第百十二話 花の向こうから
セシルからの返事には、手紙が三通入っていた。
一通はリシェへ、もう一通はイネスへ。残る小さな紙にはラルフが食卓の下からパンを盗み、フェリクスに叱られたと書かれていた。
「それ、お兄さんが書いたの?」
向かいから覗き込んだリリへ紙を見せると、笑い声が上がった。
ポルテの食堂は、昼の客が帰って静かになっていた。卓にはリシェが持ってきた手紙と、リリが選んでいる色紐が広がっている。
「忙しそうな人なのに、こういうことも書くんだね」
「はい。ラルフは叱られたあと、お腹を見せたそうです」
「ずるい。絶対許しちゃう」
リリは青と緑の紐を並べ、しばらく悩んでから緑を取った。
「こっちにする」
「何を作るんですか?」
「腕に巻くやつ。編んで結ぶの」
端を揃える手つきが、いつもより慎重だった。
「誰かにあげるんですか?」
リリの指が止まる。
「……前に話した子」
それだけで分かった。
「渡すんだね」
「まだ決めてない!上手にできたら!」
声が大きくなり、奥からハンナが顔を出した。
「何が?」
「何でもない!」
リシェは手紙を畳み、紐の端を押さえる役を引き受けた。
何度かやり直すうちに、編み目が揃ってくる。リリは途中で投げ出さず、緩んだところを指先で戻していた。
「リシェは、これからもここに来るよね」
編み目を見たまま、急に尋ねられた。
「来るよ」
「貴族の家の子になったから、忙しくなるのかと思った」
「前と同じです。研究室にも住んでいますし」
「でも、お屋敷にも行くんでしょ?」
「うん。また行きたい」
リリは少し考え、紐を引き締めた。
「じゃあ帰ってきたら話してね。今度は犬の絵も描いてきて」
犬なら描けるだろうか。
ノートの端にラルフの顔を描いてみせると、リリはしばらく黙ったあと、耳の辺りを指した。
「ここ、もうちょっと犬にした方がいい」
*
数日後、街の中央通りに見慣れない旗が並んだ。
白地に金の模様が入った細長い旗で、門から広場へ続く道に吊るされている。街灯の柱を拭く人、道へ張り出した荷物を運ぶ人が朝から行き来していた。
研究室へ届いた苗を鉢へ移していると、イネスが封筒を片手に入ってきた。
「来週、国外の使節団が見学に来るって」
「ここへですか?」
「うん。いくつかの研究施設を回るらしいよ。その前に、顔合わせの席にも出てほしいって」
手紙の続きを読み、眉を寄せる。
「食事もあるのか」
「嫌なんですか?」
「長いんだよね。食べ終わっても帰れないから」
リシェは土を入れる手を止めた。
「作法、忘れていませんか?」
「私が?」
「セシルさんにお手紙で聞かれました。教えてもらっていますかって」
「……教えてるよね?」
確かめるように言われ、リシェは頷いた。
人を紹介された時の挨拶も、手紙の書き出しも教わった。まだ考えながらでないと出てこないが、イネスは間違えてもその場で直してくれる。
「じゃあ今日は私の練習に付き合って」
手を洗い、上着を脱ぐと、イネスは戸口から入り直した。
背筋を伸ばし、挨拶をする。そのまま相手がいるつもりで二言三言続ける姿に、リシェは持っていた鉢を置いた。
「どう?」
「いつもと声まで違います」
「いつもの声じゃ駄目みたいに言わないでよ」
笑っているところへ、トーマが顔を出した。
「イネスさん、見学で見せるものを決めてほしいそうです。明日までに」
「明日?」
差し出された紙を受け取り、今度こそ顔をしかめる。
「先にこっちを渡してよ」
*
使節団が街へ入る日は、ポルテの前も朝から落ち着かなかった。
リリに誘われ、リシェも大通りへ出た。ニルスが人垣の薄い場所を見つけ、二人を呼んでくれる。
やがて遠くで蹄が鳴り、白い旗を掲げた騎馬が現れた。
続く馬車の扉には、通りの旗と同じ金の模様がある。沿道へ手を振る人もいれば、胸元へ手を当て、静かに頭を下げる人もいた。
