1991年夏 イタリア・ミラノからの帰国
ヨーロッパで出会った日本人学校の成田さんに刺激を受け、主人公の滝口は日本に帰国し、27歳から小学校教師になることを目指す。周りからは考えが甘いと指摘されるが、・・・
滝口透は、海を見ていた。波が、静かに寄せては返す。その音だけが、やけに耳に残った。
風が吹く。少しだけ、潮の匂いがした。
何かを考えていたはずなのに、それが何だったのか、うまく思い出せない。ただ、胸の奥に、重たいものが残っている。気づくと、頬に触れるものがあった。透は、拭わなかった。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。それだけで、よかった。
日本へ帰国
一九九一年 六月
ミラノの空港を飛び立った飛行機の窓から、透は静かに街を見下ろしていた。石畳の道、歴史ある建物、サンテリアのお店。慣れない異国で過ごした日々が、ゆっくりと遠ざかっていく。長かったようで、あっという間だった。日本へ帰れば、また新しい生活が始まる。
だが、それは安定した道ではない。教師になるためには、通信大学で単位を取り、教育実習を受け、採用試験にも合格しなければならない。年齢は二十七歳。周囲から見れば、決して早い挑戦ではなかった。それでも透の胸には、不思議な高揚感があった。
――オレも、いつの日か。
透は雲の向こうを見つめた。
――成田さんみたいに、日本人学校で働ける教師になりたい。
スイスで出会った成田。海外で日本の子どもたちを支え、堂々と働くその姿は、透の心に深く刻まれていた。もちろん、今の自分には何もない。教員免許の単位すら、一つも取得していない。手続きもこれから。貯金だって十分ではない。
だが、夢だけは誰にも負けないくらい大きかった。飛行機のエンジン音が静かに響く中、透は小さく拳を握った。二十七歳。遅いと言われても構わない。遠回りでもいい。ここから始まるのだ。ミラノで夢を見つけた一人の青年が、教師を目指して歩き始める。それは、透――二十七歳からの挑戦の物語であった。
ミラノから帰った透は、まず、サンテリアへ挨拶に向かった。ヨーロッパから帰国した透が、まず向かったのは赤坂店のサンテリアだった。異国の空気をまとったまま、日本の街に立つと、どこか景色が小さく見える。だが、その店の扉を前にすると、不思議と胸の奥が熱くなった。フロントには、店長の隅田が立っていた。透の姿を見つけるなり、口元をゆるめる。
「おう、滝口。お疲れさん、ヨーロッパ」
「このたびは、いろいろありがとうございました」
透が深く頭を下げると、隅田は豪快に笑った。
「頑張ったな、滝口」
「はい……実は今回、向こうで教師という仕事に興味を持ちまして。これからは、そちらを目指そうと思っています」
隅田は少し驚いたように眉を上げ、それから静かにうなずいた。
「そうか。じゃあ、メルボルン店の話は、もういいのか?」
「はい。本当にありがとうございました」
隅田は腕を組み、しばらく透を見つめていた。やがて、ぶっきらぼうな口調で言った。
「仕事はこれからどうするんだ。もし困ったら、いつでもここに声をかけていいぞ」
その言葉は、短いながらも温かかった。透は胸の奥に込み上げるものを感じながら、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます。少し、考えてみます」
その後、海外レストラン部門の平沢にも挨拶を済ませ、透は店を後にした。外へ出ると、赤坂の空には薄い春の光が広がっていた。行き交う人々の足取りは速く、街は何事もなかったように動いている。透は立ち止まり、深く息を吸った。
――さて、本当のフリーになったな。
組織にも、肩書にも、まだ縛られていない。未来は白紙で、不安もある。だが、その白さこそが今の自分にはまぶしかった。
――まずは、住むところを見つけるか。
そうつぶやくと、透は歩き出した。新しい人生の最初の一歩を、不動産屋の看板へ向かって。
