一枚のハガキ
そのハガキは、吉成ヒトシの兄からだった。そして、その内容は・・・
一枚のハガキ
正式な教員生活になって数年が過ぎた夏だった。夕方、山川第二小学校の仕事を終えて帰宅すると、居間から妻の声がした。
「おかえり」
「ただいま」
汗ばんだワイシャツを少し引っ張りながら、透はソファに腰を下ろした。すると妻が、一枚のハガキを差し出してきた。
「なんか今日、これ届いてたよ」
「ん?」
「知り合いなの?」
何気なく受け取る。差出人は石川県の住所だった。知らない名前だ。しかし、その苗字を見た瞬間、透の表情が変わった。
――吉成。
あれっ……。もしかして、吉成ヒトシさんの兄さんか?透は、急に胸がざわつくのを感じながら、裏面を読んだ。そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
「生前、弟がお世話になりました」
はっ……?透の目が止まる。さらに読み進めた。
「この春、弟・吉成ヒトシが亡くなりました。遺品整理をしている中で、毎年届いていた年賀状から滝口透様のお名前を知り、ご連絡させていただきました」
透は、しばらく動けなかった。
亡くなった……?
吉成さんが……?
居間には、テレビの小さな音だけが流れていた。東京で一緒に働いていた頃の記憶が、一気によみがえる。厳しい言葉。ぶっきらぼうな優しさ。飲み屋で語った将来の話。吉成さんは役者を目指していた。
「お前、教師向いてるんじゃないか」
あの時、笑いながら言ってくれた顔まで、鮮明に浮かんできた。透は、ハガキを見つめたまま俯いた。
ぽたっ――。
涙が、ハガキの端に落ちた。妻は何も言わず、静かに隣に座った。透は、小さな声で呟いた。
「……会いたかったな」
妻は少し間を置いてから、優しく言った。
「もう少しで夏休み。夏休みは、線香あげに行ってきたら?」
透は黙ったまま頷いた。窓の外では、夏の夕暮れが静かに広がっていた。
そして、夏休みに入った。透は車に荷物を積み込み、石川県へと向かった。真夏の高速道路を走りながら、透は何度も吉成ヒトシの事を思い出していた。人生に迷っていた頃。あの人は、決して器用ではなかったが、いつも真正面から向き合ってくれた。
もし、吉成さんと出会っていなかったら――。今の自分は、教師になっていただろうか。透はハンドルを握りしめながら、小さく呟いた。
「ちゃんと、お礼言わないとな……」
青空の下、車は静かに北陸へ向かって走り続けていた。
石川県の吉成家を訪ねると、立派な日本家屋だった。玄関を開けると、年配の夫婦が静かに頭を下げた。
「遠いところ、ありがとうございます」
透も深く頭を下げる。仏間へ通されると、そこには吉成ヒトシの遺影があった。少し照れたような笑顔。生前と変わらない顔だった。透は仏壇の前に座り、静かに線香を上げた。煙がゆっくりと立ちのぼる。透は目を閉じた。
――吉成さん。
胸の奥が熱くなる。しばらくして、父親が静かに言った。
「詳しいことは、ヒトシの兄がお話ししますので……」
母親も小さく頷く。
「今日は、お宿はまだですか?」
「あっ、はい。まだ決めてなくて……」
すると父親は穏やかに言った。
「こちらで手配してあります。どうぞ、ゆっくりお待ちください」
「あっ、ありがとうございます」
透は頭を下げた。案内された宿へ向かい、車を停めた瞬間、思わず固まった。
――げっ……。
見るからに高級旅館だった。広い玄関。手入れされた庭。着物姿の仲居。透は心の中で呟いた。絶対高い……。最低でも五万円はするぞ……。しかし、今さら断るわけにもいかない。
……仕方ない。
腹を決めるか。そう思いながら、ぎこちなく館内へ入った。
夕方になると、仕事を終えた吉成ヒトシの兄が宿を訪ねてきた。銀行員らしい、落ち着いた雰囲気の男性だった。
