再会
透は、高知に向かった。高知は、坂本龍馬の故郷である。ミラノで歴史を好きになった透は、どうしても一度、高知を訪れたかった。しかし、それだけではなかった。高知で再会した人は・・・
水谷さんと再会
高知の夕暮れは、どこかやわらかかった。潮の匂いを含んだ風が、見知らぬ町の通りを静かに流れていく。
透は約束の場所に、少し早く着いていた。桂浜を見た興奮も、まだ胸の奥に残っている。ここが坂本龍馬の故郷か。あの海を見て、あの男は何を思ったのだろう。そんなことを考えながら、透は腕時計に目を落とした。ちょうど約束の時間。通りの向こうから、一人の女性が手を振って歩いてくる。
「透さん、ようこそ高知へ」
その声を聞いた瞬間、透の表情がほどけた。
「ひさしぶりです。いいところですね、高知。南国って感じがします」
「東京より、ちょっと暖かいきね」
笑いながらそう言う姿は、初めて会ったあの時と何も変わっていなかった。自然体で、明るくて、どこか人を安心させる空気を持っている。
「ありがとう。詳しい話は、居酒屋でしましょう」
「はい」
二人は並んで歩き出した。夕暮れの商店街には、仕事帰りの人々の声と、店先から漂う焼き物の匂いが混ざっていた。透はふと思う。あのヴェローナの夜。同じ部屋に泊まりながら、何も起こらなかった夜。あの時は、少し拍子抜けもした。だが今ならわかる。何もなかったからこそ、終わらなかったのだ。あの静かな夜が、こうして高知の夕暮れへ続いている。人生には、進まないことで進む道もあるのかもしれない。透は隣を歩くちえ子の横顔を見て、そっと笑った。
二人は、路地裏にある小さな居酒屋へ入った。木の引き戸を開けると、店の奥から威勢のいい声が飛んでくる。潮の香りと、炭火の匂いが混ざっていた。
「高知やき、やっぱりカツオの刺身食べてみて」
ちえ子がそう言って、手際よく注文する。やがて皿いっぱいに盛られたカツオが運ばれてきた。艶のある身に、薬味がたっぷり添えられている。
「どう?」
透はひと口食べ、思わずうなった。
「うまい」
その瞬間、ちえ子は満足そうに笑った。その笑顔を見て、透はふと思う。あの時の笑顔だウィーンで初めて出会った時、見せた笑顔。人懐っこくて、どこか人を安心させる笑顔だった。二人は酒を飲みながら、その後の出来事を語り合った。ロンドンからインドまでの旅の話。ミラノでの仕事の話。道中で出会った人々の話。笑っているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。旅先でできた友達というのは、不思議なものだと透は思った。長く一緒にいたわけでもない。それなのに、久しぶりに会っても昨日の続きのように話せる。
やがて話題は、現実へと移っていった。
「でもね、最後はやっぱりお金よ」
ちえ子はグラスを置いて、苦笑した。
「旅には、どうしてもお金がかかるきね。貯めて行ったから借金はない。でも、貯金もなくなった」
透は黙ってうなずいた。
「それでも、全然後悔してないよ。だって、自分でそうしたかったんだもん」
その言葉には迷いがなかった。
「そうか……そうだね」
「うん。でも現実は、年金とか社会保険とか、いろいろ払わないかんろ。結局、また働かないとね」
「確かに」
ちえ子は少し肩をすくめ、それからまた笑った。
「また旅に行けるように頑張る。一度の人生でしょ。行きたいところに行かんと、損な気がする」
少し間を置いて、
「まあ、お金との相談やけどね」
そう言って、いつものようにニコッと笑った。透もつられて笑う。やっぱり、この人は魅力的だ。現実を知っていて、それでも夢を手放さない。人生を楽しむ。言葉にすれば簡単だが、それを本当にやれる人は少ない。オレも頑張ろう。そう心の中でつぶやきながら、透は高知を後にした。潮の香りと、カツオの味と、ちえ子の笑顔。そのすべてが、透の背中を静かに押していた。
バブル崩壊
不動産の価格は、高いところで止まっていた。それ以上は上がらない。けれど、下がりもしない。そんな空気が街を覆っていた。
「値段が動かないなら、今が買い時だ」
そう考える者も多かった。次に上がる前に手に入れておこう――誰もが、昨日より明日が高いと信じていた。去年より今年、その前の年より去年。土地の値段は、そうやって上がり続けてきたのだから無理もない。日本の土地は限られている。持っている者が勝つ。今のうちに買わなければ損をする。そんな言葉が、まるで常識のように語られていた。だが、現実は静かに崩れ始めていた。サンテリア赤坂店でも、それは数字となって表れていた。以前なら当然のように埋まっていた予約表に、空白が目立つ日が増えてきた。満席にならない夜が、珍しくなくなっていた。
鉄板焼きエリアを任されていた透は、予約台帳を見つめながら、時代の風向きが変わったことを感じていた。
「隅田店長、なんか予約少ないですね」
店長は帳場から顔を上げ、短くうなずいた。
「おう、そうだな。滝口、今日はもう上がっていいよ」
「えっ……はい。ありがとうございます」
透は頭を下げた。時給の高い透は、真っ先に調整の対象になる。経営者としては当然だった。売上が落ちれば、まず動かせるのは人件費だ。それは理解できた。理解できるからこそ、時代が変わったのだと実感した。けれど透には、別の時間も流れていた。通信教育で積み上げてきた単位は、短大卒相当まで届いていた。教員免許二種の取得も、もう目前だった。店の景色は曇り始めていた。だが透の中では、まだ次の扉が、静かに開こうとしていた。透は、自分を鼓舞する術を知っていた。
毎年十二月の中旬になると、グアムやサイパンへ旅に出た。冬休み直前の繁忙期を外せば、二十日過ぎの料金の三分の一ほどで海外へ行ける。しかもホテル付きだ。一年間、働きながら学び、予定通り単位を積み上げた自分への褒美だった。海を眺め、南国の風に吹かれながら、透はまた次の一年を思い描く。遊びではあったが、同時に再出発の儀式でもあった。そして、透を支えていたもう一つの力が、視覚化だった。部屋の壁に貼った単位表。取得した科目を一つずつ塗りつぶし、残りの数を目で確認する。
壁を見るたびに、教員免許が確実に近づいていることがわかった。努力が形になって見える。
それは透にとって、何よりの励みだった。やがて、その日が来た。
東京都から、小学校教員免許二種。それは一枚の紙だった。思っていたより、ずっと薄く、軽かった。これで人生が変わるのか。手にしても、まだ実感は湧かない。だが、透は立ち止まらなかった。とりあえず、これで教壇に立てる事は出来るようになった。
ついに、念願の小学校教員免許二種を取得できた。まだ、短大卒程度の二種であるが、それでも、これで小学校の教壇に立てる形にはなった。そこで、透が次に考えた行動は・・・




