第百十三話 海を渡った記録
「こちらでは、薬草を育てるところから研究なさるのですね」
訪れた男は、窓辺の鉢を一つずつ眺めた。
白い衣の上に、旅のための厚手の上着を重ねている。胸元の金の飾りは、行列で見た旗と同じ形だった。
「野生のものを採るだけでは、必要な時に足りなくなりますから」
イネスが答える。
いつもの早口ではなかった。相手の言葉を待ち、鉢を見せる時も袖が葉に触れないよう気をつけている。
リシェはその横で、頼まれた標本を順番に渡していた。
使節団の全員が来たわけではない。ほかの施設を訪ねる人たちと分かれ、ここには数人が案内役とともにやって来ていた。
質問を続けている男は、エルネストが話していた記録を扱う人だった。神殿に納められた書物や絵を調べ、古い記述を写して残す仕事もしているという。
「こちらの報告も拝見しました。葉を摘む時期で働きが変わるという」
「種類によって差があります。今は、どこまで同じ傾向が見られるか確かめているところです」
イネスが卓の冊子を開いた。
「最初に違いに気づいたのは、この子です」
急に話を向けられ、リシェは標本を持ち直した。
男がこちらを見る。
「あなたが?」
「はい。調べ方はイネスさんに教わりました」
「どうやって気づかれたのですか」
用意していなかった問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。
それでも、覚えていることなら話せた。同じように見える束の中にも、葉の硬さや開き方に違いがあったこと。採る場所だけでなく、葉そのものを分けて比べたこと。
男は途中で急かさず、説明が終わると冊子へ目を戻した。
「見慣れたものを、見直されたのですね」
リシェは返事をする代わりに、冊子の端へ添えられた自分の名前を見た。
*
魔獣の話になると、見学に来た人たちの間から質問が増えた。
エルネストは角と鱗を並べ、同じ種類でも地域によって体の大きさが違うことを説明した。ゼフィが訪ねた土地の話を添えると、一人が持っていた手帳へ何かを書き込む。
「同じ名でも姿が違うことはあるのでしょうか」
記録を扱う男の問いに、エルネストは頷いた。
「あります。逆に、別の名で呼ばれていたものが同じ種類だった、ということも。古い文献を読む時には困りますね」
「こちらでも同じです。神殿の記録には、書き手が実際に見たのかどうか分からないものも多くて」
男は鞄から、薄い綴りを取り出した。
「土地ごとの呼び名を伺えればと思い、写しを持ってきました。お時間があれば見ていただけますか」
「ぜひ」
卓へ置かれた紙には、細かな文字と絵が並んでいた。
角の枝分かれした獣。背に硬い甲羅を持つもの。リシェが知らない姿ばかりだったが、ゼフィは二枚目の途中を指した。
「これは南の山地で見たことがある」
「現存しているのですか?」
「少なくとも三十年ほど前には」
男が慌てて手帳を開く。
リシェも見たかったが、卓には大人たちが集まっていた。標本の箱を脇へ寄せていると、エルネストが自分の隣を空けてくれる。
「リシェもおいで。倒さないよう箱はそこへ」
フィエルは窓際で伏せていた。ロギも背に乗ったまま、こちらを眺めている。
次の紙が開かれた。
リシェの目が、一つの絵で止まった。
長い脚を持つ獣が、横向きに描かれている。
狼に似ていた。けれど、耳の形と尾のつき方が、知っている狼の絵とは少し違う。首から胸へ流れる毛は厚く、細い線を何本も重ねて描かれていた。
紙の端に、白い毛を持つと注釈がある。
リシェは窓際を振り返った。
フィエルが顔を上げる。
見比べても、同じ姿ではなかった。絵の獣は、ずっと脚が長く、顎もたくましい。
それでも、目が離れなかった。
「こちらは?」
先に尋ねたのはエルネストだった。
「北方の古い神殿に残る壁画を写したものです。これだけは大きさも分からなくて。隣に人物が描かれているのですが、象徴として大きく描いた可能性もあります」
「元の絵は、色がついているんですね」
「ええ。白い体に青みを帯びた影がありました」
エルネストは紙へ顔を近づけた。
「足元の線は水ですか?」
