にできずにいた考えを添える。
――十三歳になったら、旅に出たいと思っています。
書いてから、一度読み直した。
消さずに、続きを書いた。
――それまでに、覚えておきたいことがたくさんあります。




