第百十一話 追い払う前に
「石を片づけようとすると、飛びかかってくるんです」
農家の男は、畑の向こうにある倉を指した。
壁際に積まれた石の前で、茶褐色の魔獣が伏せている。猫ほどの大きさだが、肩が厚く前脚の爪は土を掘るために曲がっていた。
「土掘りですね」
ゼフィの言葉に、カイルが頷いた。
「昨日と同じ場所だ。夜もいた?」
「いたと思います。朝にはああしてましたから」
土掘りは地中へ巣を作り、木の根や虫を食べる。畑を荒らすことはあるが、人へ向かってくることは少ないという。
「石はいつからここへ?」
「三日前です。畑から出た分を、あとで運ぼうと積んでおいたんですが」
リシェは魔獣の前脚を見た。
何度も掘ったらしく、石の下には土がかき出されている。けれど、体が入るほどの隙間にはなっていなかった。
その向こうから、何かが届いた。
薄く、途切れがちな感覚だった。
リシェが足を止めると、ゼフィも歩みを止めた。
「何か気になる?」
「下にもう一体いるかもしれません」
男が顔をしかめた。
「増えてるんですか?」
「まだ分かりません。少し見せてください」
昨日の約束どおり、それ以上は進まなかった。
カイルが先に倉の周囲を回り、近くにほかの魔獣がいないことを確かめる。男には道の向こうで待ってもらい、ゼフィがその間に立った。
リシェは屈んで、石の下を見た。
暗い隙間の手前で、土掘りが頭を上げる。
歯を剥いた。
だが、その目はリシェを通り越し、後ろにいるカイルを捉えていた。
「俺、下がる?」
「そこで待ってください」
ロギは肩で黙っていた。フィエルも、ゼフィの足元から動かない。
リシェは両手を膝に置き、土掘りへ声をかけた。
「石の下に誰かいるの?」
鼻先が隙間へ向いた。
来ない。
出てこない。
同じ感覚が繰り返し押し寄せる。その奥に、もう一つ、弱いものがあった。
「先生。閉じ込められているみたいです」
*
農家の男が持ってきた鍬を、カイルが受け取った。
「石をどけるだけなら、すぐだと思ったんだけどな」
一本目を差し入れた途端、土掘りが飛び起きた。
低い唸りが響き、カイルは手を止める。
「こっちを動かすの嫌なんだな」
「下が動いたのかもしれない」
ゼフィが石の積み方を見直した。
上には人の頭ほどの石が重なり、下の方には大きく平たいものが二枚ある。一枚を動かせば、その上も崩れそうだった。
「持ち上げる前に上から減らそう。リシェ、君は一度戻って」
「でも」
「石が崩れた時、そこでは避けられない」
昨日落ちた時のことが頭をよぎった。
リシェは立ち上がり、ゼフィに示された位置まで下がった。土掘りがついてこないか気になったが、隙間の前を離れようとはしない。
カイルが一番上の石へ手を伸ばす。
また唸った。
今度は踏み込んでくる。爪が届く前に手を引き、カイルは肩をすくめた。
「助けたいのは分かったけど、これじゃ何もできないぞ」
リシェは土掘りへ呼びかけた。
「その人たちが石をどけてくれるの。少しだけ離れて」
返ってきたのは、拒む感情だった。
隙間の奥で、土が擦れる音がする。土掘りはすぐに戻り、鼻先を押し込んだ。
言葉が通じれば、協力してくれると思っていた。
でも、離れる方が怖いのだ。
カイルがしゃがみ、リシェと目の高さを合わせた。
「何だって?」
「動きたくないみたいです。下にいる魔獣が気になって」
「じゃあ動かさないでやるしかないか」
積まれた石の横へ回り、反対側から覗き込む。
「先生、こっちから崩せる?」
「先にこの二つを支えよう」
二人は土掘りのいる正面を避け、倉側から石を減らし始めた。
ゼフィが押さえ、カイルが一つずつ運ぶ。道の向こうへ石が積まれるたび、隙間に光が入った。
それでも、奥からは何も出てこなかった。
*
平たい石が見えるようになった時、リシェにも分かった。
下に穴がある。
ただ、入口の天井が崩れ、石の重みで塞がっていた。
「積む前には、穴なんて見えなかったんですが……」
遠くで様子を見ていた男が呟いた。
「使われていない穴に見えても、中までは分からないからね」
ゼフィは責めるでもなく答え、石の下へ丈夫な枝を差し込んだ。
「カイル、そちらを上げて。少しでいい」
土掘りが動いた。
リシェは息を呑んだが、飛びかかったのではなかった。開いた隙間へ前脚を入れ、激しく土を掻き始めた。
乾いた土が飛んでくる。
「今なら掘れるんだ」
カイルが石を支える腕へ力を込めた。
奥の感覚が、少し強くなった。
苦しい。
動けない。
