バブル崩壊 その時、現場の人たちは・・・
透は、通信教育で丸川大学に入学した。その飲み会で同学年の桐木と知り合う。その生き方を知り、透は単位の取り方の考えを改める。本気とは、このような生き方と知る。そして・・・
引越し
帰国して、再びサンテリアで働き始めて数か月が過ぎたころだった。ある日の営業後、隅田店長が透を呼び止めた。
「滝口、あのさ。世田谷の男子寮に空きがあるけど、どうする? 入るか?」
「えっ、いいんですか?」
「まあ、空きがあるから、たぶん大丈夫だ」
透は即座に頭を下げた。
「はい。じゃあ、よろしくお願いします」
隅田店長にも考えがあったのだろう。寮に入れば透はしばらく店を辞めにくくなる。店としては人員を確保できる。だが透にとっても、悪い話ではなかった。世田谷の男子寮といっても、古びた共同住宅などではない。普通のマンションの一室で、駅にも近い。都内のどこへ出るにも便利だった。それでいて家賃は驚くほど安い。互いに得をする、まさに持ちつ持たれつの話だった。ウインウインの関係である。透は休みの日を使って、さっそく引っ越しを済ませた。荷物といっても多くはない。段ボールをいくつか運び入れれば、それで新しい生活は始まった。
そして、その日の夕方。二部屋あるうちの、もう一つの住人が帰ってきた。玄関の扉が開き、威勢のいい声が響く。
「お、今日から入った人ですか?話は、隅田さんから聞いています。」
振り向くと、日に焼けた若者が立っていた。
北海道出身、十九歳。名を、新見マサトという。赤坂店の近くにある、サンテリア経営の寿司屋で板前修業中の若者だった。透は、その人懐っこい笑顔を見て思った。
――どうやら、この寮生活も退屈はしなさそうだ。小柄な若者だった。だが、その身体つきには無駄がなく、立ち姿には鍛えられた者特有の芯があった。話をしてみると、人当たりもいい。高校までは北海道の強豪校で野球部に所属していたという。
「俺、滝口透と言います。今日からよろしく」
透がそう言うと、若者は背筋を伸ばして頭を下げた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
さすがに野球部で上下関係を叩き込まれてきた人間だった。受け答えははっきりしており、言葉遣いにも乱れがない。それ以上に透が感心したのは、その目の奥にある迷いのなさだった。
「実家は小樽で寿司屋をやってるんです。まあ、小さい店ですけど」
新見マサトは、少し照れくさそうに笑った。
「この東京で修業して、いつか北海道に戻って、ちゃんと板前として店を継ぎたいんです」
透は思わず感心した。十九歳にして、自分の進む道がもう見えている。それは簡単なようで、なかなかできることではない。
「すごいな。俺は教師を目指すことにしたんだ。まあ、周りからは考えが甘いって言われたけど、とにかくやってみようと思ってる」
すると新見は、迷いなくうなずいた。
「いいじゃないですか。お互い頑張りましょう」
その言葉に、透は少し救われた気がした。年下なのに、妙に頼もしさがある。まっすぐで、気持ちのいい男だった。
――どうやら、この新見マサトとは、うまが合いそうだ。透はそう思いながら、新しい寮生活の始まりを静かに感じていた。通信教育で教員免許を取る――。それは、自由と引き換えに、すべてを自分で律する道でもあった。
透は最初、町田市にある丸川大学へ何度も足を運んだ。履修相談の窓口で、単位の取り方を何度も確認するためだった。一つの科目ごとに課題レポートがあり、それを提出して初めて試験を受ける資格が得られる。試験は年に八回。全国の指定会場で行われ、レポートと試験、その両方に合格してようやく一単位。教員免許取得に必要な単位数は百四十八。数字だけ見ても、気の遠くなる道のりだった。しかも、レポートはすべて手書きである。
机に向かい、資料を探し、原稿用紙に何枚も文字を重ねる。書いて、消して、また書く。だが不思議なもので、続けているうちに字は整い、文章のまとめ方も覚え、必要な資料へたどり着く勘も身についていった。確かに、力はついていた。さらに夏季スクーリングでは大学へ通い、講義を受け、試験を受けて単位を取る。通信教育とはいえ、決して楽な道ではない。透は世田谷区立図書館の机に座り、一つ目のレポートを書き上げた。決められた日に試験会場へ向かい、緊張しながら答案用紙に向かった。
数週間後、合格通知が届いた。
一単位。たった一単位。けれど、確かな一歩だった。透は合格ハガキを見つめながら思った。