「神殿の人も来てるんだって」
ニルスが教えてくれた。
「祈る時ああするんだってさ」
「ニルス詳しいね」
「宿のお客さんが話してた」
馬車の窓越しに、白い衣の袖が見えた。
どれほど遠くから来たのだろう。途中にはどんな街があり、どんな森があるのだろう。
リシェが爪先立ちになると、肩のロギも首を伸ばした。
『僕にも見せて』
『ロギは飛べるでしょう?』
『今は普通の鳥だから、ここにいる』
最後尾が通り過ぎ、人垣がほどける。壁際で待っていたフィエルが、リシェの手へ鼻先を寄せた。
「お待たせ。帰ろうか」
ニルスたちと別れる前に、リリが袖を引いた。
掌の中に、緑の紐が小さく畳まれている。
「渡せた」
囁かれて、リシェは目を見開いた。
「それは?」
「これは自分の。二つ作ったの」
リリは手首へ巻いてみせ、すぐに袖の中へ隠した。
「内緒ね」
*
見学の日まで、研究室では机の置き場所が三度変わった。
イネスは説明に使う鉢を選び、リシェは標本へ札をつける。机から溢れていた記録を棚へ戻すと、その奥から探していた定規が出てきた。
「ここにあったんだ」
「先週ずっと探していましたよね」
「片づけにも、いいことはあるね」
午後にはエルネストが訪ねてきた。
イネスへ薄い冊子を渡し、空いた机へ自分の資料を広げる。
「そちらも見学の準備ですか?」
リシェが尋ねると、エルネストは頷いた。
「使節団に、魔獣に関する記録を扱う方がいるそうでね。こちらの研究も紹介することになった」
「ここで?」
「最初の挨拶は合同だよ。そのあと、それぞれ案内する」
冊子には見学の順番が書かれていた。植物の研究だけでなく、街の水路や、魔道具を作る施設も回るらしい。
「向こうの研究の話も聞けるんですか?」
「そのつもりだよ。こちらが話して終わりでは、もったいないからね」
エルネストは机の下へ目を向けた。
フィエルが足元へ来て、靴の匂いを嗅いでいた。その背で、ロギが尾を持ち上げる。
「君たちも元気そうだ」
屈んでフィエルの体つきを確かめ、背中を一度撫でた。
「リシェ、当日は少し時間を取れる?」
「はい」
「標本を運ぶのを手伝ってほしいんだ。説明を聞きたければ、そのままいてもいい」
「聞きたいです」
思ったより早く返事が出た。
エルネストは笑い、運んでもらう箱を指した。
「では、お願いしよう。ゼフィにも声をかけてある。向こうの方が、こちらの魔獣の生息域にも関心を持っているそうだから」
リシェは箱の中を覗いた。
羽、角、硬い鱗。図鑑でしか見たことのないものが、布を敷いた小箱へ収められていた。
その一つを手に取ろうとして、先にエルネストを見る。
「触ってもいいですか?」
「そちらは大丈夫。ただ端が鋭いから気をつけて」
掌へ載せた鱗は、見た目より軽かった。
「向こうにも、同じ魔獣がいるんでしょうか」
「それも聞いてみようか。こちらでは知られていない種類の話が聞けるかもしれない」
*
見学当日の朝、リシェは普段の仕事着に、汚れのない上着を合わせた。
鏡の前で襟を直し、イネスに教わった挨拶を一度だけ口にする。
机には、エルネストから借りた資料が置いてあった。昨夜、分からない名前を調べているうちに、予定より遅くまで起きてしまった。
それでも眠くはなかった。
資料を鞄へ収めると、フィエルが扉の前で立ち上がった。ロギはいつものように肩へ乗り、羽を整える。
『今日は君が話す日じゃないんだね』
『うん。たくさん聞きたい』
廊下へ出ると、向こうからゼフィが歩いてきた。
「おはよう。準備はできた?」
「はい。先生は、その国へ行ったことがありますか?」
「まだないよ」
少し意外で、隣を見上げた。
「じゃあ先生も初めて聞く話があるんですね」
「きっとあるね」
玄関の方から、馬車が止まる音がした。
エルネストに呼ばれ、リシェは標本の箱を持ち上げた。




