事後指導 さて、どうなるか
何とか、理科の研究指定校の授業は終了した。さて、滝川指導主事は、どう出るか?
授業が終わった後、理科室には独特の静けさが残っていた。八十名もの教師たちが、小さな机と椅子に座り直している。窓の外には、会津の山々が静かに広がっていた。
透は、深く一礼した。
「本日は、私のつたない授業を見ていただき、ありがとうございました」
声が少しだけ乾いていた。ここまで来るのは簡単ではなかった。放課後になるたび、
鈴原教頭と授業の流れを何度も確認した。
子どもたちが、どこで考え、どこで止まり、どこで動くのか。何度も話し合った。発問も考えた。できる限りの事はした。だが、本番でどうなるかだけは、最後まで分からなかった。
特に「星」の単元は特殊だった。学校ごとの差が大きい。比較研究も少ない。だからこそ、指導がどう入るのか全く読めなかった。
透は覚悟していた。――やれる事は全部やった。後は、気持ちよくざっくりと斬られるだけだ。そう思っていた。質疑応答が終わる。そして、いよいよ滝川指導主事がゆっくり立ち上がった。理科室の空気が張り詰める。黒い手帳を閉じる音だけが響いた。
「では、今回の授業について、私の見解をお話しします」
透は背筋を伸ばした。
「まず、滝口先生。今回は、このような授業を提供してくださり、ありがとうございます」
――えっ?
透は一瞬、耳を疑った。厳しい指摘から始まると思っていた。だが、違った。滝川は穏やかな表情のまま続けた。
「あの……星の単元は、いいですね」
会場の教師たちが少し顔を上げる。
「これが、今後、時数を減らされる流れになっている現状を、私は個人的に残念に思っています」
静かな口調だった。しかし、不思議と理科室全体に響いていく。
「皆さん、今日の滝口先生の授業、どうでしたか?」
滝川は周囲を見渡した。
「子どもたちが、生き生きと発言していました」
「目が輝いていました」
透は戸惑っていた。
――あれ?流れが、全然違う。滝川はさらに続けた。
「それに皆さん、星にはロマンがあると思いませんか?」
会場が静まる。
「宇宙が存在する」
「でも、その先は誰にも分からない」
どこか遠くを見るような目だった。透は思った。――あれ?この指導、どこへ向かうんだ?
すると突然、滝川が笑った。
「実はですね、私、主人との最初のデートがプラネタリウムだったんです」
会場がざわついた。
「えっ?」
若い教師たちが顔を見合わせる。普段、厳しいことで有名な滝川指導主事から、まさかの惚気話である。
「星を見ると、今でもその時を思い出します」
少し照れたように笑う。理科室の空気が、一気に柔らかくなった。
「ですから今日、子どもたちがあんなに夢中になって星を見ていた姿が、とても印象的でした」
そして最後に、滝川は透を見た。
「滝口先生、素敵な授業をありがとうございました」
それで指導は終わった。理科室は妙な空気になっていた。誰も予想していなかったのである。厳しい指導主事の研究授業が、まさか“星のロマン”と“惚気話”で締めくくられるとは。
参観していた教師たちは、どこか唖然としていた。だが同時に、皆どこか笑顔だった。結果として、その研究授業は、珍しく「褒められた研究授業」となった。
夕方。教師たちも帰り、職員室にはいつもの静けさが戻っていた。その中で、鈴原教頭が湯飲みを持ちながら透に声をかけた。
「滝口先生、授業ご苦労様でした」
透は苦笑した。
「いやいや、これは山川第二小学校みんなで仕上げた授業です」
「私は代表で授業しただけです。たくさんの先生方の協力で、なんとかなりました」
鈴原は静かにうなずいた。
「でもね、滝口先生」
「四月に赴任してから、一言も不満を言わず、ずっと頑張ってきたでしょう」
透は照れくさそうに笑った。
「みんな、その姿を見てたんですよ」
「もしかすると……滝川指導主事も知ってたのかもしれませんね」
「いや、それはないでしょ」
職員室に笑いが広がる。透は窓の外を見た。山の向こうが、少し赤く染まっている。逃げなかった。大変だった。でも、最後までやり切った。そして、それは自分一人の力ではなかった。
――チームプレイの勝利だな。透はそう思った。それにしても。
「まさか、惚気話まで出るとはなあ……」
誰かが笑う。
「よっぽど星に思い入れあったんでしょうね」
