第百十九話 帰ってきた街
アルセインの門を抜けたところで、カイルは上着の襟を緩めた。
街道では頬が痛くなるほど風が冷たかったのに、街の中へ入ると人いきれに包まれる。荷車を避け、焼き栗を売る屋台の前を通り、肩の荷物を背負い直した。
六週間ぶりだった。
出た時にはまだ残っていた街路樹の葉が、すっかり落ちている。
まずはギルドへ寄り、報告を済ませる。報酬を受け取ると、アリサが次の書類を差し出した。
「こちら、以前お問い合わせのあった護衛です。まだ募集しています」
「ああ、あれか」
南へ向かう商隊だった。距離は長いが、その分、報酬も悪くない。行った先でも仕事は見つかるだろう。
「出発は?」
「十日後です。返答は三日以内に」
「分かった。考える」
控えを畳んで懐へ入れ、外へ出る。
冷えた体に温かいものを入れたくなった。ポルテへ向かいかけてから足を止め、研究施設の方へ曲がった。
*
研究室の扉は、少し開いていた。
「その葉はこちらへお願いします」
中からリシェの声がする。
「こっちも色は同じだけど」
「裏を見ると少し違うんです。あと、ここの厚さも」
卓を挟んで、若い職員と二人で葉を分けていた。
カイルは戸口へ寄りかかり、しばらく眺めた。リシェは相手の手元を確かめ、間違いがあると実物を並べて説明する。
「最初は私も分かりませんでした。迷ったものは残しておいて、あとでイネスさんと見ましょう」
そこでようやく、こちらへ顔を向けた。
「カイルさん!」
「ただいま。仕事中だった?」
「ここで終わりです。いつ戻ったんですか?」
「今さっき」
近づいてきた姿を見て、少し首を傾ける。
「……伸びた?」
「何がですか?」
「背」
「伸びました。袖が短くなって直してもらったんです」
差し出された腕を見る。確かに袖口には、布を足した跡があった。
その足元から、銀白の体が現れる。
「お、フィエルも元気か」
しゃがんで脇へ手を入れ、持ち上げようとしてやめた。
「お前もか」
フィエルが鼻を鳴らした。
以前なら、そのまま抱えて立てた。今も持てなくはないが、気軽に片腕へ収める大きさではない。
「胸とお尻の方を支えてあげてください」
「抱き方を教わる日が来るとはな」
言われたとおりに抱き上げると、長くなった後ろ脚が腕からはみ出した。フィエルは少しだけ収まっていたが、すぐに地面を見たので下ろしてやる。
窓辺から赤い鳥が飛んできた。
「君はあまり変わってないね」
部屋にほかの人がいるので、ロギは黙っていた。
それでも、妙に得意そうな顔でカイルの肩へ乗る。
「お前は相変わらずだな」
小さく言うと、耳の横で嘴が鳴った。
*
イネスは別の部屋で話し合いをしているらしかった。
リシェが片づけを済ませるのを待ち、一緒にポルテへ向かうことにした。
廊下の途中で、年配の研究員に呼び止められる。
「リシェ、来週の鉢を見る日だけど午前でよかったかな」
「はい。水をやる前に見たいです」
「分かった。ではそう伝えておく」
玄関では、荷物を抱えた職員が片手を上げた。
「この前の記録、分かりやすかったよ」
「ありがとうございます。冬の分も同じ形で書いておきます」
外へ出ると、今度は門の脇で働いていた庭師が声をかける。
「頼まれてた枝、取っておいたぞ」
「明日取りに来ます!」
カイルは三人目を見送り、隣を歩くリシェへ目を向けた。
「忙しいな」
「今日はたまたまです」
「そう?」
以前、一緒に歩いた時も顔見知りはいた。
ただ、今は挨拶だけで終わらない。次に何をするか、いつ会うか。リシェを待っている仕事が、いくつもある。
通りへ出てから、その間のことを聞いた。
育てている薬草が、ほかの場所でも冬を越せるか試していること。採った葉を薬師へ渡し、使い勝手について話を聞いたこと。フェリクスが訪ねてきたこと。
「兄様がラルフの絵を持ってきてくれたんです」
「兄様?」
リシェの足がわずかに止まる。
「……フェリクス兄様です」
「へえ。呼べるようになったんだ」
「はい」
照れた顔を見て、カイルはそれ以上からかわなかった。
代わりに、こちらの旅で会った、ひどく機嫌の悪い荷馬の話をした。持ち主以外が手綱を取ると、ぴたりと動かなくなる馬だった。
「リシェなら分かったりする?」
「普通の馬は分かりません」
「そっか。じゃあ、あれは無理だったか」
やっと喋れる場所へ来たロギが、肩で首を伸ばす。
