初任者研修
とにかく教師は、忙しい。透は土日も含めて、仕事を進めた。そんな中、同期の教師たちとの飲み会が心の支えだった。そして・・・
初任者研修
その一年は、とにかく研修と出張が多かった。知らない学校に行き、知らない先生と挨拶を交わし、知らない教室で話を聞く。だが、その「知らない」が、どこか心地よくもあった。
ある日の研修でのことだった。透は校庭脇の駐車場に車を停め、鞄を肩にかけて歩き出した。少し早く着きすぎたかもしれない――そんなことを考えていると、一人の男性が近づいてきた。
「こちらになります」
落ち着いた声でそう言い、校舎の奥へと案内していく。どうやら教頭らしい。
「あの……こちらは?」
透が尋ねると、教頭は迷いなく答えた。
「はい、本日の研修講師の控室になります」
――講師?
一拍おいて、透は口を開いた。
「いえ、あの……私は新採用で、研修を受ける側なんですが」
一瞬の静寂。
「あっ……これは大変失礼しました」
教頭は少しだけ慌てた様子で頭を下げた。透は思わず笑いそうになった。
――まあ、そう見えるか。当時の新採用は、ほとんどが二十二歳。
透は三十三歳。どう考えても「新人感」は薄い。むしろ、間違えられなかったら、それはそれで少し寂しい気もした。この出来事は、後に飲み会で何度も使われる“鉄板ネタ”になった。
会津で出会った同期たちとは、すぐに打ち解けた。年齢差など、酒の前ではほとんど意味を持たない。研修が終われば、自然と飲み会になる。誰かが「今日どうする?」と言えば、もう決まりだ。
ある日の席で、誰かが言い出した。
「滝口さん、独身ですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、“滝口会”作りましょうよ」
「……なにそれ」
「滝口さんにいい人を見つけてもらうための会です!」
「情報交換とかしながら、定期的に飲みましょう!」
やけに盛り上がっている。透はグラスを傾けながら、冷静に思った。
――ただ飲みたいだけだろ。
「いや、それ君たちが飲みたいだけじゃないの?」
と言うと、
「違いますよ!ちゃんと目的あります!」
と即座に返ってくるあたりが、また怪しい。結局、その日から“滝口会”は発足した。もっとも、議題はほとんど「最近どう?」とか「この前の授業どうだった?」とか、いつもの延長で、肝心の“いい人情報”はほぼ出てこなかった。ただ、よく笑った。よく飲んで、よく話した。
――いい仲間だな。
透は、ふとそう思う。あの福島の十倍の高い倍率をくぐり抜けてきた者たちだ。それぞれに事情があり、努力があり、少しの運もある。そんな人間たちが、こうして一緒に笑っている。その輪の中に、自分がいることが、少しだけ誇らしかった。条件付きの一年は、ただの試験期間ではなかった。
むしろ――教師としてやっていくための「土台」は、こういう時間の中で、静かに出来上がっていくのかもしれない。透は、そう感じ始めていた。
十二月末――。雪がちらつく駅前の居酒屋には、新採用教師たちの少し疲れた笑顔が集まっていた。
「カンパーイ!」
ジョッキのぶつかる音が響く。
「みんな、今年ご苦労様でした」
音頭を取ったのは透だった。会津若松市内の同期七人の中では一番年上で、自然とまとめ役になっていた。
「ほんと、教師って大変ですね……」
誰かがため息混じりに言う。
「でも、やりがいはあるね」
「子どもはかわいいし」
「今日は飲んで嫌な事を忘れましょう!」
「おおー!」
店の奥の席に笑い声が広がった。透はジョッキを口に運びながら、ふと思った。
――みんな、頑張ったんだな。
ここにいる同期たちは、それぞれ研究指定校に勤めている。それぞれ得意分野がある。しかし、それは関係なしに配属されている。算数研究、音楽研究、体育研究……学校ごとに分野は違う。だが、どの学校も忙しさは同じだった。毎日の授業。教材研究。指導案。放課後の会議。