「吉成誠一と申します。この度は、遠いところ弟のためにありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
「いえ……こちらこそ、おハガキありがとうございました」
静かな空気の中、夕食会が始まった。北陸の海の幸が次々と並ぶ。新鮮な刺身。上品な椀物。失礼がないように――。
そんな兄の気遣いが、料理から伝わってくるようだった。兄は酒を少し口にしてから、静かに話し始めた。
「弟は、よく滝口さんの話をしていました」
透は驚いた。
「えっ……そうなんですか」
「はい。東京で頑張っていた頃の話を、時々」
透は小さく頭を下げた。
「こちらこそ、お世話になってました」
兄は優しく微笑んだ。
「今は、小学校の先生なんですね」
「まあ……なんとか」
そう答えながら、透はどこか照れくさかった。兄は、静かにその時のことを語り始めた。
「昨年の十一月でした――突然、東京の大学病院から電話がかかってきたんです」
「弟は……肝臓癌でした」
透は、黙って耳を傾けていた。その日のヒトシは、いつも通り銀座のカレー屋へアルバイトに向かっていた。だが、体調はかなり悪かったらしい。店に入った瞬間、同僚がヒトシの顔色を見て驚いた。
「吉成さん、今日はもう仕事はいいから、すぐ病院に行って」
「えっ……」
「とにかく今日は病院。絶対だよ」
押し切られるようにして、ヒトシは目黒の町病院へ向かった。診察室で検査結果を見た医師は、言葉を失ったという。すぐに知り合いの大学病院へ連絡が入った。そして医師は、真剣な表情で言った。
「ここでは対応できません。今からすぐ、この大学病院へ行ってください。話は通してあります」
「えっ……またですか」
ヒトシは困ったように笑いながら、大学病院へ向かった。だが、そこで待っていたのは、想像を超える現実だった。大学病院の医師は、開口一番こう告げた。
「今日から入院になります」
「……えっ、どうしてですか?」
「ご家族はどちらにいますか?」
「石川県ですけど……」
「大事なお話があります。今すぐ連絡先を教えてください」
その後、石川県の吉成家へ一本の電話が入った。
『ヒトシさんですが……残念ですが、あと一か月ほどの命です。肝臓癌の疑いがあります』
兄は、その言葉を今でも忘れられないという。詳しい話を聞くため、その日の夜、兄は石川県から飛行機で東京へ向かった。翌日、大学病院で医師から説明を受けた。
「手術をすれば、命は三か月ほど延びる可能性があります」
静かな口調だった。だが、その先に待つ結末は変わらない。それは、医師も家族も分かっていた。
「……どうしますか?」
兄は、少しだけ俯き、そして答えた。
「手術でお願いします」
たとえ数か月でもいい。少しでも長く生きてほしい。家族は、その願いに賭けた。病名は、末期の肝臓癌だった。
沈黙の臓器――。症状に気づいた時には、すでに手遅れの状態だったという。兄はそこまで話すと、一度言葉を切った。そして、小さく息を吐きながら続けた。
「……ヒトシが亡くなった後、目黒のアパートを整理していたんです」
古い本やノート、生活用品が並ぶ狭い部屋。その中で、兄は何度も名前の書かれた手紙やメモを見つけた。そこには、“滝口さん”の名前とハガキが残されていた。
「それで、あなたの住所を知ったんです」
透は、俯いたまま何も言えなかった。ただ胸の奥に、東京の片隅で一人、静かに生き続けていたヒトシの姿が浮かんでいた。石川県の吉成家で、透はヒトシの兄から静かに話を聞いていた。
「あいつはね……最後まで、医師の前では演技をしていたんです」
兄は、少し遠くを見るような目で語り始めた。手術の後、病状は一時的に安定した。