職員室に、また笑い声が広がった。透は、初任の頃に指導主事から言われた言葉を時々思い出していた。――教師は三年が勝負だ。その三年をどう過ごすかで、その後の教員人生が決まる。当時は、ただ漠然と聞いていた言葉だった。だが、三年目を迎えた今、その意味が少しずつ分かるようになっていた。逃げたら、今後も逃げる道を見つける。それでは自分が苦しくなるだけだ。透はそう思った。
研究授業。高学年の複式学級。体育主任。教務主任。普通なら、一つでも大変だと言われる仕事だった。それでも透は、文句を言わなかった。いや、言えなかったのではない。言わないと決めていた。誰かがやらなければならない仕事なら、自分がやる。丸川大学でのモットーでもあった。そんな考えが、いつの間にか透の中に根を張っていた。
秋は、研究発表の季節でもある。透が理科の研究授業を行ったその年、同僚の関先生が、都市部の学校へ道徳の研究授業を参観しに行った。数日後、職員室で書類を整理していた透は、戻ってきた関先生に声をかけた。
「どうでしたか? 道徳の研究授業」
すると関先生は、少し苦笑いを浮かべながら椅子に腰を下ろした。
「それがね……実は、当日見ようとしていた授業、担任の女の先生じゃなかったの」
「えっ?」
透は思わず手を止めた。
「どうしたのかなと思ったんだけど、別の先生が授業を進めてね。とりあえず、それらしい形では終わったんだけど……なんだか雰囲気が良くなかったのよ」
「そうでしたか……」
関先生は、小さくため息をついた。
「うちは雰囲気いい学校だね。滝口さんがいるから。あははは」
冗談めかして笑ったが、その言葉の裏には、どこか本音も混じっているように透には感じられた。
研究指定校。その言葉の響きは立派だが、現場の教師たちは本当に大変だった。遅くまで教材研究をし、指導案を書き直し、授業展開を何度も練り直す。放課後の会議も増え、休日まで準備に追われることもある。教師たちは皆、真面目だった。真面目だからこそ、自分を追い込み、余裕を失っていく。すると、普段なら気にもならない小さな言葉や態度に、心が引っかかるようになる。互いに疲れている。だからこそ、ぶつかる。関先生が参観した学校も、そんな空気を抱えていたのかもしれなかった。後から聞いた話では、その日授業をする予定だった担任教師は、出勤途中に車のトラブルがあり、急きょ休むことになったらしい。
もちろん、それ自体は誰にでも起こり得ることだった。だが透は、なぜか少し胸がざわついた。その教師は、本当に大丈夫なのだろうか――。職員室の窓の外では、秋の風が静かに校庭の木々を揺らしていた。
その後のことが、関先生はずっと気になっていた。都市部にいる知り合いの教師に、それとなくあの学校の様子を聞いたらしい。すると、返ってきた言葉に関先生は言葉を失った。
――授業をしたくないから、わざと休んだんじゃないか。
そんな噂まで出ていたという。そして、その一ヶ月後一。その教師は、自ら命を絶った。数日後の休憩時間だった。関先生が、いつもより静かな表情で透の席に近づいてきた。
「滝口先生、ちょっと……この前の話なんだけど」
「はい?」
「なんか言いづらいんだけど……今、時間ある?」
透は手を止め、関先生の方を向いた。
「あの道徳研究指定校の話、しましたよね」
「ああ、はい」
関先生は、一瞬視線を落とした。そして、小さな声で言った。
「休んだ先生……自殺したの」
「えっ……」
透は言葉を失った。職員室の音が、一瞬遠くなる。たかだか、車のトラブルで仕事を休んだだけだった。もちろん本当の事情は分からない。だが、真面目な人ほど、自分を責める。周囲の期待に応えようとして、限界まで耐えてしまう。そして、追い詰められる。透は、胸の奥が重くなるのを感じた。教師が嫌なら辞めればいい。向かなかった職業だったと割り切ればいい。透は、どこかでそう考えていた。
だが、人は余裕を失うと、そんな単純な考えさえ浮かばなくなるのかもしれない。逃げることより、耐えることを選んでしまう。真面目であることが、時に人を苦しめる。透は窓の外を見た。
秋の空は高く、静かだった。会ったこともない教師だった。顔も知らない。それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。命は、一つしかない。その当たり前のことを、透は改めて考えていた。
そして、静かに心の中で手を合わせた。――ご冥福をお祈りします。
教師の仕事は、難しい。追い詰められた教師は、冷静に人生を見つめることができないこともある。さて、命とは、透はそのことについて深く考えるようになる。




