副読本作成
想像以上に、在外派遣での仕事は、とにかく体と頭を使った。また、教職員との協力、信頼の大切さをより強く思った。そして、派遣の三年目、また、新たなミッションが・・・
副読本作成
上海日本人学校では、一年目は三年生担任。二年目は四年生担任。慣れない海外生活の中で必死に走り続け、気がつけば三年目の春を迎えていた。その年、透は一年生担任となった。ようやく新しい学年にも少し慣れ始めた頃だった。ある日の放課後。
「滝口先生、ちょっといいですか?」
職員室で声を掛けてきたのは校長だった。
「あ、はい」
透は慌てて立ち上がる。校長の後ろを歩きながら、(何だろう……)と少し緊張していた。校長室に入ると、校長はソファに腰を下ろし、静かに切り出した。
「実はですね、この新しい上海日本人学校には、社会科の副読本がまだないんです」
「副読本……ですか?」
「ええ。特に小学校中学年で使う、“上海を学ぶ教材”ですね。今年、正式に作ろうと思っています」
校長は机の上の資料を軽く叩いた。
「昨年度まで、小学校の中学年を、担当していましたよね?」
「あ、はい」
「ですから、滝口先生が、中心となって進めてもらえませんか?」
透の動きが、一瞬止まった。
「……えっ」
思わず声が漏れる。副読本。それは単なるプリント集ではない。上海という巨大都市をどう子どもたちに理解させるのか。歴史、産業、交通、生活、日本との関わり――。学校全体で長く使われる教材になる。つまり、責任も大きい。
透は頭の中で、“忙しい”という言葉が真っ先に浮かんだ。
一年生担任だけでも手一杯である。そこに副読本作成まで加わる。だが、校長の目は真剣だった。期待している。その視線が伝わってきた。
透は小さく息を吸った。断るわけにはいかない。それが、透の考え方である。
「……わかりました。」
そう答えると、校長は静かに笑った。
「ありがとうございます。滝口先生なら、きっと良いものができます」
校長室を出たあと、透は職員室へ戻る前に、しばらく廊下の窓から上海の街を眺めていた。夕暮れの高層ビル群。絶えず動き続ける車の列。
――海外で教師をするというのは、こういうことなのかもしれない。
授業をするだけではない。学校を、一から作っていく仕事なのだ。透は静かに窓から離れると、自分の机へ向かって歩き出した。
副読本作成
在外派遣教師の間では、よく言われる言葉があった。
――最初の三か月は、お客様。――そこから戦力。――そして最後の三年目は、学校に何かを残して帰る。
透も、その言葉を何度も先輩教師から聞いていた。上海に来たばかりの頃は、右も左もわからなかった。生活、授業、保護者対応、現地スタッフとの連携。ただ毎日を必死にこなしていた。だが三年目になった今、ようやく周囲が見えるようになっていた。だからこそ、透は決めた。
――この副読本を、上海日本人学校への置き土産にしよう。
新しい学校だからこそ、完璧ではなくてもいい。荒削りでも、まず形にすることが大事だ。次に来る教師たちが、それを少しずつ育てていけばいい。
透は完成時期を逆算した。十一月三十日完成。十二月には全校へ配布。そのためには、夏休み終了時点で原稿をほぼ揃えなければならない。
しかし、一人で作れる仕事量ではなかった。透は各学年主任へ相談し、それぞれの学年から担当者を一人ずつ出してもらった。
四月末。放課後の会議室に、小学部と中学部を合わせた九人の教師たちが集まった。仕事を終えたばかりの疲れた表情。それでも、皆どこか興味深そうに資料を見ていた。透は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お忙しい中、副読本作成担当になっていただき、ありがとうございます」
会議室が静かになる。
「校長先生から、今年度中に完成させてほしいという要望があります」
透はホワイトボードに貼った工程表を指差した。
「勝手ながら、全体スケジュールと役割分担案を作成しました」
