会津で教員スタート
教員として正式採用となった透。その当時の採用倍率はどの地域でも約十倍、たくさん優秀な教員に混じって、透もまた、初任者研修がスタートした。そして・・・
四月の会津若松
まだ朝の空気には、少しだけ冬の名残があった。透は、職員室の窓から校庭を見つめていた。広い校庭には、新しいクラス分けに浮かれる子どもたちの声が響いている。この小学校は、市内でも有名なマンモス校だった。毎年二人ずつ新採用教師が配置される。今年、その一人が透だった。
三十三歳。遠回りをして、ようやくつかんだ教師という仕事。配属は二年生担任。まだ右も左も分からない中で、唯一心強かったのは、同じ新採用の同期がいたことだった。
「内川静香です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた女性は、まだどこか学生の雰囲気を残していた。四年生担任。年齢は二十二歳。しかも、東京の教員採用試験にも合格しているという話を、透は後から聞いた。
――すごい人だな。
東京と福島。二つ合格して、地元の福島を選んだ。教師としての力だけでなく、芯の強さも感じさせる女性だった。
「内川先生、よろしくお願いします」
透が少し緊張しながら声をかけると、静香は柔らかく笑った。
「滝口先生、お互い協力して頑張りましょう」
その笑顔に、透は少し肩の力が抜けた。職員室では、ベテラン教師たちが忙しそうに動き回っている。学年会、保護者対応、教材準備。次々と飛び交う言葉に、透は圧倒されっぱなしだった。
だが、ふと思った。
――同期って、いいな。
年齢は十一歳も離れている。歩んできた道も全く違う。それでも、「同じ新採用」というだけで、不思議な連帯感があった。これから先、きっと大変なことが山ほどある。失敗もするだろう。叱られることもある。それでも、この春。同じスタートラインに立つ仲間がいることが、透には少し嬉しかった。
条件付き採用――一年間を無事に終えて、ようやく正式採用となる。採用されたとはいえ、まだ「仮免許」のようなものだ、と透は思っていた。最初の職員会議で、透はこの学校の空気を知った。最初の職員会議、新年度独特の張りつめた空気。校長は職員を前にして、静かに職員たちを見渡した。
「我が校は、今年、市の指定で国語科の研究を進めます」
低く、よく通る声だった。
「いろいろ困難なことや、苦しくなることもあるでしょう」
職員たちは黙って聞いている。
「苦しくて当たり前です。教師は、人を導く仕事だからです」
そこで校長は一呼吸置いた。そして、はっきりと言った。
「嫌なら、教師を辞めてください。代わりはいくらでもいます」
透は思わず背筋を伸ばした。この時代、教員になりたい人はたくさんいた。
――厳しい……。
正論だった。確かに、教師という仕事は甘くない。子どもの人生に関わる以上、中途半端では済まされない。だが同時に、透は思った。
――教員も人間だろ……。
職員室に戻ってからも、その言葉は頭から離れなかった。国語の研究指定校。その言葉の重みを、透はすぐに知ることになる。
教材研究。指導案作成。放課後の学年会。研究授業の検討。夜の職員室は、いつも夜遅くまで蛍光灯だけが白く光っていた。提灯学校と呼ばれる典型の学校だった。
気づけば時計は九時。ひどい時には十時を回る。疲れ切った教師たちが、無言でパソコンに向かっていた。そんな毎日が続き、季節は秋へと変わっていった。
そしてある日。四年担任の内川静香が倒れた。
「内川先生、一週間安静だそうです」
職員室に重い空気が流れた。透は複雑な気持ちだった。春に「お互い頑張りましょう」と笑っていた同期。その彼女が、限界まで無理をしていたのだ。
十一月には研究発表会。
十二月には通知票提出。
学校全体が張りつめ、誰も余裕などなかった。それでも透は、何とか持ち堪えていた。ある日の放課後。コピー機の前で資料をそろえていると、先輩教師が声をかけてきた。
