夢の教壇に立つ
透は、3月10日地元に戻り、すぐに教育委員会に挨拶に行った。そして、その数日後、30歳を迎えた日、無職だった。家族で、静かに過ごしていると・・・
福島へ
一九九四年三月。誕生日を迎える前に、透は福島へ戻る決断をした。サンテリアの職場も快く快諾してくれて、仕事を辞めた。時代は不景気になっていた。
三十歳になる日。透は、無職になった。だが、不安よりも、これから始まる何かへの緊張の方が大きかった。
四月になれば新学期が始まる。教員の世界へ入るなら、地元にいる方が有利だ。そう読んでいた。福島へ戻ってからも、透はじっとしていなかった。教育事務所へ顔を出し、教育委員会にも足を運んだ。名前と顔を覚えてもらうために、もう一度、出向いた。とにかく待つだけでは、何も始まらない。
三十歳、無職。世間から見れば、遅すぎる出発だったかもしれない。だが透には、自分の人生が、ようやく本番を迎える気がしていた。透は、その三月で三十歳になった。無職のまま迎えた節目に、ふっと自分で笑ってしまう。
――まあ、やれることは全部やった。
ぽつりと漏れた独り言は、福島の実家の静けさに溶けていった。戻ってきてからの自分を思い返す。県庁の教育事務所にも足を運び、地元の教育委員会にも顔を出した。頭を下げ、自分の思いを伝え、教員になりたいと訴え続けた。採用試験も受けた。結果は不合格だったが、不思議と悔いはなかった。やるべきことはやった。あとは、待つしかない――そう思っていた。
誕生日の夜、八時。不意に、電話が鳴った。静かな部屋に響く着信音に、透は一瞬だけ手を止める。こんな時間に誰だろう、とわずかな違和感を覚えながら受話器を取った。
「はい、滝口です」
『あのー、教育委員会の伊藤と言います。滝口透さんのお宅でしょうか?』
「はい、私です」
一拍の間。それから、相手は少しだけ言葉を選ぶように続けた。
『実は、四月から非常勤講師をお願いしたいと思いまして、お電話させていただきました。いかがでしょうか?』
透は、一瞬言葉を失った。頭の中が、真っ白になる。
「えっ……あ、はい。よろしくお願いします」
気づけば、そう答えていた。自分でも驚くほど、あっさりと。
『ありがとうございます。それでは手続きを進めさせていただきます。夜分遅くに失礼いたしました』
「いえ、こちらこそ、お世話になります」
電話が切れたあとも、しばらく受話器を持ったまま立ち尽くしていた。静寂が戻る。だが、さっきまでとは違う静けさだった。胸の奥に、かすかな光が灯っているのを感じる。
――やってきたことは、間違いじゃなかった。
そう思えた。ただ――
「非常勤講師って……何だ?」
ぽつりと呟いた言葉は、少しだけ現実味を帯びていた。何も知らないまま掴んだ、小さなチャンス。それでも透は、その意味をまだ知らないまま、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
教員としてスタート
四月に入ったばかりの朝。透は、指定された日に、郊外の小さな小学校の駐車場へと車を滑り込ませた。エンジンを切ると、妙に静かだった。校舎の向こうから、かすかに子どもたちの声が聞こえる。
――もう、始まっている。
透は思った。「成田さん、自分もやっと教員としてのスタートラインに立つことができました。本当に夢は諦めなければ終わらない。いつの日か、自分も文科派遣で海外に行ける力をつけたいと思います。」
透は、p少しだけ遅れてきた自分の立場を、そこで初めて実感した。職員室の扉を開けると、空気が一変した。数人の教師たちが顔を上げ、透の方を見る。
「今日からお世話になります、滝口です」
言葉が少しだけ上ずる。それでも頭を下げると、「よろしくお願いします」といくつかの声が返ってきた。その一つひとつに、慌てて頭を下げ返す。だが、落ち着く暇はなかった。すでに始業式は始まっていた。
非常勤講師――年間百五日の勤務。無駄な勤務を作らないように組まれた、その制度。けれど透には、その意味すらまだよく分かっていなかった。
(だったら、四月一日から来たかったのに)
心の中で、ふとそんな思いがよぎる。スタートラインに立つのが、少し遅れている気がしてならなかった。だが、すぐにその考えを振り払う。お金はいらない。まず欲しいのは、教員としての力だ。
それだけだった。その日一日、透は周囲の動きを目で追い、耳で拾い、必死に空気を吸い込むように過ごした。何をすればいいのか、何が正しいのか、まだ輪郭はぼやけている。それでも、自分がここにいる意味を、必死に掴もうとしていた。
透の担当は、週三日。この小さな小学校で、図工と社会を受け持つことになっていた。教室の窓から差し込む春の光が、まだ慣れない机の上を照らしている。