教師たちが資料をめくる音が広がる。
「三年生の指導内容担当と、四年生の指導内容担当を、それぞれ四人ずつ決めたいと思います」
透は続けた。
「夏休み明けまでに、原稿、写真、必要データを校内の副読本フォルダへ入れてください。その後、こちらで編集を進めます」
少し間が空いた。負担は決して軽くない。だが、その場にいた教師たちは顔を見合わせながらも、誰一人として嫌な顔をしなかった。流石に派遣された教師たちだ。そう思った。
「スーパーの単元、面白そうですね」
「上海の交通網も入れたいですね」
「学校の歴史ページ、中学部でも協力できますよ」
そんな声が自然と出てくる。透は、その様子を見ながら思った。
――みんな、必要だと思っていたんだな。
上海日本人学校には、まだ“学校の形”が完成していない部分が多かった。だからこそ、自分たちで作る。そんな空気があった。透は心の中で決めていた。とにかく、できるだけ、使えるものにしよう。細かい編集や調整は、自分が最後にやればいい。
「皆さん、よろしくお願いします」
透が頭を下げると、会議室の空気が少し前向きに動いた。
そこから、副読本づくりが本格的に始まった。三年生の単元では、上海のスーパーマーケット調査。日本の商品と現地商品の比較。巨大ショッピングモールの流通。
四年生では、上海日本人学校の歴史。開校当時の様子。急増する日本人駐在員と学校拡大の流れ。それぞれの教師たちが、自分の得意分野を活かしながら動き始めた。
放課後、職員室では、
「この写真使えますか?」
「地下鉄路線図、新しく変わってますね」
「ここのデータ、中国語しかないな……」
そんな会話が飛び交うようになった。気づけば、副読本づくりは、学校全体の仕事になっていた。副読本作成は、夏を過ぎる頃には学校全体を巻き込む仕事になっていた。透は、内容だけでは足りないと思っていた。
――子どもたちが「開きたくなる」副読本にしたい。そのためには、見やすさやイラストも重要だった。透は図工担当の教師たちのところへ、一人ずつ頭を下げて回った。
「忙しいところ申し訳ありません。副読本のイラストをお願いできませんか?」
突然の依頼だったが、若手の図工教師は笑顔で答えた。
「いいですよ。せっかく作るなら、子どもたちが楽しめるものにしたいですね」
その言葉通りだった。上海の高層ビル。地下鉄。スーパーの売り場。市場の風景。黄浦江を走る船。次々と、オリジナルのイラストが仕上がっていった。気づけば四十点近い数になっていた。透は、その完成度に驚いた。みんな本気だ。
「すごいですね……」
「いやあ、こういうの、結構好きなんですよ」
若手教師は照れくさそうに笑った。透はすぐに担当者たちへ連絡した。
「イラストデータを共有フォルダへ入れます。使えるものは、どんどん活用してください」
内容が良くても、読みにくければ子どもたちは興味を持たない。見栄えも、大事だった。放課後の職員室では、原稿の確認やレイアウト調整が続いた。
「この写真、もう少し明るくできますか?」
「タイトル位置、こっちの方が見やすいですね」
「三年生には、この漢字まだ難しいかな」
そんな細かな修正が、毎日のように繰り返された。そして――十月。ついに、副読本は完成した。透は印刷前の最終データを見ながら、小さく息を吐いた。
「……できたな」
もちろん、まだ終わりではない。最後に待っているのは、誤字脱字の確認だった。これが一番地味で、一番怖い。教師たちは赤ペンを片手に、一ページずつ確認していった。その一方で、透は印刷業者探しも並行して進めていた。必要部数は五千部。かなり大きな印刷になる。透は数社へ見積もりを依頼していた。
ある日の午後。事務室から声が掛かった。
「滝口先生、見積もり届いていますよ」
声を掛けてくれたのは、事務室の安藤だった。
「あっ、ありがとうございます。お手数おかけしています」
透は受け取った封筒を机に広げた。安藤が苦笑いしながら言った。
「いやあ……数社にお願いして正解でしたね」
