トライアスロンチャレンジ
チャレンジすることは、きっと何かを心に残すことになる。それを透は、教師になる前にたくさん経験した。その話を子どもたちにすると、トライアスロンをしてみたいと言ってきた。校長に相談すると・・
総合的な学習で、トライアスロン
透が教師になって八年の歳月が流れていた。赴任校は三校目。南会津の山あいにある小さな小学校で、六年生の担任をしていた。さすがに会津若松から毎日通える距離ではない。古い教員住宅での単身赴任生活だった。
冬になれば雪が窓を叩き、朝はストーブをつけなければ指が動かない。マイナス二十度になる地域だ。そして、静かな土地だった。だが、その静けさの中に、人の温かさがあった。福島県教員には「二管内三地区」という異動の仕組みがあり、透はこの赴任で、退職までに必要な異動条件をほぼ満たせる状況になっていた。若い頃のようながむしゃらさは減った。だが、仕事への真面目さだけは相変わらずだった。
その頃、学校現場では「総合的な学習」が盛んに取り入れられていた。知識だけではなく、「生きる力」を育てる学習。透も、どうすれば子どもたちに本当に残る学びができるのか、日々考えていた。ある日の放課後だった。教室には西日が差し込み、六年生たちがまだ数人残っていた。
「みんな、“生きる力”って聞いて、どんなことを思う?」
子どもたちは顔を見合わせた。
「……」
「難しい」
「わかんねえ」
透は苦笑した。
「だよな。先生も、実はよく考えるんだ」
少し間を置いて、透は窓の外を見た。
「前にさ、先生が教師になる前、トライアスロンに挑戦した話、しただろ?」
「あー、聞きました」
「泳いで、自転車乗って、走るやつ」
男子の一人が笑った。
「そんなの俺たち楽勝だし」
「そうなの?」
透はニヤリとした。
「じゃあ……チャレンジしてみるか?」
教室が一気にざわついた。
「えっ、マジ?」
「やろうぜ!」
「面白そう!」
だが、透はすぐに手を振った。
「いやいや、待て待て。まだ校長先生にも話してないし、保護者の許可だって必要だ。今のなし。話半分だからな」
「えーっ!」
子どもたちは一斉に不満の声を上げた。
「せっかくやる気になったのに!」
「先生、自分から言ったじゃん!」
透は笑いながらも、内心では、“さすがに無理だろう”と思っていた。
ところが――。数日後、状況は思わぬ方向へ動き始める。保護者会で話をすると、
「子どもたちのためになるなら」
「ぜひ挑戦させたい」
という声が次々に上がった。さらに校長まで腕を組みながら言った。
「安全面を十分考慮できるなら、これは“生きる力”につながる学習になるかもしれませんね」
透は思わず心の中でつぶやいた。
――あらら、本当に大変なことになってきたな。職員室へ戻り、椅子に座る。窓の外には南会津の山並みが広がっていた。正直、不安はあった。事故は起こせない。子どもたちを預かる責任は重い。だが同時に、透は感じてもいた。教室だけでは学べないものがある。挑戦しなければ見えない景色がある。
そして、この土地だからこそできる学びがある。地域の人たちは協力的だった。保護者も温かかった。透は静かに息を吐いた。
「さて……本当にやるか」
その顔には、不安と同時に、どこか少年のような笑みも浮かんでいた。トライアスロンで総合的な学習。考えれば考えるほど、透は不思議と胸が高鳴ってきた。自分が実際に体験したことだからこそ、わかる。
――これは、そんなに甘いものではない。
苦しさもある。途中でやめたくなる瞬間もある。だが、その先にしか見えない景色も確かにあるのだ。透は職員室で計画書を見つめながら、小さく笑った。
「オレ、何やっているんだろうな」
だが、その表情はどこか楽しそうでもあった。正直、最初は女校長ということで少し甘く見ていた部分もあった。しかし、吉田校長は違った。子どもたちにとって何が本当に学びになるのか。教育とは何か。それを真剣に突き詰めようとしている。透は思った。