終わらない書類。気づけば、春より少し痩せている仲間もいた。
「お疲れ様でした」
隣の内川先生が、透のグラスにビールを注いだ。
「内川先生も頑張りましたね」
「いやあ、毎日ギリギリですよ」
二人は苦笑した。忘年会はいい。透はそう思った。教師という仕事は、真面目な人ほど抱え込む。だからこそ、こうしてガス抜きをしなければ、心が持たなくなる。自然と話題は、それぞれの学校の教育の話になった。
「滝口さんの学校、来年は県の指定校なんですよね?」
「ああ。市の指定校の次は県の指定校」
透は肩をすくめた。
「まあ、俺が決めたわけじゃないけど」
「あははは!」
「国語スペシャリストとして頑張ってください」
「そうなるといいですね」
誰かが冗談っぽく言うと、また笑いが起きた。その時、透が少し真面目な顔になった。
「教師は最初の三年で決まるって言われてるからな。みんな頑張ろう」
「はい。でも、何を頑張ればいいの?」
若い女性教師が首を傾げる。透は一瞬考え――、
「まあ、頑張ろう」
「雑っ!」
店中に笑いが起こった。
「そういえば研修で言われましたよね」
別の先生が思い出したように言った。
「破壊的ストレス発散法はやめましょうって」
「えっ、今それじゃないですか?」
「身体を壊すストレス発散ね。ほどほどなら飲み会は大丈夫。飲み過ぎがアウト」
「後、何でしたっけ?」
「えっ、忘れたの?」
透が笑う。
「確か……衝動買いとか」
「あー!」
「あと、突然仕事辞めたくなるやつ!」
「それ毎日です!」
また爆笑が起こった。
店の窓は白く曇り、外には静かに雪が降っていた。苦しい一年だった。失敗も叱責も、数え切れないほどあった。
それでも――。こうして笑い合える仲間がいる。透は思った。教師という仕事は大変だ。だが、一人ではない。困った時は相談すればいい。だから、また来年も頑張れる気がした。
「破壊的ストレス発散法か……」
透は、ジョッキのビールをゆっくり口に運びながら思った。
――よく考えられた言葉だ。深酒。飲み過ぎれば身体を壊す。賭け事。パチンコや競馬などギャンブルものに、のめり込めば、金を失う。買い物依存。カードを切り続け、気づけば支払いが滞り、借金だけが残る。
ストレスを発散するための行動が、逆に人生を壊していく。研修でそんな事まで教わる時代なのだ。それだけ教師という仕事は、心に負担がかかる。透は店内を見渡した。笑っている同期たち。冗談を言い合い、ビールを飲み、料理をつついている。
だが――。みんな、口に出さないだけで、それぞれ悩みを抱えているのだろう。授業が上手くいかない。保護者対応。モンスターペアレント。研究授業。学年の人間関係。終わらない仕事。
教師という仕事は、真面目な人ほど苦しくなる。透は思った。結局、自分なりの趣味や息抜きを見つけて、上手く付き合っていくしかないのだ。
運動でもいい。読書でもいい。旅行でもいい。心を壊さない方法を、自分で探すしかない。
「教師ほど、理不尽な要求をかわす技術が必要かもしれないな……」
透は苦笑しながら、小さく呟いた。子どもだけではない。保護者。管理職。教育委員会。地域。様々な立場の思いが学校には集まる。
もちろん大切な事も多い。だが時には、――それを今、担任一人で背負うのか?そう思うような事もある。真正面から全部受け止めていたら、きっと潰れてしまう。受け流す。距離を取る。抱え込み過ぎない。それも教師に必要な技術なのだろう。
「滝口さん、何、難しい顔してるんですか?」
同期の声に、透は我に返った。
「いや、教育について考えてた」
「忘年会でですか?」
「職業病だな」
「あははは!」
また笑いが広がる。その笑い声を聞きながら、透は思った。――まあ、今日は考えるのはやめるか。
窓の外では、静かに雪が降っていた。
初任者研修では、ストレス発散法を学んだ。破壊的ストレス発散法。確かに、これは知っているだけでも違うなと透は思った。