「滝口先生、根性ありますね」
「えっ、どうしてですか?」
「いや何、毎年、新採用でこの学校に来た先生は、一週間くらい体調崩して休むんですよ」
先輩は苦笑いした。
「それなのに、滝口先生は元気だから」
「……はあ。まあ、何とか頑張ってます」
そう答えながら、透は内心で思った。
――いや、それ自体おかしいだろ。
新採用が毎年倒れる職場。それを当たり前のように語る空気。透は、決して手を抜いていたわけではなかった。むしろ逆だった。どうすれば効率良く結果を出せるか。どうすれば無駄を減らせるか。常に考えていた。体調が悪い時は、無理をせず帰宅する。その代わり、土日に集中して準備する。全部を根性だけで乗り切ろうとはしなかった。後になって、透は昨年度までの新採用教師について聞いた。みな、一度は体調を崩して休んでいた。その時、透はふと思った。
――民間にいた時間は、無駄じゃなかったのかもしれない。
限界まで働けば、人は壊れる。気合いだけでは続かない。それはミラノで経験している。それを、教師になる前に知っていたことが、今の自分を支えている。
夜の職員室。静まり返った窓の外に、冷たい風が吹いていた。透はコーヒーを一口飲み、再び指導案に目を落とした。
校長なりの愛情
安藤校長が職員会議で静かに言った。
「学級費を納入していない家庭には、家庭訪問をしてください」
淡々とした口調だったが、有無を言わせぬ空気があった。透の学級にも、一人だけ未納の子どもがいた。二か月分が滞っている。しかも、その子の兄は五年生だったため、放課後、五年担任の大石先生と一緒に家庭訪問へ向かうことになった。夕暮れの住宅街を歩きながら、透は少し気が重かった。本当に、ここまで担任がやるのか――。古いアパートの前で立ち止まり、大石先生がインターホンを押した。
「ピンポーン」
しばらくして、奥から女性の声が聞こえた。
「はーい」
「小学校の滝口です。大石です」
扉が開き、母親が頭を下げた。透も慌てて頭を下げる。
「失礼します。実は、学級費がまだ納入されていないと聞きまして、お伺いさせていただきました」
母親は申し訳なさそうに、今の生活状況をぽつりぽつりと話した。仕事を掛け持ちしていること。子どもたちには不自由をさせたくないこと。でも、今月はどうしても厳しいこと。最後に、小さな声で言った。
「今週中には、何とか都合をつけます。よろしくお願いします」
「わかりました。ありがとうございます」
それ以上、透たちは責めるようなことは言わなかった。帰り道。夕暮れの空は薄紫色に染まっていた。透は隣を歩く大石先生に聞いた。
「あの……担任って、こんなことまでやるんですね」
大石先生は苦笑いした。
「ああ、あの校長ならやるね」
「なんか、担任が二人でお邪魔したら、びっくりしますよね」
「そうだね。でも、校長には行ってきたことを話しておくよ」
「よろしくお願いします」
透は、教師という仕事の重さを少し感じていた。数日後、その家庭から学級費は納入された。これで終わりかと思ったが、違った。
安藤校長は市役所に連絡を取り、その家庭が受けられる支援制度の手続きを進めていたのである。
「母子家庭で無理する必要はない」
校長はそう言った。
「支援が必要なら、その手続きを手伝うのも学校の役目だ。結果的に、その家庭を助けることになるからな」
透は、その言葉に驚いた。厳しい人だと思っていた。命令ばかりで、冷たい校長だと思っていた。だが、違った。厳しさの奥に、子どもと家庭を守ろうとする考えがあった。
なるほど……。こういう形で家庭を支えているのか。校長室へ向かう安藤校長の背中を見ながら、透は静かに思った。厳しいだけじゃない――。
教師は、その時代に合わせ学ぶ事が多い職業だ。教師としてスタートし、また一つ子どもへの支援を透は学んだ。