ここから、自分の教師としての時間が始まる――透は、そう静かに感じていた。各学年一クラスずつ。校舎も校庭も、どこか手の届く大きさに収まっている、小さな小学校だった。透は、驚くほど早く子どもたちの中に溶け込んでいった。
教室に入れば、「滝口先生だ」と声が上がる。廊下ですれ違えば、名前を呼ばれる。どのクラスに行っても、まるで最初からそこにいたかのように迎えられた。授業は、決してうまくはなかった。展開もぎこちなく、間の取り方も分からない。自分でも、どこか不格好だと感じていた。
それでも――子どもたちは、真剣な眼差しで話を聞いてくれていた。その視線に、透は何度も救われた。
(この学校がスタートで、良かった)
ふと、そんな思いが胸に浮かぶ。何も分からない自分を、誰もが受け入れ、どこかで応援してくれている。そんな空気が、確かにここにはあった。
ある日、透は教頭に尋ねた。
「出張で先生がいないときは、どうしているんですか?」
「そのときは、私が入ることが多いかな」
穏やかな口調で、教頭はそう答えた。透は一瞬考え、それから口を開いた。
「だったら……明日、自分がそのクラス見てもいいですか?」
教頭は少し驚いたように眉を上げる。
「滝口先生、勤務日じゃないから無理しなくていいよ」
「いえ、自分はまだ力がないので……ボランティアで来てもいいですか?」
言葉は自然と出ていた。損得ではなく、ただ“やりたい”という気持ちだけだった。教頭は一瞬だけ考え、それから小さく頷いた。
「……わかった。じゃあ、給食くらいは何とかしよう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。そんなやり取りを重ねながら、透は少しずつ、この学校の仕組みや空気を理解していった。教えること。関わること。そして、学校という場所の中で自分がどう在るべきか。まだ形にはなっていない。それでも確かに、透は一歩ずつ前に進んでいた。
結果から言えば、非常勤講師として教師人生をスタートできたことは、透にとって大きな意味を持っていた。
時間があった。焦らず、自分の歩幅で前に進めるだけの余白があった。その余白の中で、透はもう一つの戦いを続けていた。教員免許一種――すなわち大学卒業に向けた道のりである。昼は学校で子どもたちと向き合い、夜は机に向かう。レポートは山のようにあったが、一つひとつ丁寧に崩していった。気がつけば、ほとんどすべてをクリアしていた。卒業論文も、特別なものではなかった。だが、透にとっては日々の積み重ねそのものだった。書く、見直す、また書く。
その繰り返しは、いつしか呼吸のように自然な“ルーティン”になっていた。
そして――四年。長かったようで、振り返ればあっという間だった時間の中で、透は単位を積み上げ続けた。その数、百四十七。大学の単位を全て取得のであった。数字はただの結果に過ぎない。だが、その一つひとつに、確かな足跡が刻まれていた。卒業式は、三月十日。
卒業式
その前日。通信教育で学んできた学生たちが、一堂に会する日がやってきた。丸川大学キャンパスの食堂。毎年、夏のスクーリングでお世話になった食堂だ。普段は賑やかなその場所も、この日ばかりはどこか静かな緊張に包まれていた。同じように働きながら学び続けてきた者たち。
年齢も、経歴も、背負ってきたものも違う。だが、“ここまで来た”という一点で、全員が繋がっていた。
透は、ゆっくりと周囲を見渡した。見知らぬ顔ばかりのはずなのに、不思議と他人には思えなかった。それぞれが、それぞれの場所で戦ってきた仲間のように感じられた。やがて、担当者が前に立ち、淡々と説明を始める。
「明日の卒業式の流れについてご説明します――」
その声は事務的で、特別な感情は込められていない。
だが、透の胸の奥には、じわりと何かが広がっていった。
(ああ、終わるんだな)
そう思ったとき、少しだけ寂しさが込み上げた。だが同時に、確かな実感もあった。ここまで、自分はやってきた。誰に言われたわけでもない。誰かに褒められるためでもない。ただ、自分で決めて、自分で歩いてきた道だ。説明は続いている。だが透の耳には、半分ほどしか入ってこなかった。視線を落とし、静かに息をつく。明日、自分は卒業する。その事実が、ゆっくりと、しかし確かに、胸の中に落ちていった。食堂のざわめきが、ふっと静まった。最後に壇上へ立ったのは、丸川大学文学部の教授、田中先生だった。落ち着いた佇まいのまま、ゆっくりと会場を見渡す。
「皆さん、ご卒業おめでとうございます。心から祝福いたします」
その一言は、静かだった。だが、不思議と胸の奥にまっすぐ届いた。田中先生は、少し間を置いてから続けた。
「実は、通信教育課程で入学して、卒業までたどり着ける割合は――多くありません。およそ四パーセントです。実は、たったの四パーセントなんです。」
ざわっ――小さなどよめきが広がった。
(4パーセント……?)