「君が気に入らなかっただけじゃない?」
「俺以外にもやってたよ」
「本当?」
「本当だって」
リシェの笑い声が、横から聞こえた。
*
ポルテでは、ハンナに上着を脱ぐよう言われた。
「乾かしておくから。肩濡れてるわよ」
「途中で少し降られた」
「少しじゃないでしょう、その泥」
上着を取られ、いつもの席へ座る。
ほどなく、湯気の立つ煮込みとパンが運ばれてきた。
カイルが最初の一口を食べている間に、リリが奥から飛び出してくる。帰ってきたのかと聞かれ、土産はあるかと続いた。
「あるよ。ただ、まだ荷物の中」
「あとで見せて」
「了解」
リリはリシェへも用があったらしく、二人で卓の端へ何かを広げた。色のついた紙だった。窓に飾るものを作るらしい。
ニルスは食器を片づけながら、カイルの皿にパンを一つ足した。
「父さんが、足りないだろうって」
「よく分かってる」
温かいものを腹へ入れ、ようやく肩の力が抜けた。
食べ終わる頃にはリリも呼ばれ、紙を持って奥へ戻った。リシェは切りくずを集め、足元へ落ちた一片を拾う。
その向こうで、フィエルが大きく伸びをした。
「春には出るんだよな」
カイルが尋ねると、リシェは顔を上げた。
「はい。十三歳になったら、一度家に行って。それから先生たちと」
「ルメリアへ?」
「いずれは行きたいです。でも、その前にも見たいところがあります」
鞄から小さなノートが出てきた。
旅の道順かと思ったが、開いた頁には植物の名前と短い文章が並んでいた。
「これ北の湿地にしか生えないそうなんです。乾かすと形が変わってしまうので、生えているところを見たくて」
次の頁には、山地の草が描かれている。
「こっちは、同じ名前でも土地によって違うものを使うそうです。どうしてなのか、聞いてみたいです」
「寄り道、多そうだな」
「……はい。地図を見るたびに増えます」
少し困ったように笑った。
カイルは開かれたノートを眺めた。
以前なら、行きたい場所を聞いても、本で読んだ街の名前が返ってきた。それが今は、そこで何を見たいのか、誰に何を聞きたいのかまで書いてある。
「ここ、まだ途中なのに出ていいのか?」
研究室で聞いたやり取りが気になっていた。
リシェも、すぐには答えなかった。
「終わってからと思うと、ずっと出られないかもしれません」
ノートの端を指で撫でる。
「旅先から記録を送れないか相談しています。ここで続きを調べてもらって、私も向こうで見つけたことを知らせて」
「忙しそう」
「はい。でもやってみたいです」
カイルは水を飲んだ。
その間にも、リシェは思い出したように別の頁を開く。
「カイルさん、この辺りへ行ったことはありますか?」
「ある。夏だけど」
「暑いですか?」
「暑い。あと虫が多い」
「どんな虫ですか?」
聞き方があまりに真剣だったので、つい笑ってしまった。
「そこ詳しく聞きたいんだ?」
「はい。刺す虫なら、知っておきたいです」
カイルは椅子へ座り直し、思い出せるだけの話をした。
*
リシェを施設まで送ってから、荷物を取りにギルドへ戻った。
アリサに頼んでいた袋を受け取り、掲示板の前を通る。
短い依頼。長い護衛。別の街へ人を送る仕事。
いつもなら、空いている日数と報酬を見て、面白そうなものを選ぶ。街を離れることに、特別な理由はいらなかった。
カイルは懐から、昼にもらった控えを出した。
十日後に出発する、南行きの商隊。
終着地まで行けば、そのまま冬を南で過ごすのも悪くない。寒くないし、まだ通っていない道もある。
折り目を開き、出発の日付を確かめた。
「そちら、お返事はまだで大丈夫ですよ」
受付からアリサが声をかける。
「うん。分かってる」
紙を畳んだ。
すぐにはしまわず、指先で持ったまま、掲示板をもう一度見る。
街へ戻ったら会えると思っていた顔が、春にはここにいなくなる。
次に帰ってきた時、研究室を覗いても、あの窓辺に赤い鳥はいないかもしれない。
カイルは控えを懐へ戻した。
「先生、今日ギルドに来た?」
「昼過ぎに。何かお伝えしますか?」
「いや、自分で行く」
外へ出ると、さっきより空気が冷えていた。
宿へ向かう道と、ゼフィの家へ続く道が、角で分かれる。
カイルは一度立ち止まり、荷物を肩へ掛け直した。
まだ夕方だった。
家にいなければ、明日また来ればいい。
そう考えて、ゼフィの家の方へ歩き出した。