――自分のペースで進められる。
聞こえはいい。だが、それは甘えと紙一重ではないか。このまま「自分のペース」に逃げていたら、いつ卒業できるかわからない。理屈は理解した。しかし現実は、想像以上に厳しかった。
そんなある日、毎月大学から届く『丸川通信』という小冊子をめくっていると、各地の学生会合や交流会、飲み会の案内が載っていた。透の手が止まる。
「池袋 通大生の交流会」
一人で机に向かう日々。同じ道を歩く者たちは、どんな顔をしているのだろう。
少し迷ったあと、透は行くことを決めた。数日後の夜。池袋の雑踏へ、透は一人、向かっていた。飲み会の会場は、池袋の雑居ビルにある小さな居酒屋だった。畳の座敷に十数人ほどが集まり、年齢も職業もばらばらの男女が、同じ「通信教育生」という肩書きだけで向かい合っていた。
「平成何年度入学の、○○です。よろしくお願いします」
「埼玉在住です。仕事しながら頑張っています」
「来年の教育実習を目標にしています」
そんな自己紹介が順番に続く。
やがて酒が進むにつれ、話題は自然と勉強法へ移っていった。どこの図書館が静かだとか、レポートは何日で一本仕上げるとか、試験前は何を優先するべきか――。
「お互い頑張りましょう」
「また飲み会で情報交換しましょう」
そこは単なる酒席ではなかった。孤独になりがちな通信教育生たちの、励まし合いの場でもあった。その席で、透はひときわ印象に残る男と出会った。
桐木ススム。東京城北支部の支部長だという。落ち着いた口調で話す、細身の男だった。
派手さはない。だが、言葉の一つひとつに迷いがなかった。透は思い切って尋ねた。
「桐木さんは、どんなふうに単位を取っているんですか?」
桐木は箸を置き、少し笑った。
「ぼくは、将来牧師になりたいんです」
透は姿勢を正した。
「丸川大学はキリスト系の大学でしょ。そこに入った以上、中途半端な気持ちじゃ単位は取れないと思って、生活を変えました」
「生活を……変えた?」
「ええ。目標は卒業です。なら、そのために何をすべきか考えました」
静かな声だった。だが、その内容に透は耳を奪われた。
「まず、図書館のすぐ近くに引っ越しました」
「えっ」
「それから仕事を夜勤の道路工事に変えました。昼間は毎日図書館へ行って、レポートを書く生活です」
透は言葉を失った。
「とにかく、自分が毎日図書館へ行くしかない環境を作ったんです」
桐木はさらりと言った。
「もう一年になります。必要単位三十七単位は、今年分もう取りました」
透の手が止まる。三十七単位。自分は、ようやく一単位。同じ年齢。入学時期こそ多少違うが、目の前にはまるで別世界の人間がいた。透は痛いほど理解した。レポートを出さなければ、試験は受けられない。試験を受けなければ、単位は取れない。単位がなければ、卒業もない。
当たり前のことを、自分は本気で受け止めていなかったのかもしれない。
「それと」
桐木は焼酎のグラスを持ち上げた。
「ついでに支部長も引き受けたんです」
「えっ、どうしてですか?」
「支部長をしていると、なんか大学に受けがいいかな、と思って」
座はどっと笑いに包まれた。
「卒業するとき、“学生時代の思い出は?”って聞かれたら、支部長してました、って言えるでしょう」
「……なるほど」
「これ、絶対印象いいですよ」
透も思わず笑った。計算高いのか、真面目なのか。その両方なのだろう。桐木はグラスを透に向けた。
「滝口さん。あなたも大丈夫ですよ。同い年でしょう。お互い頑張りましょう」
「はい」
透は深くうなずいた。
その夜、池袋の雑踏を歩きながら、胸の奥が熱くなっていた。この飲み会に来てよかった。世の中には、本気で人生を変えようとしている人間がいる。ならば、自分も変われるはずだ。
透は夜風の中で、小さく拳を握った。
――まずは、生き方を整理しよう。
透は、自分の生き方を見直し始めた。幸い、仕事は夕方からだった。つまり、午後三時までは自分の時間になる。ならば、その時間をどう使うか。答えは、もう決まっていた。世田谷区立図書館が開く午前十時から午後三時まで、毎日そこで過ごす。そう決めた。ただ思うだけでは、人はすぐに流される。透は、それもわかっていた。図書館へ行った日には、ノートに正の字を書くことにした。一日行けば一本。五日で一文字。見える化である。誰も褒めてくれないなら、自分で自分を認められる形にすればいい。部屋の壁には、大きな画用紙を貼った。卒業までに必要な科目名、単位数、進捗状況――すべてを書き出した一覧表だった。レポートを提出したら、赤鉛筆でチェック。試験を受けたら、またチェック。合格通知が届けば、その横に取得単位を書き込む。とにかく、視覚化だった。見えない努力は、時に心を折る。だが、積み重ねが目に見えれば、人は前へ進める。