だが、ヒトシ自身は、自分の命がもう長くないことを分かっていたのだろうと兄は言った。東京の病院から、石川県の病院へ移ったのも、
「最後は故郷で過ごさせたい」
そんな家族の願いがあったからだった。病室には、独特の静けさが流れていた。ある日、担当医が病室を訪れた。
「調子はどうですか?」
その問いに、ヒトシはいつもの調子で微笑みながら答えた。
「はい、おかげさまで何ともありません」
まるで健康な人間のように、平然としていた。家族は、その様子を黙って見守っていた。本当は、そんなはずがない。身体は強い痛みに耐えていた。医師も、どこか不思議そうな表情で首を傾げていたが、本人が「大丈夫です」と言う以上、それ以上は何も言えなかった。
「では、また来ます」
そう言って医師が病室を出ていく。扉が閉まり、足音が遠ざかったのを確認した瞬間だった。
「痛い……っ、痛い……」
ヒトシは、苦しそうに顔を歪めた。その姿を見ながら、家族は何も言えなかった。医師の前では決して弱音を吐かず、最後まで気丈に振る舞おうとする。それが、ヒトシなりのこの世での最後の演技だったのだろう。
兄は静かに涙を流した。透もまた、話を聞きながら涙を止めることができなかった。
「……吉成さんらしいな……」
そう呟くのが、精一杯だった。兄の話の中で、透の心に深く残るものがあった。
「滝口さん、イタリアにいた時期があるんですか?」
突然そう聞かれ、透は少し驚いた。
「はい……ありますけど」
すると兄は、小さく頷きながら話し始めた。
「実は、あの面倒くさがりだったヒトシが、急にパスポートを取ったんです」
「えっ……吉成さんが?」
透は思わず聞き返した。学生時代のヒトシを知る透には、どうしても想像がつかなかった。
「それで、“どこ行くんだ?”って聞いたら、“ヨーロッパ”だって」
兄は、少し懐かしそうに笑った。
「ミラノとか、ベネチアにも行く予定とも言っていたな」
その言葉を聞いた瞬間だった。透の胸の奥で、何かが静かに熱くなった。吉成さんが、ヨーロッパへ行った――。あのミラノのドゥオーモ。石畳の広場。夕暮れの運河が揺れるベネチア。
透自身がかつて歩いた景色を、ヒトシもまた、自分の目で見ていた。その事実が、たまらなく嬉しかった。吉成さん、あのヨーロッパの景色を見たんだ。
本当なら、
「オレ、行ってきたぞ」
そう自慢してもよかったはずだ。なのにヒトシは、何も言わなかった。いつものように、照れくさそうに笑って、黙ったままにしていたのだろう。
「……全く、吉成さん」
透は思わず笑い、そして少しだけ目を潤ませた。知らないうちに、自分の背中を追うようにヨーロッパを旅していたヒトシ。その不器用さが、どうしようもなく愛おしく思えた。
「弟なりに、最後まで精一杯生きたと思います」
その言葉を聞いた瞬間、透の目から涙が流れた。病気がわかってから、わずか半年。しかも病院へ行った日も、普通に銀座のカレー店へアルバイトに行っていたという。
――なんか、吉成さんらしいな。透は涙を流しながら思った。無理をして、ギリギリまで平気な顔をして。――吉成さんらしい。最後まで、役者みたいに強がって。最後の最後まで、人に心配をかけまいとしていた。透には、それが吉成ヒトシ最後の演技のように思えた。
「そして、今年の四月一日……亡くなりました」
兄は深く頭を下げた。享年四十歳
「本当に、生前、弟と過ごしてくださってありがとうございました」
兄も涙を流していた。透は何も言えなかった。人の人生って、本当にわからない。そう思った。
人は、生まれてきたら必ず死ぬ。それが、いつかは、誰もしらない。ヒトシ先輩の生き様を聞き、この時代に確かに生きていることを、透は深く考えるようになった。