――この人、流石だな。だからこそ、絶対に事故だけは起こせなかった。透は競技内容を何度も見直した。大人と同じ距離では意味がない。子どもたちに合わせた挑戦にしなければならない。
まず水泳。学校のプールを使用することにした。一コース側から時間差でスタートし、六コース側で上がる。距離は千五百メートルではない。四百五十メートル。
次は自転車。学校周辺にはちょうど良いサイクリングコースがあった。一周二キロ。これを四周。五十キロではなく、八キロ。
そして最後のランニング。十キロではなく、四キロ。透は教室で説明した。
「よし、先生はこの内容でいきたいと思う」
すると男子たちがすぐ反応した。
「えーっ、楽勝すぎる!」
「もっと増やそうぜ!」
透は苦笑した。
「いやいや、甘く見るなって。やってみると結構きついぞ」
「でも先生、全員クリアしていいんでしょ?」
透は静かに頷いた。
「もちろん。そのためのチャレンジだからな」
教室が少し静かになった。勝ち負けではない。みんなで挑戦し、みんなでゴールする。そんな空気を、子どもたちも感じ取っていた。結局、距離はそのままで進めることになった。
そして八月末――。東北地方は、もう二学期が始まっている。まだ夏の暑さが残る朝。学校には次々と自転車が運び込まれていた。体育館脇には保護者たちが集まり、地域の人たちまで応援に来ていた。
六年生、十六人。ヘルメットを被り、不安そうな顔をする子。友達と笑い合う子。すでに闘志満々の子。その全員の目が、どこか輝いていた。
透はその姿を見ながら思った。日本国中で総合的な学習で、トライアスロンチャレンジなんかどこにもないだろ。
――本当に始まるんだな。校庭の向こうには、南会津の青い山々が広がっている。夏の終わりの風が、静かに吹き抜けた。
「よし、みんな集合!」
透が声を張る。十六人の子どもたちが、一斉に駆け寄ってきた。その表情は、不思議なくらい晴れやかだった。
当日の朝――。誰一人休むことなく、十六人全員がスタートラインに立っていた。透はその光景を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。逃げなかった。
全員が、自分でここへ来たのだ。校長、教職員、保護者、地域の人たち。たくさんの視線がプールへ向けられている。透は笛を握りしめた。
「それでは、トライアスロンチャレンジを始めます!」
子どもたちの表情が引き締まる。水泳は時間差スタートだった。事前に泳力タイムごとに順番を決めてある。
「よーい――スタート!」
ピーッ――。一番手の前島くんが勢いよくプールへ飛び込んだ。白い水しぶきが上がる。十五秒後。二人目。さらに十五秒後、三人目。子どもたちは次々と水の中へ入っていった。
最初は緊張していた子どもたちも、水に入ると表情が変わった。気持ちよさそうに泳いでいる。応援席から、
「頑張れー!」
という声が飛ぶ。透はプールサイドを歩きながら、一人一人の様子を見守った。無理をしている子はいないか。呼吸は乱れていないか。教師というより、まるで監督のようだった。やがて最後の子が六コース側へたどり着いた。水泳は全員クリア。
拍手が起きた。だが、本番はここからだった。次はバイク。サイクリングコース四周、八キロ。子どもたちはヘルメットを被り、自転車へ向かう。
「無理はするなよ!」
透は何度も声をかけた。
「経験することが大事だからな。棄権は恥じゃないぞ!」
その言葉に、子どもたちは真剣な顔で頷いた。スタートすると、最初は勢いよくペダルを漕いでいた。
しかし、一周、二周と重ねるうちに、少しずつ表情が変わっていく。足が重い。呼吸が苦しい。女子の何人かが、自転車を降りた。
「先生……ごめん、無理かも」
「いいんだ」
透はすぐに頷いた。
「よく頑張った。水飲んで、体育館で休め」
保護者たちもタオルや飲み物を準備し、子どもたちを迎える。誰も責めなかった。挑戦したこと自体を、みんなが認めていた。三周目。四周目。学校へ戻って来るたびに、棄権者は増えていった。だが、それでも走り続ける子どもたちがいた。