時代は、まだバブル経済の熱気の中にあった。街には活気があふれ、人々は明日も今日より豊かになると信じていた。この先に崩壊が待っているなど、誰ひとり思ってはいない。もちろん、透もその一人だった。
ヨーロッパ勤務三年を満了し、日本へ戻った透の手元には、わずかながら退職金が残っていた。それは遊ぶための金ではない。透は最初から、その金を大学進学の資金にすると決めていた。異国での華やかな生活を知ったからこそ、透には現実も見えていた。あの暮らしを基準にしていては、この先やっていけない。夢を追うなら、まず足元を固めなければならない。そう考えた透は、東京での部屋探しも身の丈に合わせた。世田谷区で見つけた古びた安いアパート。決して広くはない。だが、これから始まる新しい人生には、十分すぎる城だった。
荷物を置くと、透はさっそく大学へ向かった。以前、成田から教えてもらっていた、東京・町田市にある大学である。広いキャンパスに足を踏み入れた瞬間、透の胸は高鳴った。学生たちの姿、掲示板の張り紙、教室へ急ぐ足音。そこには、自分がまだ知らない未来の匂いがあった。
窓口で、少し緊張しながら声をかける。
「あの……通信教育で大学に入りたいのですが、どんな手続きをしたらよいか教えてください」
職員は慣れた様子でうなずき、必要な資料とパンフレットを手渡した。
「こちらをご確認ください」
透は両手でそれを受け取った。たったそれだけのことなのに、不思議と胸が熱くなった。教師になる道の、最初の一枚。その紙を手にした瞬間、透はもう半分、教師になったような気がしていた。
――よーし、頑張るぞ。
心の中で叫ぶ。二十七歳。遅いスタートかもしれない。だが、遅すぎることはないと信じたかった。だが、このときの透はまだ知らない。夢へ向かう道のりに、想像を超える困難が待ち受けていることを。それでも彼は、まっすぐ前だけを見て歩き始めていた。大学へ入学するには、高校の卒業証明書が必要だった。そのため透は、三年ぶりに地元・福島へ帰ることになった。
福島へ帰郷
久しぶりに降り立った故郷の空気は、どこか懐かしく、少しだけ照れくさかった。駅前の景色も、通い慣れた道も、大きくは変わっていない。だが、自分だけが遠くへ行き、また戻ってきたような気がした。実家の戸を開ける。
「ただいま」
奥から、母の声が返ってくる。
「あっ、透」
「母ちゃん、どうも。帰ってきたよ」
母は心から嬉しそうに笑った。その顔を見て、透は少し胸が熱くなった。
「今回はどうしたんだい?」
「おれ、教師を目指すことにした」
「えっ」
母の目が丸くなる。
「そのために、必要な書類を取りに帰ってきたんだ」
「何が必要なんだい」
「高校の卒業証明書」
「そうか……とにかく、人様に迷惑をかけないで生きていくんだよ」
「うん」
それが母らしい言葉だった。多くは語らず、だが生きるうえで一番大切なことだけを伝える。家族も皆、透の帰郷と新しい挑戦を喜んでくれた。次男坊だった透には、母が中学の頃から、さりげなく言い聞かせてきたことがある。
――社会人になったら、自由に生きていっていいんだよ。
当時は意味も深く考えなかった。だが今になって思えば、それは次男として家に縛られず、自分の人生を切り拓けという、母なりの愛情だったのだろう。その言葉もあって、透は高校を卒業したら家を出るものだと自然に思っていた。自立すること。自分の足で生きること。その基礎を教えてくれたのは、間違いなく家族だった。翌日、透は十年ぶりに母校の高校を訪れた。少し古びた校舎。懐かしい廊下の匂い。かつての自分がここにいたことが、不思議に思えた。
必要書類を受け取ると、透はすぐ東京へ戻り、大学の手続きを進めた。事務室の職員が説明する。
「今からですと、後期入学になりますけど、よろしいですか?」
「それは、なんですか?」
「十月入学になります」
透は一瞬きょとんとしたが、すぐにうなずいた。教師になれるなら、そんなことはどうでもいい。迷わず手続きを済ませた。後日、世田谷のアパートには大量の教科書が届いた。積み上がった本の山を見て、透は思わず笑った。