透は思わず顔を上げた。周囲の学生たちも、同じように驚いた表情を浮かべている。田中先生は、さらに言葉を重ねる。
「そして、四年間で卒業できる方は、約一パーセントです」
「おーっ……」
今度は、はっきりとした驚きの声が上がった。透は、息を飲んだ。
(1パーセント……)
なんと、その中に、自分がいる。百人入学して、卒業できるのは四人。その中でも、決められた四年間で終えられるのは、たったの一人。頭では理解していたつもりだった。だが、こうして数字として突きつけられると、その重みはまるで違った。ふと、大学のモットーが頭に浮かぶ。
――難きがゆえに尊い。
その言葉の意味が、今、はっきりと腑に落ちた気がした。田中先生は、柔らかな口調のまま続ける。
「卒業証書は、明日、壇上にて皆さん一人ひとりにお渡しします」
透は、また小さく驚いた。
(全員に……?)
大学の卒業式といえば、代表者だけが受け取り、あとは流れ作業のように進むものだと思っていた。だがここでは違う。今ここにいる全員に、直接、手渡される。それは、形式ではなく――
“ここまで来たこと”そのものへの敬意のように、透には思えた。
(ああ……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。この大学に入って良かった。素直に、そう思った。
通信教育。マイペースで進められる一方で、誰も何も言ってはくれない。やらなくても、咎められることはない。だからこそ、人は簡単に楽な方へ流れる。そして、続かなくなる。透はそれを途中で気づいた。透は、ほんの少しだけ、自分を客観的に見た。
(たまたま、だよな……)
ルーティンを作れたこと。時間を確保できたこと。経済的にも、大学入学前に、ミラノの仕事を全うして退職金があったから、どうにか続けられたこと。誰にもお金を無心していない。それが透の自慢であった。どれか一つ欠けても、ここにはいなかったかもしれない。
そして、もう一つ。ミラノで過ごした三年間――
あの時間を、途中で投げ出さず、やりきったこと。それがあったから、今がある。投げ出さなかった。やはり、それは大きいとつくづく思った。透は、静かに目を閉じた。長かった道のりが、ゆっくりと一本の線になって繋がっていく。
――そして翌日。
卒業式は、穏やかな空気の中で始まった。名前を呼ばれ、壇上へ上がる。
一歩一歩、確かめるように歩く。田中先生の前に立つ。差し出された卒業証書を、両手で受け取る。
「おめでとうございます」
その言葉に、透は小さく頭を下げた。紙の重さ以上のものが、そこにはあった。席に戻ると、ふと笑みがこぼれた。派手さはない。だが、確かに心に残る時間だった。透にとって――丸川大学卒業式は、忘れることのない、ひとつの節目となった。
透は、地元に戻っても、コツコツと単位を積み重ね、小学校一種免許に必要な単位を全て取得した。大学卒業に必要な単位を取り、東京で卒業式に出席した。そして、いよいよ、教員採用試験に本格的に望むことになる。さて、この時代の教員採用試験とは・・・




