理科の研究指定校
小さな小学校に赴任した透は、五六年の複式学級を担任した。空き時間もない高学年の授業だ。そして、それだけでなく・・・・
理科の研究発表校
透にとって、第二の試練が待ち構えていた。高学年担任となったことで、理科の研究授業を担当することになったのである。会津地方では、毎年持ち回りで研究授業を行っていた。
しかし、その年は透の学校が理科の研究指定校となっていた。さらに運の悪いことに、中学年担当の教師は育休明けで、夕方には帰宅しなければならない状況だった。
自然な流れだった。
「じゃあ、高学年の滝口先生で進めます。そう報告します。」
誰かが言い、職員室の空気が静かに固まった。透は、内心では「またか」と思ったが、表情には出さなかった。しかも、今回は規模が違った。春と秋、二度の提案授業。そして秋には、会津全域から教師たちが集まるという。流石に学校側も負担の大きさを理解していたため、教職員全員でバックアップする体制が組まれた。春の提案授業は、なんとか乗り切った。だが、本番は秋だった。
放課後、教頭が透の席へやって来た。
「滝口先生、どうしますか? 秋の授業」
透は資料から顔を上げた。
「はい、なんとかします」
「いや、それはわかるんですが……どうしますか?」
教頭は少し声を落とした。教頭も透を応援していた。
「今回の理科の指導主事、滝川先生なんですが……」
そこで言葉を切る。
「あの先生、どこの会場でも切れ味の鋭い指導をするんです。正直、どんな授業をしても大変です」
透は苦笑した。
「そうですか」
そして窓の外を見た。夕暮れの校庭では、子どもたちの声がまだ響いていた。
「まあ、とりあえず考えます」
すると、教頭が少し身を乗り出した。
「それなら……」
「はい?」
「みんなが、あまり研究授業をしていない分野で挑戦してみませんか?」
「例えば?」
「星の動きとか」
透は一瞬黙った。確かに、その単元で研究授業をする学校は少ない。観察条件も難しく、授業展開も組み立てにくいからだ。
しかし――。だからこそ、やる価値がある。透の中で、何かが動いた。
「……確かに、あまり聞かないですね」
「ええ。逆にそこを攻めるんです」
透はゆっくり頷いた。
「よし……これで組み立てましょう」
教頭の表情が少し明るくなる。
「ありがとうございます。では、その線で進めましょう」
職員室の窓の外では、秋の空が静かに群青色へ変わっていった。こうして透は、会津全域の教師たちを相手にする、大きな研究授業へ向けて準備を進めていくことになった。
授業内容は、「星の動き」のまとめの授業に決まった。しかし、そのためには条件があった。子どもたち自身が、実際に夜空を見上げ、星の動きを確かめていなければならない。教科書だけでは駄目だった。本物の空を見せなければ、この授業は成立しない。
研究授業の一週間前。放課後の職員室で、透は教頭に確認した。
「いよいよ明後日の夜、子どもたちを学校に集めます」
教頭は頷いた。
「そうですね」
透は少し間を置いて聞いた。
「もし、雨だったらどうしますか?」
教頭は腕を組み、少し考えたあと静かに答えた。
「最悪、子どもたちを乗せて、浜通りのいわきまで行きます」
「えっ?」
「とにかく、星が見えるところまで連れて行きましょう」
透は思わず笑ってしまった。そこまでやるのか。しかし、その言葉には本気があった。
「明後日は晴れ予報です。今は、その線でいきましょう」
「よろしくお願いします」
透は頭を下げた。研究授業というのは、結局、一人ではできない。学校全体で支えるものなのだと、透は少しずつ理解し始めていた。
そして、星の観察当日。夜の校庭には、次々と保護者の車が小学校に入ってきた。子どもたちは、どこか遠足前のように興奮していた。
「こんばんはー!」
「先生、今日ほんとに星見えるの?」
「見えるぞ。たぶんな」
透は笑いながら答えた。保護者たちも、次々に声をかけてくれる。
「すみません、夜分にいろいろ協力してもらって」
すると、一人の保護者が笑った。
「なに言っているんですか。滝口先生のお願いだ。なんとかしますよ」
別の保護者も続けた。
「みんな、そう思っています」
透は、一瞬言葉を失った。教師になって、まだ数年。自分は必死に毎日をこなしているだけだった。だが、気づかないうちに、保護者たちとの信頼が少しずつ積み重なっていたのかもしれない。
「ありがとうございます」
透は静かに頭を下げた。
その夜。子どもたちは真っ暗な校庭に集まり、寝転びながら、夜空を見上げた。
「あっ、北斗七星!」
「先生、さっきと位置が違う!」
「あれっ、カシオペア座も、違う場所にあるな」