そして最後の種目――ラン。サイクリングコースを二周。四キロ。すでに子どもたちの足は重かった。走るというより、歯を食いしばって前へ進んでいる。
それでも――。誰も簡単には諦めなかった。透は驚いていた。正直、もっと途中でやめると思っていた。だが、子どもたちは違った。友達の姿に引っ張られ、応援の声に背中を押され、自分自身と戦っていた。
特にスポーツが得意の前島くんは、いつも先頭を走り続けていた。汗だくになりながら、それでも前を向く。その姿につられるように、男子たちも必死に食らいついていく。
「頑張れ!」
「あと少しだ!」
応援の声が校庭に響いた。そして――。最後の一人がゴールラインを越えた瞬間、大きな拍手が起きた。
無事、トライアスロンチャレンジ終了。透は深く息を吐いた。校長も。教職員も。保護者も。みんなが子どもたちを見守っていた。
結果は――八人完走。半分だった。一位は前島くん。だが、透の中では順位など、もうどうでもよかった。途中で棄権した子もいた。泣きそうな顔をした子もいた。それでも、そこには確かな学びがあった。苦しいこと。限界。仲間の存在。挑戦する怖さ。
そして、自分で決めること。もし何もしなければ、安全だったかもしれない。だが、この経験はできなかった。透は校庭に並ぶ子どもたちを見ながら思った。
――きっと、この経験は将来につながる。
大人になった時、今日の苦しさや達成感を思い出す日が来るかもしれない。夕方の南会津に、涼しい風が吹いていた。透は静かに頭を下げた。たくさんの協力があって、ここまで来ることができた。そのことを、心から感謝していた。最後の片付けが終わる頃には、南会津の空は薄く夕焼けに染まり始めていた。校庭にはまだ子どもたちの笑い声が残っている。
「疲れたー!」
「でも楽しかった!」
そんな声を聞きながら、保護者たちも後片付けを手伝っていた。透はその光景をしばらく眺めていた。誰も大きな怪我をしなかった。事故もなかった。それだけで、肩の力が抜けるようだった。透はゆっくりと校長のもとへ向かった。吉田校長は、校庭の隅で静かに子どもたちを見守っていた。
「校長先生」
「はい?」
透は頭を下げた。
「今回、このような……無理な学習を認めてくださって、本当にありがとうございました」
吉田校長は少し驚いたように笑った。
「何を言っているんですか、滝口先生」
そして、子どもたちの方へ目を向けた。
「あの顔を見てください」
そこには、汗だくになりながらも満足そうに笑う子どもたちの姿があった。完走した子。
途中で棄権した子。友達を応援していた子。だが、どの子の顔にも、どこか誇らしさがあった。
「きっと、いい思い出になりますよ」
校長は静かに続けた。
「そして何より、“生きる力”が育まれているではありませんか」
透は黙って聞いていた。
「私は、大成功だったと思います」
その言葉に、透の胸の中で何かが少しほどけた。保護者たちも、自分の子どもの頑張る姿をずっと見ていた。地域の人たちも拍手を送っていた。学校だけではできなかった。みんなで作り上げた行事だった。
「こちらこそ、ありがとうございます」
透は自然とそう言っていた。吉田校長は頷いた。
「地域と学校が、より信頼関係を深められた行事になりましたね」
そして少し笑った。
「それに――誰も怪我をしなかった。本当に良かったです」
「はい」
透も笑った。夕方の風が、静かに校庭を吹き抜ける。子どもたちはまだ興奮した様子で話し続けていた。
「あそこきつかったよな!」
「でも最後まで走ったじゃん!」
その声を聞きながら、透はふと思った。――教育って、こういうことなのかな。テストの点だけではない。挑戦すること。仲間と支え合うこと。苦しさを知ること。自分で限界を決めないこと。そして、大人たちがそれを支えること。
夕焼けの空を見上げながら、透は静かに目を細めた。教師になって八年。少しだけ、“教育”というものが見えた気がしていた。
透は、本当に周りに恵まれた人生を歩んでいると実感する。その出来事が、この後・・・