リシェはゼフィへ伝えた。返事をする代わりに、ゼフィが枝の位置を変える。
「もう少し上げるよ」
隙間から、茶色い鼻先が見えた。
続いて片方の前脚。
外にいた土掘りが後ろへ退き、奥の一体が這い出してくる。姿が見えたのは頭と肩までで、腹から下は穴の中に残ったままだった。
出てきた体は、先の一体より大きかった。
後ろに何かが引っかかっている。
「先生、石の下に根が」
カイルが言うと同時に、ゼフィが短い刃物を抜いた。体へ触れないよう横から差し入れ、穴を横切る根を切る。
土掘りが身をよじった。
土と一緒に後ろ脚が抜け、ようやく全身が外へ出た。
「離れて!」
ゼフィの声で、リシェは二歩下がった。
カイルが石を下ろす。重い音が響いた途端、助け出された土掘りが歯を剥き、彼へ向かって飛びかかった。
短い刃が抜かれた。
「待って!」
リシェが叫ぶ。
カイルは刃を返し、鞘で爪を受けた。体を横へ逃がすと、土掘りは地面へ着地し、すぐに向き直る。
痛い。怖い。
逃げたい。
強い感情に、リシェは一瞬、足元を見失った。
「リシェ、近づかないで」
ゼフィの声に踏みとどまる。
助けたと説明しても、痛みはなくならない。目の前に刃物を持った人がいることも変わらない。
「道を空けてください。逃げたいんです」
カイルが倉の壁際へ下がった。
ゼフィもフィエルを連れて脇へ退く。畑へ続く道が開くと、外で待っていた一体が走り出した。
大きい方があとを追う。
片方の後ろ脚を浮かせていたが、止まらなかった。二つの茶色い背中は、畑の端の茂みへ消えた。
誰も追わなかった。
*
「危なかったなあ」
カイルが鞘についた土を払った。
リシェはその手を見てから、顔を上げた。
「すみません。待ってって急に」
「いや。出てきたから終わりだと思った。俺も油断した」
「助けてもらったって、分からなかったんでしょうか」
「分かったとしても、怖いものは怖いんじゃない?」
言われて、石の下から届いた感覚を思い返す。
狭い場所で身動きが取れず、ようやく出たところに知らない人がいた。そんな時に、落ち着いて考えられるだろうか。
「逃げたいって分かったのは助かったよ」
カイルは鞘を腰へ戻した。
「ただ、次は『待って』のあとも早めに頼む。俺、何を待てばいいか分かんなかった」
「はい。逃げ道を空けてって言えばよかったです」
「うん。それなら動ける」
ゼフィが戻ってきて、リシェの顔を覗き込んだ。
「目はもう大丈夫そうだね」
「目?」
カイルがこちらを見た。
「さっき何か光ってなかった?」
「金色の星が出ることがあるんです。強く感じ取った時に」
昨日、話し忘れていた。
気づいた顔をすると、カイルは呆れたように息を吐いた。
「まだあるのかよ」
「すみません……」
「いや、一日で全部は無理か。次に思い出したら教えて」
肩でロギが身じろぎしたが、声は出さなかった。
*
農家の男は、倉の裏を何度も確かめていた。
「いなくなったなら、これで仕事に戻れます。助かりました」
道具を返し、ギルドへ出す報告に確認をもらう。
積み直した石の下へまた入り込まないよう、ゼフィは今のうちに片づけることを勧めた。男は人を呼んで運んでもらうと言い、すぐに畑へ向かった。
リシェは、魔獣が消えた茂みへ目を向けた。
姿も、気配も届かない。
脚の傷は大丈夫だろうか。
気になっても、今から追いかければ、また怖がらせてしまうかもしれなかった。
「帰るぞ、ちびっこ」
カイルに呼ばれ、道へ戻る。
「今日の報告、書いてみる?」
「私がですか?」
「見えたことはお前が一番分かってるし。俺と先生が確認する」
鞄から筆記板を出しかけて、しまい直した。歩きながら書くのはやめておく。
「精霊とか、気持ちのことは書けませんよね」
「うん。穴があったことと、閉じ込められてたこと。それは俺も見た」
「出てきたあと、襲ってきたことも」
「それも。次に同じ仕事をするやつが、油断しないように」
リシェは頷き、覚えておくことを指で数えた。
二体いた。石の下に穴があった。一体は後ろ脚を痛めていた。出た直後には、人へ飛びかかった。
追い払うだけの依頼だと思って来たのに、書くことは思っていたより多い。
カイルが横から指を一本立てた。
「あと先生が石をどけて、俺が頑張って持ってた」
「それも書きます」
「そこは少し、格好よく頼む」
「事実を書こうね」
ゼフィに言われ、カイルが笑った。
門へ向かう道を歩きながら、リシェは最初の一文を考え始めた。