――ここから、やっとスタート地点だな。
ようやく夢への入口に立てた。透は素直に嬉しかった。その手続きがひと段落した頃、透はサンテリア赤坂店へ顔を出した。
「おう、久しぶりだな」
隅田店長が変わらぬ調子で迎える。
「実はな、スタッフが足りない。良かったら、ここで働かないか?」
「いや……大学生なんで、一日全部は無理です」
「忙しいのは夕方からだ。夕方からでどうだ」
透は少し考えた。
「うーん……」
「時給は千五百円出す」
当時としては破格だった。さすが、まだバブルの熱気が残る時代である。透は苦笑しながら答えた。
「平日の夕方五時からでいいなら……」
「それでいい」
「分かりました。じゃあ、よろしくお願いします。来週から来ます」
こうして、透は学生でありながら働く道も手に入れた。行動すれば、何かが動く。立ち止まっていては、何も始まらない。透は少しずつ、自分の人生を自分の手で組み立て始めていた。ミラノから帰国した透は、世話になった人々への挨拶回りをしていた。その中でも、どうしても顔を出しておきたい相手がいた。吉成さんである。
久しぶりに会った吉成さんは、以前と変わらぬ大きな声で透を迎えた。
「おっ、滝口。帰ってきたか」
「どうも、お久しぶりです」
「せっかくだ。飲みに行こう」
その一言で話は決まり、二人は恵比寿の居酒屋へ向かった。暖簾をくぐると、仕事帰りの客たちの笑い声と、焼き鳥の煙が店内に満ちていた。生ビールが運ばれてくると、吉成さんは早速、身を乗り出した。
「どうだった、ミラノは?」
透はグラスを置き、少し笑った。
「はい。全く知らない世界ばかりで、まあ、びっくりしました」
「そうか。ヨーロッパは俺も知らん。でも、一度は行ってみたいな」
「ぜひ、いつの日か行ってください。自分はベネチアが好きになりました。三年間で何回も一人で行きました」
「そうか。わかった。機会があれば俺も行く」
吉成さんは嬉しそうにうなずき、それから急に真顔になった。
「ところで、今後どうするんだ?」
透は迷わず答えた。
「教師を目指すことにしました」
「えーーーっ!」
店中に響きそうな声だった。隣の席の客まで振り向く。
「そんなにびっくりしないでくださいよ」
「びっくりしないわけあるか。お前、高卒だろ」
「はい。だから、この前、大学生になりました」
「えーっ!」
二度目の驚きは、先ほどより少し大きかった。
「通信教育ですが、大学生です」
吉成さんは額に手を当て、呆れたように笑った。
「相変わらず動きが早いな。本気か?」
「そのつもりです。ダメなら福島に帰れば済むことです」
「そりゃそうだが……お前はいつも人を驚かせるな」
透も笑った。
「まだ、なってないので驚かなくていいです。なったら驚いてください」
「そうだな。じゃあ、びっくりやめる」
「なんですか、それ」
二人は声を上げて笑った。
しばらくして、透はふと思い出したように尋ねた。
「吉成さん、最近はどうなんですか?」
「あっ、俺か」
吉成さんは焼き鳥を一本取り、少し照れたように言った。
「今な、付き人してんだ。芸能人の」
「はっ?」
「小松タダオ のな」
「あの、お笑いの人ですか」
「そう」
「すごいですね」
「別に付き人だから、すごくない」
「そうですね」
透が真顔で返すと、吉成さんは吹き出した。
「でも、いろいろ勉強になる。芸能界のこと、少しだけどな」
「まあ、自分たちには知らない世界ですね。頑張ってください」
「おう。滝口も頑張れよ」
「はい」
店を出るころには、恵比寿の夜風が少し冷たくなっていた。透は歩きながら思った。みんな、それぞれの場所で懸命に生きている。形は違っても、自分の持ち場で戦っている。そして、いつ会っても変わらず迎えてくれる吉成さんの存在が、ありがたかった。東京の夜景が、どこか優しく滲んで見えた。
まずは、通信教育で大学に入学することができた。ここから、また、いろんな人との出会いが、滝口を成長させることになる。




