第百十四話 地図の先にある国
「道中、何度も開いたので。見にくいところがあれば申し訳ありません」
男が卓へ広げた地図には、折り目に沿って細い裂け目があった。端を小さな重しで押さえると、アルセインよりずっと遠くの土地まで見渡せた。
使節団が滞在する館へ招かれたのは、見学から二日後だった。
エルネストとゼフィの間に座ったリシェは、膝の上で筆記板を押さえている。フィエルは研究室でイネスと留守番し、ロギだけが肩についてきた。
「壁画があるのはこちらです」
指が北へ動く。
いくつもの街を越え、海の向こうへ渡り、さらに山の近くで止まった。
「ルメリア聖国の北部です。この辺りは雪が深く、冬の移動には向きません」
「海を渡るんですね」
リシェの言葉に、男は頷いた。
「私たちは船を使いました。陸路でも行けますが、東へ大きく回ることになります」
地図の海は、ただ薄く色を塗られた場所だった。
そこへ指先を近づけてみる。馬車で五日かかったヴァレール家の領地は、今見ている地図ではアルセインのすぐ近くだった。
「この絵を、直接見ることはできるのでしょうか」
エルネストが尋ねると、男は鞄から昨日の写しを出した。
「残念ながら今は難しいです」
期待していた返事とは違い、リシェの手が止まった。
「壁画のある礼拝堂は、傷みが進んで閉鎖されています。調査の許可を受けた者だけが入れる状態でして」
「修復の予定は?」
「進めたいのですが、屋根だけ直せば済む話ではないようです。崖に近い建物なので、まず地盤を確かめなければ」
エルネストは写しを手元へ寄せた。
「ではこちらを拝見しても?」
「もちろん。そのためにお持ちしました」
リシェも筆記板を開く。
見に行けば分かると思っていたが、着いてからすぐ見られるとは限らない。地図の端に国の名を書き、その下へ、礼拝堂は閉鎖中、と添えた。
*
エルネストは、絵の獣の脚と尾を見比べていた。
「写す時に、形を整えた可能性はありますか」
「ありますね。写し手によって線が違うものもございます。こちらは損傷した箇所を補わず、見えたものだけを残した記録です」
男はもう一枚、薄い紙を重ねた。
昨日の絵より線が少ない。腹の辺りと、後ろ脚の一部がほとんど消えていた。
「こちらは古い写しです。耳の形は比較的よく残っていますが、尾の先はどちらも不明瞭ですね」
リシェは自分の描いてきた絵を伏せた。
覚えているつもりだったのに、違うところがいくつもあった。先にこちらをよく見ようと、椅子を少し卓へ寄せる。
「白い毛の魔獣というだけなら、候補は複数あります。ただ、この姿で人のそばに描かれるものは珍しい」
エルネストの言葉に、男が頷いた。
「我が国では、神獣を描いたものではないかといわれています」
ペン先が紙に引っかかった。
リシェは慌てて持ち直したが、ゼフィがこちらへ目を向けた。
男は写しを見たまま続けた。
「もっとも、神殿の絵にある獣をすべて神獣と呼ぶ者もおります。研究の上では慎重に扱うべき言葉でしょう」
「ええ。生態の記録とは分けて考えたいですね」
エルネストの返事は落ち着いていた。
リシェには、次の問いを待つ余裕がなかった。
「神獣ってどんなものなんですか?」
男が顔を上げる。
「書物によって説明が違います。神の使いとするものもあれば、古くから土地を守る獣とするものも。私も、実際に見たことはございません」
「この絵の獣は土地を守っていたんでしょうか」
「それは分かりません。ただ同じ礼拝堂の記録には、傷ついた者が白い獣に導かれたという一節があります」
リシェは卓の下で指を握った。
怪我人に寄り添っていたフィエルの姿が浮かぶ。
でも、導いたと書いてあるだけだ。傷を治したとは、まだ聞いていない。
ゼフィが写しの足元を指した。
「横たわっている人物と関係があるかもしれませんね」
「ええ。そこを調べている者もおります」
男は別の紙を探し、鞄の中を見た。やがて諦め、空いた紙へ短い文章を書きつける。
「正確な綴りはこちらです。後日、本文の写しを送るよう手配しましょう」
「ありがとうございます」
エルネストが受け取り、その横へ自分の送り先を書いた。
*
話が一段落すると、男は地図を畳まずに残した。
「こちらからも一つ伺いたいのです」
リシェは筆記板を膝へ戻した。
「アルセインでは、精霊に関する古い記録も集めておられるのでしょうか」
ゼフィが答える。
「大学に収められているものがあります。僕が知っている範囲であれば、お伝えできますよ」
「ありがたい。我が国に残る記録を、外の資料と比べたいと思っておりまして」