「えっ?」
「こんなに金額違うとは、びっくりです」
透は見積書を見比べた。そして思わず目を見開く。
「……ほんとですね」
同じ五千部印刷でも、会社によって金額が大きく違っていた。二倍の違いもあった。海外の学校運営では、こういう現実的な感覚も必要なのだと、透は改めて感じた。授業だけではない。教材づくり。予算管理。業者とのやり取り。学校を動かすというのは、こういうことなのだ。
透は見積書を静かに揃えながら、ふと思った。
――教師になった頃は、こんな仕事をするなんて思わなかったな。
だが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、自分たちの学校を、自分たちで作っている気がしていた。副読本づくりの最後の仕上げは、透自身が担当した。
表紙。タイトル。目次。そして全体のレイアウト。子どもたちが手に取りやすいように。教師たちが授業で使いやすいように。
ページを何度も並べ替え、写真の位置を調整し、文字の大きさを変える。深夜近くまで学校に残る日もあった。それでも、不思議と苦ではなかった。少しずつ、一冊の本になっていく。その実感があった。印刷業者も最終的に決まり、正式な予算が出た時、透は思わず驚いた。
「……予定の半分くらいで済んでる」
後になって、もう一つの小学校では、ほぼ倍の金額で同じような副読本を発注していたことを知った。
なるほど。透は心の中で思った。――その学校を基準に予算を組んでいたんだな。だから最初の予算案は高かったのか。数社へ見積もりを出したことが結果的に大きかった。教師という仕事は、授業だけではない。そんなことを、透は上海で何度も学んでいた。
そして十二月。完成した副読本が、ついに学校へ納品された。段ボールに入った大量の冊子が職員室へ運び込まれる。透は、そのうちの一冊を静かに手に取った。
表紙をなでる。表紙の色も透が決めた。紙の匂い。ようやく、本当に完成したのだと実感した。その日の午後。透は完成した副読本を持って、校長室へ向かった。
「失礼します」
校長は冊子を見ると、ゆっくり笑顔を見せた。
「頑張りましたね、滝口先生」
「……ありがとうございます」
校長はページをめくりながら言った。
「本当に十二月に間に合って良かったです。今年度は三年生以上の児童生徒に配布します」
さらに続けた。
「来年度からは、新三年生へ配布して、数年間使わせていただきます」
透は静かに頭を下げた。
「皆さんの協力があってできたものです」
それは本心だった。一人では絶対にできなかった。
「今後、改訂しながら、もっと良い副読本になればいいなと思います」
透は少し照れながら笑った。
「こんなチャンスをもらって、ありがとうございました」
校長は何も言わず、静かにうなずいた。忙しい一年だった。授業。学級経営。行事。そして副読本作成。目が回るような毎日だった。それでも、こうして形になった。それが、何より嬉しかった。
その日の夜。担当者になった教師たちは、みんなで上海の街へ繰り出した。ネオンに照らされた繁華街。年末へ向かう街の賑わい。円卓を囲み、紹興酒やビールを片手に笑い合う。
「いやあ、終わりましたね」
「滝口さん、本当にお疲れさまでした」
「最初、絶対終わらないと思ってましたよ」
そんな声が飛び交う。誰の顔にも、やり切った表情があった。上海の冬は冷えていたが、その夜の空気はどこか温かかった。透はグラスを持ちながら、窓の外の上海の夜景を眺めた。
――何かを、この学校に残せただろうか。ふと、三年前に聞いた言葉を思い出す。最後の年は、学校に何かを置いて帰る。派手なものではない。だが、この副読本は、きっとこれからも子どもたちに使われていく。そう思うと、胸の奥に小さな達成感が広がった。
そして、まもなく――。透は、日本へ帰国する。
新しい事への挑戦は、人生を豊かにしていく。透は、悩みながらも、そう感じていた。そして、まもなく、日本へ帰国する。