「そう読めるのですが、損傷がひどい場所でして。水か光か、別のものか。写した者も判断できなかったようです」
リシェは絵の前脚を見た。
獣の足元に、人が横たわっているようにも見える。細部は線が途切れ、顔も描かれていなかった。
「この人は何をしているんですか」
尋ねると、男は少し首を傾けた。
「分かりません。眠っているとも、傷ついているともいわれています」
窓際で、フィエルが立ち上がった。
こちらへ来たので、リシェは卓の下へ片手を下ろす。鼻先が指へ触れた。
エルネストもその動きに気づいたが、フィエルへ話を向けなかった。
「この獣について、文章は残っていないのでしょうか」
「断片なら。ただ神殿へ伝わる獣の姿はほかにもあります。これがどれを指すのか、まだ結びついていません」
男は紙の余白を指した。
「詳しい記録は本国に残してきました。今回は研究者の方々との交流もできると聞き、見やすいものだけ選んだのです」
リシェは、続きを聞きたくて口を開いた。
その前に、エルネストが別の紙を静かに押さえた。
「差し支えなければ、この写しをもう少し詳しく拝見したい。後ほど改めてお時間をいただけませんか」
「喜んで。こちらからも伺いたいことがあります」
*
見学を終えた一行を送り出すと、イネスが長く息を吐いた。
「お茶、ほとんど飲めなかった」
冷めたカップを取り上げたところで、エルネストに呼ばれる。
「イネス、少し残ってくれる?」
リシェも動かなかった。
ゼフィが扉を閉め、フィエルの背にいたロギが卓へ移る。足音が廊下の向こうへ消えるのを待ってから、エルネストはリシェを見た。
「気になったね」
「はい。先生もですか?」
「耳と尾の形、それから胸の毛の流れ方がね。ただ、似た特徴を持つ魔獣はほかにもいる。あの絵だけでは何とも言えない」
そこで初めて、イネスが椅子を引いた。
「フィエルの話?」
エルネストが頷き、見た特徴を説明する。
フィエルは自分の名が何度も出るので、不思議そうに皆を見回していた。リシェがしゃがむと、すぐに肩へ鼻先を寄せてくる。
「まだ分からないよ」
首の毛を撫でながら、小さく伝えた。
「でも似ている絵があったの」
ロギは卓の上で黙っていた。
やがてエルネストが、リシェへ尋ねる。
「次にあの方と話す時、一緒に来るかい?」
「行きたいです」
「なら、フィエルには留守番してもらおう。まずは資料の話を聞きたい。こちらが何を確かめようとしているか、先に伝える必要はないからね」
リシェは頷いた。
さっきまで、気になったことを全部尋ねてしまいそうだった。なぜ似ていると思ったのか聞かれたら、どう答えればいいかも考えていなかった。
「私も行こう」
ゼフィが言うと、エルネストは手帳へ予定を書きつけた。
「明日か明後日、都合を伺ってみる。向こうも忙しいだろうから、返事を待とう」
*
片づけを手伝っているうちに、窓の外が夕方の色になった。
リシェは空いた紙へ、覚えている絵を描いてみた。
耳と、長い脚。胸の毛はどう描けばいいか分からず、何度か線を重ねる。フィエルを見ながら描くと、今度はフィエルの姿になってしまった。
消しかけた手を、ゼフィが止めた。
「違っていたところも、書いておくといいよ」
「違うところも?」
「うん。似ていると思うと、同じところばかり探したくなるから」
絵の横へ、脚はもっと長かった、と書いた。
体も大きい。顔は細かく描かれていなかった。毛の色は白だと聞いたが、元の絵は見ていない。
書き分けると、知らないことの多さが分かった。
それでも、これまでとは違った。
どの本を開いても見つからなかったものが、遠い国の神殿には描かれているかもしれない。
「先生。元の壁画は見に行けるんでしょうか」
「そこも聞いてみよう。誰でも入れる場所とは限らないからね」
リシェは紙の下へ、もう一つ質問を書き足した。
――壁画のある場所へ行くには。
その横で、フィエルが小さく鼻を鳴らした。
紙を下げて見せると、匂いを嗅いでからリシェの手を舐める。
「一緒に調べようね」
今度は、どこへ向かって調べればいいのか、尋ねることができる。