男は、今度は絵のない紙を取り出した。
細かな文字が並ぶ間に、ところどころ線が引かれている。壁画より新しい時代に書かれたものだという。
「精霊との契約の記録ですか?」
ゼフィの問いに、男は首を振った。
「そこがはっきりしないのです。複数の精霊と意思を通わせた、と読める記述があるのですが、契約したという言葉が見当たりません」
肩のロギが動かなくなった。
「精霊術師について書かれたものでは?」
「その可能性もあります。ただ火に助けられた話のあとに、水の声を聞いたという話が続く。同じ人物なのか、複数の伝承が混ざったのか、判断がつかなくて」
リシェは紙を見た。
知らない言葉だった。文字の形にも見覚えがなく、目で追っても何一つ読めない。
男は一か所を指で押さえた。
「ここでは、庭へ入ると小さなものたちが集まり、その者が彼らの争いを聞いた、とあります。寓話としては珍しくありませんが、前後は旅の記録なのです」
ゼフィが紙を引き寄せ、綴りを確かめる。
リシェは横顔を見上げた。ゼフィもすぐには答えなかった。
「全文を見ないと何とも言えませんね。ただ調べる価値はあると思います」
「では、こちらも写しを頼んでおきましょう」
男は手帳に二つ、印をつけた。
リシェは聞きたかった。
その人の目は、どんな色だったのか。
どこから来て、どこへ行ったのか。
今の話に、それを急に尋ねる理由はなかった。
代わりに、紙の端を指した。
「これは、今も読める言葉なんですか?」
「古い綴りですが、ええ。私たちの国では使われています」
「勉強できる本はありますか」
男は少し驚き、それから鞄の脇に入っていた小さな冊子を取り出した。
「旅の間、こちらの言葉を覚えるために使っていました。両方の言葉が並んでいますから、入門にはなるでしょう」
差し出され、リシェはすぐには手を伸ばせなかった。
「お借りしてもいいんですか?」
「差し上げます。書き込みが多いですが、それでもよろしければ」
受け取って開くと、挨拶の言葉の横へ、読み方らしい文字が添えられていた。
最初の一行を指で追い、教えてもらいながら口にしてみる。
聞き慣れない音に舌がもつれ、男がゆっくり言い直してくれた。
*
館を出る頃には、広場の影が長く伸びていた。
リシェは冊子を鞄へ入れず、胸に抱えたまま歩いた。
「先生。さっきの精霊と話していた人は……」
「君と同じかもしれないね。でも、まだ分からない」
ゼフィは周囲の人が途切れたところで答えた。
「写しが届いたら一緒に読もう」
「私も読めるようになりたいです」
「最初からあの文章を読むのは難しいよ。まずはもらった本からだね」
エルネストは、手元の覚え書きを鞄へ収めた。
「フィエルに似た絵についても、ほかの資料と比べてみる。今日の話だけで結論は出せないが、調べる先は増えた」
リシェは頷いた。
知らない国の話だった。
海を渡った先に、閉ざされた礼拝堂がある。そこには白い獣の絵が残り、別の書物には精霊と意思を通わせた人のことが書かれている。
どちらも、自分たちと関係がないかもしれない。
それでも、元の絵を見たいと思った。写しだけでは欠けている場所も、自分の目で確かめたかった。
「ルメリアまで行くには、どのくらいかかりますか」
ゼフィが足を緩めた。
「どの道を通るかによるね。船も、いつでも出られるとは限らない」
「調べたいです。道も船も」
その返事を聞き、ゼフィはエルネストと目を合わせた。二人とも笑わなかった。
「では地図も用意しようか」
*
研究室へ戻ると、フィエルが扉の前まで迎えに来た。
首へ腕を回すと、鼻先が鞄に触れる。知らない匂いがついているのか、冊子の辺りをしきりに嗅いだ。
「お土産じゃないよ。私が読む本」
椅子へ座って開くと、膝へ顎を乗せてくる。
リシェは最初の頁をもう一度読んだ。
挨拶。名前を伝える言葉。道を尋ねる言葉。
途中でイネスが来たので、今日聞いたことを話した。神獣という言葉が出たところでは、イネスも椅子を引き寄せたが、最後まで聞いてから冊子へ目を落とした。
「じゃあ、研究の続きと言葉の勉強だね」
「はい」
「家にも手紙を書こう。何を知りたいのか、伝えておいた方がいい」
リシェは机の引き出しから便箋を出した。
まだ、すぐに旅立つわけではない。
ここで覚えたいことも、できるようになりたいこともある。今日だって、読めない文章を前に待つしかなかった。
便箋の横に、新しいノートを置く。
表紙へ、ルメリア、と書いた。
最初の頁には地図を描く場所を空け、その次の頁に、今日教わった言葉を写した。