毎朝、図書館へ行く。正の字を書く。難しいことではない。これは続けられる。席を取り、ノートを開き、資料を並べる。もちろん、毎日うまくいくわけではない。何時間座っても、一行も書けない日もある。ページをめくるだけで終わる日もあった。それでも構わなかった。
行くこと自体が、もう勝ちだった。ルーティンができると、不思議なほど心が軽くなった。
「今日は書けるだろうか」
「やらなければならない」
そんな余計な重圧が消えていった。そして調子のいい日は、自分でも驚くほどレポートが進んだ。言葉が次々と浮かび、原稿用紙が埋まっていく。
図書館には資料が山ほどあった。本の探し方にも慣れ、必要な文献へ素早くたどり着けるようになった。レポートの構成も、自分なりの型ができてきた。
起承転結。導入があり、展開があり、まとめがある。学ぶことは、書くことでもあった。字を書くことで、自然と字も整うようになった。そして透は、もう一つ自分に約束をした。毎年、十二月までに今年の目標単位を達成できたら、海外旅行へ行く。誰に言われたわけでもない。自分だけの、ご褒美だった。
あの池袋の飲み会で出会った仲間たち。彼らの生き方、工夫、覚悟。それらが透の背中を押してくれていた。世の中では、バブル景気の崩壊が始まっていた。浮かれていた時代が、静かに形を変えようとしていた。そんな中、透だけは黙々と机に向かっていた。
誰にも気づかれない場所で、自分の未来を、一枚ずつ書き上げるように。視覚化を続けるうちに、透はある変化に気づいた。壁に貼った単位表。赤鉛筆で増えていくチェック印。数字として積み上がっていく成果。それを眺めているうちに、一つの考えが頭に浮かんだ。
――マイペース。
その言葉を、透はこれまで都合よく使っていたのかもしれない。焦らず、無理せず、自分の速度で進む。聞こえはいい。だが、その実態は、ただ遅れている自分への言い訳でもあった。透は机の前で、小さく笑った。
「違うな」
自分のペースとは、ゆっくり進むことではない。自分に合ったやり方で、最短で進むことだ。
ならば――。半年で一年分の単位を取る。それが、俺のマイペースだ。逆転の発想だった。最初に出遅れたなら、あとから取り返せばいい。人と同じ速度で進む必要はない。倍の速度で進めばいいだけだ。透は、その日から実践した。午前十時に世田谷区立図書館へ入る。席を確保し、資料を積み、レポートを書く。提出し、試験を受け、また次の科目へ向かう。
半年もすると、取りこぼす科目はごくわずかになった。残ったものは、次の半年で拾えばいい。気がつけば、一年後。透は前年に取り切れなかった単位をほぼ回収していた。後期入学だったため、四月になれば新しい年度の提出課題が届く。多くの学生がその切り替わりに戸惑う中、透は動じなかった。やることは同じだ。一つずつ終わらせるだけだった。そんな頃、東京城北支部の集まりで、桐木ススムが言った。
「そろそろ、支部長を代わろうと思うんです」
自然な流れで、その役目は透へ引き継がれることになった。桐木は冗談めかして言った。
「ほら、支部長って大学受けがいいでしょう」
透は笑った。
「自分は、そういう理由じゃありませんよ」
「じゃあ、なんです?」
「次にやる人がいないなら、自分がやります。それだけです」
桐木は少しだけ目を細め、うなずいた。その言葉には、透なりの感謝が込められていた。あの池袋の飲み会で出会わなければ、今の自分はいなかったかもしれない。人は、人に背中を押されて変わることがある。そして時代もまた、静かに姿を変え始めていた。街にはまだ華やかさが残っていた。だが、どこか空気が違う。高く積み上がったものが、わずかに軋む音がする。
バブル経済は、いよいよ怪しくなってきていた。
――一九九二年。浮かれた時代の終わりとともに、透の本当の勝負が始まろうとしていた。
たまたま、透は二十代前半に海外で充実した生活を四年間していた。そのため、世間で言う遊びたいと言う気持ちは、そんなになかった。本人の中では、「今は、一生の内で、勉強を頑張る時期」と決めつけ、自分ができることをコツコツしようと決めた時期でもあった。それが、人との比較をしない結果になり・・・