「北極星は、ずっと同じ場所にある。なんでかな」
秋の澄んだ空に、星々が静かに輝いていた。透は、その声を聞きながら思った。これで、ようやく授業ができる。教科書の中だけではない。子どもたちは、自分の目で確かに星の動きを見たのだ。
そして――。研究授業当日がやって来た。研究授業当日。会津全域から、およそ八十名もの理科教師たちが、この山あいの小さな小学校に集まっていた。秋の冷たい空気の中、次々と校舎へ入っていく教師たち。廊下には張り詰めたような緊張感が漂っていた。もちろん、県でも指導に厳しいことで知られる女性指導主事、滝川指導主事も、時間ぴったりに来校していた。
透は理科室の前で一礼した。
「よろしくお願いします」
滝川は小さくうなずいただけだった。手には黒い手帳。すでに観察者の目になっている。
――始まる。
透は静かに息を吐いた。授業が始まると、意外にも十五人の子どもたちは落ち着いていた。約八十人もの教師に囲まれているにもかかわらず、普段通りに手を挙げ、笑い、発言している。それが透にはありがたかった。子どもたちに助けられている。そう感じていた。
授業は後半へ入った。単元のまとめの時間だった。透は黒板の前に立った。
「みんな、教科書に出てきた北斗七星だけど、どんな動きをしたのかな?」
すると、一人の児童がすぐに声を上げた。
「先生、この前の夜、校庭で星の観察したよね」
「ああ、そうだったな。どんな動きだった?」
児童が前へ出てきた。チョークを持つと、黒板に大きく弧を描く。
「たぶん、こう」
教室の空気が少し動いた。
「あー、そうだったね」
透はうなずきながら続けた。
「じゃあ、北極星は?」
「同じ場所!」
「ずっと山の上にあった!」
「動かなかった!」
次々と声が返ってくる。
「そうか。それ、どう確認したらいいかな?」
すると子どもたちは一斉に困った顔になった。
「えー、今は、昼間だから先生、無理です」
教室に笑いが起こる。
「じゃあ、夜なら証明できる?」
「うん、できるよ」
「じゃあ、みんなで協力して、今すぐ夜にしてよ」
「先生、それは無理!」
「なんで?」
「だって明るいでしょ!」
透は少しだけ笑った。
「みんなが夜を用意できたら、先生は星を用意します」
「えー、また無理なこと言ってる」
その時だった。一人の児童が、はっとしたように顔を上げた。
「あっ、理科室のカーテンを全部閉めれば、夜になるんじゃない?」
一瞬の静寂。そして、
「そっか!」
「夜にできる!」
「閉めよう!」
子どもたちは一斉に立ち上がった。窓へ走り、八十人の教師をかき分けて、協力してカーテンを閉め始める。その様子を、滝川指導主事は無言で見つめていた。黒い手帳に、静かにペンを走らせる。教室は次第に暗くなっていく。
「先生、夜できました!」
「ありがとう。じゃあ今から、先生が星を用意します」
透は理科室の端へ歩いた。そこには、前日までに誰にも気づかれないよう準備していたものがあった。直径三メートルほどの、半球型の簡易ドーム。
授業が始まる前、透は近くの中学校から借りてきた簡易プラネタリウムを理科室の端に置いていた。透は静かに子どもたちをそこに集めさせた。
「みんな、このドームの中に集まって」
子どもたちはニコニコしながら集まっていく。真っ暗な空間。ドームの中には、子どもたちと透だけがいる。外にいる八十人の教師たちには、中の様子は残念ながら、見えない。透としてはしてやったりの気持ちだった。
もちろん、滝川指導主事にも。暗闇の中、透は静かに言った。
「今から星を出すよ」
――パチッ。
次の瞬間。天井いっぱいに、星空が広がった。
「おおーっ!!」
子どもたちの歓声が響く。
「すげー!、この前、校庭で見た星だ。」
「本物みたい!」
その声を聞いた瞬間、透の緊張が少し消えた。
透は星をゆっくり動かした。
「この前の夜、こんな動きだったよね」
北斗七星が、北極星を中心にゆっくり回っていく。
「あっ、そうそう!」
「こう動いた!」
「北極星だけ動かない!」
「なるほど。カシオペア座は反対側で、こんなふうに動いていたんだ」
子どもたちの声が暗闇に弾んだ。参観している教師たちは全く中の様子は見れない。その瞬間だった。透は感じていた。授業をしているのではない。子どもたちと一緒に、“夜空を再現している”のだと。
外にいる教師たちは、ただ静かだった。誰も言葉を発しない。理科室には、子どもたちの歓声だけが響いていた。
そして――授業終了のチャイムが鳴った。
理科の研究授業は、何とか終了した。子どもたちも精一杯、考えて授業に臨んでくれた。そして、この後、いよいよ・・・




