3-19. 発想転換
俺は、心理カウンセラーじゃない。
だが、これを『母の温蕎麦が食べたい』という顧客の要望に対する要件定義だと考えれば、身に覚えのある作業だった。
元弊社では、客先対応要員でこそなかったが、アプリを作る過程で、要件定義作業はたびたび発生した。中小IT企業は、大企業のような完全分業制にはなっていないのだ。
営業が持ってくる漠然とした顧客の要望をくみ取り、具体的な要件や仕様へと落とし込んでいく作業に比べれば、目の前に顧客本人がいて逐一質問できる環境は、ずいぶんとやりやすい。
「……先に、いくつか確認したいんだけど」
俺が切り出すと、マリーは神妙に頷いた。
「マリーは、お母さんに料理を習ったわけじゃないの?」
彼女の料理は、下ごしらえの丁寧さはもちろん、だしを取る、調味料を自分で調合するなど、かなり凝ったものだった。とても、独学だとは思えない。
「お料理は、女学校で習ったの。でも、あの頃は、演劇に熱中していたから……家の手伝いはしてなくて」
マリーはうつむいて答えた。俺は黙って頷き、次の質問に移る。
「お母さんがどんな材料や手順で蕎麦を作っていたかは、分からないってことなんだよね」
「うん。部屋を探したんだけど、レシピは見つけられなくて……」
「だから、マリーは今、だしや調味料の配合をいろいろ試して、お母さんの蕎麦つゆの味を探していると」
「そう」
「……なるほど」
この件に関して、俺にはひとつ、根本的な疑問があった。
そもそも、マリーのいう『母の温蕎麦』の具体的なレシピが、存在するのかということだ。
いままでマリーが調理をする場面は何度も見たが、彼女はいつも、小皿で味を見ながら少しずつ調味料を足していた。
調味料をすくうためにスプーンを使うことはあっても、『スプーンすりきり何杯』という使いかたはしていなかった。
そしてこれは、マリーだけの問題じゃない。
この異世界には、キッチンはかり、計量カップ、大さじ小さじといった、厳密に調味料の分量をはかるための器具がないのだ。
つまり、現代日本では当たり前の『詳細な分量が決められたレシピ』という概念そのものが、異世界には存在しない。
たとえ同一人物であっても、毎回同じ味を作りだせるものなのだろうか?
「……」
それに味覚は、視覚化や言語化ができず、記憶に残りづらい感覚だ。
特にマリーの場合、母親の死は突然だった。『この味をずっと覚えておこう』と決心し、じっくり味わって食べたことはなかったはず。
そのうえ彼女は、いままで一年間、母の味を再現しようと試行錯誤を続けていた。
これでは、オリジナルの味の記憶があいまいになってしまっている可能性が高い。
――だとしたら、マリーの探している『母の味』は、もはや彼女の中にすら存在しないことになる。そんなものを、どうやって見つければよいのか?
俺の答えはこうだ。
マリーに必要なのは、精密な味の再現ではない。これが母の味だという、納得なのだ。
「つかぬことを聞くけど。マリーは、お母さん似?」
「え? ……うん。似てるって、よく言われたけど。それが、どうかしたの?」
まあ、だろうな。親方にはぜんぜん似てないし。……となれば、俺の考えたアイデアを、実行に移せそうだった。
「マリー。まず、正直に言うね。記憶の中のつゆの味から、材料や作りかたを逆算するのは、かなり難しいと思う」
「……そうだよね」
マリーは肩を落とした。やはり彼女にも、難しいのは分かっていたのだ。しかし、それでも、探さずにはいられなかった。
「だから、発想を変えて、反対側から探そう。まずは、お母さんが買い物をしていた店を見つける。そこで何を買っていたか聞いて、同じ食材で作ってみたらどうかな?」
「……!」
異世界には、写真がない。赤の他人が、『この人が買い物に来ていませんでしたか』と聞いて回るのは難しいだろう。
しかし、おかみさんはマリーによく似ていた。しかも彼女は組合で働いていたのだから、街の商人には、顔見知りも多かったに違いない。
マリーがたずね歩けば、必ず見つかる。
そして、市場で聞き込みをし、母親の足跡を追う過程そのものが、作ったつゆを『母の味』にしてくれるはずだった。




